雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 2010年1月1日元旦

2010年01月04日 21時20分03秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2010年1月1日元旦

 新しい年の始まりです。昨夜は、妻は介護施設(グループホーム)の「遅番」で午後8時過ぎに家に帰ってきました。今日は「夜勤」なので、夜7時からの勤務です。毎日、日替わりで勤務時間が変わるので、睡眠時間が毎日ずれてしまって、いつも眠い状態です。
 今年も今日になって年賀状をパソコンでつくり、プリンターで印刷ました。むかしはプリントゴッコで印刷だったので、たいへんでした。年賀状も最近はどうしようかなと迷うこのごろです。
 風花が舞う、寒い新春でした。

哲学の学習4 「発展」と「展開」その2

2010年01月04日 03時56分51秒 | 人間・生命・宇宙
 1月1日に書いた「哲学の学習3 「発展」と「展開」」の続きです。

 「弁証法」の例証として、植物が種から芽が出て、葉が出て、花が咲いて、実が成るとという例が書いてあるテキストもあるのですが、これは弁証法の「発展」の例にはなりません。
 なぜなら、たしかに「非可逆的変化」「不可逆的変化」であっても、これは遺伝子(DNA)に事前にプログラミングされた変化であって、「発展」ではなく「展開」と名付けるべきものです。
 「発展」は決して出発点に戻りませんが、生物の遺伝子の「展開」は有性生殖の動物で言うと精子と卵子の会合から始まって幼生からこども・大人になって、必ず精子・卵子に戻ります。戻らなければ、生物は存在できないからです。
 つまり同じ環境の下で、同じような生物がそこに適応して繁栄しているのです。

 マルクスさんの『資本論 第1巻』で言うと、市場経済と商品生産から「貨幣」が出てくるのは、必然的な「展開」の過程です。商品が発生すれば貨幣は出てきます。
 しかし、その後、「貨幣」が出てくれば「資本」が発生するかというと、これは必然的「展開」の過程ではありません。マルクスさんが『資本論』で何回も述べているように、これは「ここがロードス島だ!ここで跳べ!」という、必死の飛躍の過程なのです。跳んでも失敗して「資本」になれない場合が世界史では、多々あったのではないでしょうか。
 
 資本主義社会から社会主義社会に転化する「革命」も、必然的「展開」ではなく必ずしもそうならないという偶然性を含む「発展」ではないかと考えています。
 つまり、資本主義社会(たとえば現代日本)から社会主義社会に「転化」するのは、生物のた根から親への「必然的過程」ではなくて、偶然性や、滅亡したくないならどうしたらいいかという必死の「ここで跳べ!」という思考も、そこに大きく作用するのではないでしょうか。

 生物の進化の場合も同じだと思います。たとえば、中生代の恐竜ワールドから、新生代の哺乳類ワールドへの転換は、偶然の隕石落下を含みながら、必然的な、かならずそうなるというのではなく、偶然性も含んだ、かなり未来決定の幅のあることだろうと思います。

 さらに思考を続けていきます。

雨宮日記 2009年12月31日

2010年01月02日 04時59分11秒 | 雨宮日誌
 毎年、新年の午前0時を五社神社で迎えるので、30年以上見たことのなかったNHKテレビの「ゆく年くる年」を妻と2人で見ました。娘2人は妻の初生町の実家へ行ってましたので、2人だけで迎えた2010年でした。
 「ゆく年くる年」は12月31日の午後11時45分から1月1日の午前0時15分までの30分の番組です。ちょうど午前0時を迎える瞬間は、原爆投下された都市・広島の爆心地から1.6kmのお寺からの映像でした。アナウンサーがオバマさんのことを言っていました、2010年の新しい年明けにふさわしい番組でした。

 31日から1日にかけて、ここ何年も温かい年末年始でしたが、浜松も雪というより風花が舞う寒い新春になりました。例年どおりだと五社神社前にいたので、今年はやめて正解でした。
 年末の風邪でまだセキが少し残っています。
 では、みなさん、あけましておめでとうございます。


哲学の学習3 「発展」と「展開」

2010年01月01日 19時36分24秒 | 人間・生命・宇宙
 弁証法哲学では「発展」はきわめて重要なキー概念だと思います。発展とは、たとえば青木書店発行、森宏一さん編『哲学辞典 第4版』(1987年)の「発展}の項目(p376)ではこう書かれています。
 「変化の一形態であるが、この変化の特徴は一義的な方向をもつことである。」とし、「単純なものから複雑なものへ、低い段階から高い段階へと移りいく変化である」としている。これは正しいと思う。
 さらに「発展はたんなる量的変化ではなく、古いものが新しいものへという質的に変わることで生じる変化である」とし、その後に、重要な点を青木版『哲学辞典』は指摘していると思います。
 すなわち「繰りかえされる変化ではなく、新たな段階にのぼりいくのであって、円周をめぐる繰りかえしの変化にくらべると、変化するものがふたたび変化の出発点にもどり、またそこから始まるのではなく、変化の終点は最初の出発点より高いところにある。そしてこの高いところの出発点からつぎの変化の過程をはじめる。そこでたんなる円周上の変化とちがってラセン状に変化する」としている。
 これは正しいのですが、ここでいう「発展」ではないことろの「繰りかえされる変化」「円周をめぐる繰りかえしの変化」という概念が規定されていません。
 そのことを、生物学者の井尻正二さんは『ヘーゲル「大論理学」に学ぶ』}(築地書館、1980年)の「Ⅲ 展開と発展」(P79~p135)で、ヘーゲルが『大論理学』の第3巻「概念論」で展開した「発展」は、生物の系統発生(=進化)を述べたのではなく、生物の個体発生を述べているのであることを指摘しています。
 さらに、井尻さんは、混同されている生物進化における「発展」と、生物の個体発生とを区別し、個体発生のような。低いところから高いところへ、単純なものかた複雑なものへの場合で、かつ循環的で円周的な、出発点に戻る変化を「展開」とすることを提案しています。
 不可逆的・非可逆的な変化のなかで、出発点に戻る「展開」と、出発点に戻らない「発展」とを区別することは、きわめて重要な指摘だと思います。このことを考えていきます。

(2010年1月1日投稿)