『落葉松』「文芸評論」 ⑱ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 2」
左千夫(千葉県成東(なるとう)町出身)が東京・本所茅場(かやば)町に牛乳搾取業を開業したのは、上京四年目の二十二年(子規が喀血し、羯南が「日本」を創刊した)二十五才の時だった。同業者中、随一の勤勉家で、同業の伊藤並根より茶の湯と和歌を習い、更に万葉調の桐の舎(きりのや)桂子(かつらこ)の歌会を紹介され、同門の岡麓を知った。
桂子は橘更世子の門人にして疲瘤(ひりゆう)(病みつかれて老衰したさま)の病あり、左千夫の魁偉を以てして対座説論す、頗る奇観なりき」と、岡麓その席に列してこれを見、手柄話とした。
牛飼が歌詠む時に世の中の
あたらしき歌大いに起る
(三十三年)左千夫
この一首は牛飼を生業とする者までが歌詠むときに、この新しい時代に新しい歌が盛んになるのである、といった気概が示されていて、左千夫の歌人としての自己形成への意識と気魄が感じられ、その出発に呼応する歌と言えよう。(文献①)
子規が既に成立していた俳句を先例として『歌よみに与える書』で「平等無差別老少も貴賤も無之候」と述べたように、一般民衆にも短歌を導入しようとして『日本』誌上に「新年雑詠」として、次のような注意事項をつけて募集発表したのは三十三年一月一日であった。
「新年は太陽暦の新年と定む。従来新年の歌を年が改まりてめでたいとか、夜明くれば春めいたとかいふが如き紋切形といふに止る。ここに特に雑詠の文字を添えたるは陳腐を脱せんがために其範囲を広くし、新年にある事は何事にあれ詠むべしとの意なり。」
これに左千夫の応募した歌三首が載った。
葦さかへし藁の軒場の鍬鎌に
しめ縄かけて年ほぎにけり
天仰ぎき富士の嶺に居て新年の
年迎えんとわれ思いにき
ゆたゆたと日かげかづら(注③)の
長かずら柱にかけし年ほぐわれは
尚、左千夫としては、三十一年四月六日の『日本』に、春園(はるぞの)の号で「題知らず」二首が掲載されている。
「新年雑詠」が発表された翌二日、左千夫は初めて子規庵に子規を尋ねた。雪膓(三十年)・岡麓・香取秀真(三十二年)に続き、歌人としては三人目であった。左千夫三十六才。子規三十三才。
ちょうど岡麓が年賀に行くと、聞き覚えのある大声が聞こえてくる。子規の室に入ると、左千夫がどっしりとあぐらをかいて、子規と話をしていた。これには麓も驚いた。二人はこの日長居をして夜十時頃まで話にはずんだ。左千夫はこのあと一月七日の第十回根岸短歌会に初参加し、以後会の重鎮となっていった。
二回目の募集短歌は「森」であった。
「森は木の多き処をいふ。林といひ木立といふも亦妨げず。実際に森を見、森を行く時の景色感情を詠むべし。机に向かって歌書を繙くの暇あらば杖を携へて森の小道を逍遙するに如かず」
二月十二日付の「森七」に山下愛花の三首が載った。
学び舎を帰る処女等菫咲く
森の下葉分け入りにけり(他三首)
愛花に続いて左千夫の三首が載った。
かつしかや市川あたり松を多み
松の森のなかに寺あり(他二首)