『落葉松』「文芸評論」 ⑲ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 3」
左千夫の西遊途次の浜松滞在には、この愛花と左千夫の『日本』への子規選歌の連載が機縁となった、
山下愛花は豊橋の人で、家が薬局だった関係より浜松市元城町の熊谷眼科の薬局に勤めていた。
朝倉貞二(天易兒(ていじ))の主催で、内藤不二丸・下村快雨・柳本城西・佐野蓬丹・山下愛花たちで「浜松短歌会」を興した。
七月七日付で左千夫は朝倉貞二に次の様な書信を送った。
「小生などの愚見お尋ねあらんとならば願わくは名古屋短歌会なり馬酔木(後述)の課題外へ投稿して下されば選抜又は批評を致します。失敬ながら何処か一ヶ所つかまえた歌あらば云い様はどんなにまづくとも直して採ります。内容のつまらぬのを調で綾なすのが月並歌又は旧派もしきはえせ新派です。何でも始めは無茶につくるのが第一です。沢山つくってよこし給へ。少しでも新しい事をつかまえてありさえすれば手を入れて物にして載せます。それと浜松短歌会はどうしました。愛花君に逢いましたらよろしく。(要約)」
「名古屋短歌会」は岐阜の億島欣人が発起人として、三十六年二月機関誌『鵜川』を発刊し地方唯一の根岸派として左千夫より賞賛されていた。
子規に生前機関誌の発行を認められなかった根岸派としては、俳句における『ホトトギス』のような機関誌を持つ必要を感じていた。三十六年二月岡麓宅での歌会の席でその具体化を図り、左千夫・麓・蕨真・節たちを中心として六月五日『馬酔木(あしび)』第一号が発行された。子規亡き後九ヶ月目であった。左千雄は七月より九回に亘って「竹の里人」を連載した、
その頃、柳本城西(やなぎもとじようさい)は豊橋病院の外科勤務医で短歌を作り「無花果(いちじく)短歌会」を始め、互選歌集を出し、『鵜川』『馬酔木』に投稿して左千雄の選を受けていた。しかし三十七年日露戦争に軍医として出征したため、後事を託された近田常世(とこよ)は「豊橋短歌会」と改称して『甲矢(はや)』を発行していた。
沼津の槇不言舎が「沼津短歌会」を興したのもこの頃で、西遊から帰京した左千雄が三十六年一一月二六日付で祝賀の手紙を出している。名古屋、豊橋、浜松、沼津の短歌会は夫々連携して『馬酔木』を拠り所としていたが、何れも永続しなかった。
『竹の里人選歌』は三十三年一月から三十五年九月まで、子規が選んで『日本』に発表した短歌を、子規没後左千雄が編集し単行本として根岸短歌会より三十七年五月刊行された。
< 続く >