遠州古代史 銅鐸の出土村について、芝田文雄さんの考察(その2)
芝田さんの考察の続き
前回、芝田さんの考察① 遠江の銅鐸は、(都田の「銅鐸の谷」=岡ノ平集団)が原点でそこから北西にたどると小野銅鐸、船渡銅鐸が出土し、東南にたどると芳川銅鐸、木船銅鐸が出土している。つまりこの神聖なラインの上に銅鐸出土地がある。
さらに芝田さんは、この聖なるラインは、東西線もあり、船渡を中心に東西に直線を引くと、西は三ヶ日町釣・荒神山の銅鐸州土地に至り、東は豊岡村敷地の銅鐸出土地に至ると明らかにしています。
それらは主村の何次かにわたる「分村」であると芝田さんは推定しています。
では、なぜ銅鐸はそれぞれ「2個」出土する場合が多いのか?芝田さんは、こう書いています。「民族学の教えるところによると、氏族・リニージは族外婚。したがって。それらで構成する胞族(フラットリー)・部族(トライブ)は族内婚である。つまり分村は、2つの氏族またはリニージの規模で、母村から1つづつ授けられたのだろう」(p118)
これは今のところ「遠州では1カ所で銅鐸が2個出る場合が多い」理由を的確に説明していると思います。ただし、これは、「氏族は族外婚。部族は族内婚」という民族学における意味を、考古学関係者が理解できないと、何のこ?と思われるように思います。
さらに、遺跡と遺跡の「方向」「ライン」という考え方は、通常の「考古学的思考」の範囲を大きく超え、ある意味「異質」なものだと思います。
だからこそ、1979年(昭和54年)という年における、この芝田さんの重大な論考が、その後も銅鐸研究において、無視されてきたのではないでしょうか。もしこの芝田さんの論考を評価し、とりあげた論考があったら、ぜひご指摘ください。
残り1点、伊場遺跡についての提唱がありますので、次回に紹介します。
なお、この『遠江の里』の中の芝田さんの論考は、1979年だから、ぼくが浜松へ戻ってきて3年目、結婚して1年目の頃で、確かに読んだはずなのですが、まだ「銅鐸論」や「遺跡の方向論」「太陽信仰論」について不勉強で、読んでも、その内容の重大性に気づかず、頭の中を通り過ぎたようです。
1979年から34年も経って気づくとは、なんたる鈍感・怠慢!芝田さん、すみません。