過去現在未来のメモリーノート 18 資料 マルクス「『経済学批判』への序言」(1859年)
「過去現在未来のメモリーノート 17 『資本論』から考える「過渡期」と「ソ連」論 20180611」への附属資料です。その1.
< 資料 > マルクス「『経済学批判』への序言」(1859年)
「私にとって明らかになり、そしてひとたび自分のものになってから私の研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単に以下のように次のように定式化することができる。
[A①] 人間は、彼の生活の社会的な生産において、一定の、必然的な、彼の意思から独立した諸関係に入りこむ、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係に入りこむ。
[A②] これらの生産諸関係の総体は社会の経済的構造を形成する。これが現実の土台であり、その上に1つの法的かる政治的な上部構造がそびえ立ち、その土台に社会的諸意識形態が対応する。
[A③] 物質的生活の生産様式が、社会的〔social〕、政治的、および精神的生活過程全般を制約する。
[A④] 人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に人間の社会的存在がその意識を規定する。
[B①] 社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それまでそれらがその内部で運動してしてきた既存の生産諸関係とそあるいはそれの法律的表現にすぎない所有諸関係と、矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展の諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎が変化するにつれて、巨大な上部構造の全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
[B②] このような諸変革を考察するにあたっては、経済的な生産諸条件に起きた自然科学的な正確さで確認できる物質的な変革と、人間がこの衝突を意識するようになりこれとたたかって決着をつける場となる、法律、政治、宗教、または哲学の諸形態、簡単に言えばイデオロギー諸形態とを、つねに区別しなければならない。
[B③] ある個人をなんであるかを判断する場合、その個人が自分をうぬぼれ描く評価には頼れないのと同様に、このような変革の時期を、その時期の意識をもとに判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾から、すなわち社会的生産諸力と生産諸関係のあいだに存在する衝突から説明しなくてはならない。
[C①] 1つの社会構成体は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発達しきらないうちは、けっして没落することはなく、また、新しいさらに高度の生産関係は、その物質的な諸条件が古い社会の胎内で孵化しきらないうちは、けっして古いものに取って代わることはない。
[C②] それだから,人間はつねに、みずからが解決できる課題だけをみずからに提起する。というのは、やや立ち入ってみるとつねにわかることだが、課題そのものが生まれるのは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、または少なくともそれらが生じつつあることが把握される場合だけだからである。
[D①] 大づかみに言って、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式が、経済的社会構成体の進歩していく諸時期として特徴づけられよう。ブルジョア的生産関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的、というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活条件から生じてくる敵対という意味である。
[D②] しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対を解決するための物質的諸条件をもつくりだす。それゆえ、この社会構成体をもって人類社会の前史は終わりを告げる。」
《 マルクス「『経済学批判』への序言」(1859年)、『『経済学批判』への序言・除雪』<科学的社会主義のための古典選書>、新日本出版社、2001年、p14~16》