雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 11月17日(日) 久しぶりに馬込川を歩きました

2013年11月17日 21時08分53秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月17日(日) 久しぶりに馬込川を歩きました

 「七五三」(11月15日)が過ぎて、涼しくなってきました。昔は、乳幼児の「生存率」が悪く、3歳、5歳、7歳になったことは、「よく生きてくれた」ということで、神さまへお礼に行ったんですよね。

 次女のアイさんが毎回、録画しているテレビ料理番組「グレーテルのかまど」で「ヘンゼル◇世」が言ってました。タイトルが「グレーテルのかまど」なのに、番組では、「ヘンゼル」と「かまどの声」しか出てこない、変な、いい番組です。

 「仕事で出張の多いグレーテルは、ヘンゼルの姉」という設定の「グレーテル」を一度でいいから、見たいよお。

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 久しぶりに馬込川をカメラ片手に歩いて、鳥や蝶を撮影しました。三浦橋のすぐ横の階段で、自治会の衆が「消火訓練」をしていました。

  ☆

 則子さんは、今日から本格的な「夜勤」体制に入りました。夕方4時から朝9時までの勤務です。つまり、介護施設の入居者の「夕食」と「朝食」のお世話をするという、シフトだそうです。

 たいへんだなあと思います。

 明日の朝のご飯を炊こうか、と思っていたら、次女のアイさんが「お父さん、明日、3合でいい?」と言ったので、ホッとして「いいよ」と答えました。

 でも、明日は、早く起きて、みそ汁だけは作ります。次女とぼくだけなら、寝てるんですけど。90才の、毎日、3食、規則正しい時間に食べる父がいるので、しょうがないですね。

 


雨宮日記 11月15日(金) 原因不明のネット切断

2013年11月16日 08時43分32秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月15日(金) 原因不明のネット切断

 15日(金)夜、ネットに接続しようとしたら、インターネットもメールもできなくて、慌てました。家のシステムなのか、このパソコン自体なのか?

 いま、16日朝になって再接続したら、直っていたので、原因は不明ですが、一安心。

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 かなり寒くなってきたので、「寒いよお」「寒いよお」「さみいよお」と言って、則子さんに暖かい掛け布団を出してもらいました。

 自然保育のT保育園の元職員と元園児は、寒さに強いので、ぼくはその服装を見るだけで鳥肌が立ちます。

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 久々に、高畑勲さん演出「太陽の王子 ホルスの大冒険」を手元のDVDで見ました。1968年ですから今から45年前の作品。82分。

 本のほうを以前紹介しました。 本と映像の森17 高畑勲『「ホルス」の映像表現』 2010年03月19日 04時01分04秒 | 本と映像の森 

 このアニメ映画のなかでヒルダが真っ白い雪原のなかで、雪狼に体当たりされて雪の中に倒されていくシーンは、あきらかに宮沢賢治さんの「水仙月の四日」です。

 


雨宮日記 11月14日(木) 則子さまの誕生日でしたが

2013年11月16日 08時33分39秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月14日(木) 則子さまの誕生日でしたが

 則子さんの◎◎回目の誕生日でしたが、長女に言われるまで気づきませんでした。Tさんが「私、まちに出るから何かケーキ買ってくるよ」と言って買って来てくれました。ありがとう。

 これで、3ヶ月間だけの2歳差の季節が終わり、また3歳差になりました。なかなか、差は縮まないし、追い越せないものです。

 コーヒー豆を買ってこないといけないな。このところ、湯川学博士に倣って、インスタント粉で飲んでましたから。

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 松岡正剛さんの本を再読し、さくいんを作り始めました。現代日本・日本史・日本文化論の必読文献です。ネットの「千夜千冊」は、ものすごくおもしろい。いま確認したら「1524夜」です。

 


遠州の遺跡・寺社・地名 123 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか

2013年11月16日 08時27分00秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 123 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか

 以前に書いた記事です。この続きです。

 ① 遠州の遺跡・寺社・地名 118 浜北区内野の「内野神明宮」 2013年10月30日 22時36分59秒

 ② 遠州の遺跡・寺社・地名 120 東区半田1丁目の「六所神社」 2013年11月02日 22時52分27秒

 ③ 遠州の遺跡・寺社・地名 120の2 東区半田1丁目の「六所神社」の2 2013年11月02日 22時57分21秒

 『延喜式』「神名帳」には、遠江国「長上郡」で5つの神社が掲載されています。「大歳神社・邑瀬神社・服織神社・朝日波多加神社・子倉神社」ですが、ここでは「朝日波多加神社」がどこか、考えます。
 候補になるのは、これまで掲載してきた「内野神明宮」と「半田町・六所神社」の2つの神社です。

 『浜北市史 通史 上巻』は「第3章 天宝堤と岩水寺、第2節 式内社於呂神社と岩水寺創建の頃、1 於呂神社と式内社」の中でこう考察しています。公平を期すために、省略無しで引用します。

 「朝日波多加(あさひはたかの)神社 『遠江風土記伝』ほか諸本とも内野神明宮にあてている、異説に『式社考』の半田邑説、『神社…録』の飯田村説があるが、両説とも、「波多」を渡来人秦(はた)氏の居住地と見て、半(は)田・飯(はん)田の語音からの類推と考えられる。

 しかし、既述のとおり渡来人の特殊な墳墓と考えられる積石塚古墳の所在、内野古墳群の集中からも『倭名抄』幡多(はた)郷の中心は内野辺にあったことは確実であり、式内社・朝日波多加神社も内野にあったと考えてよいだろう。同社が神明社になったのは、平安末期伊勢神宮を本家とする荘園美園御厨の形成以降のことであろう。また、県史は美園御厨に隣接して宇治乃御厨を内野神明宮にあてている。

 内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」

 (p488~489)【注:( )内は『浜北市史』のルビ】
 
 まず第1点は、神社名の「朝日」ですが、『浜北市史』は、この「朝日」についてまったく触れていません。当然、これは太陽信仰の「朝日」であって、この神社の信仰と深く係わっていると思います。通常、神社名は、地名か神名かであって、信仰内容を神社名に掲げていることの意味を深く考えるべきです。

 朝日信仰である以上、この「朝日波多加神社」は、日の出の東を向いていると考えるのが常識的です。では、そういう神社は、この「ハタ地域」にあるでしょうか。あります。それが半田町の六所神社であり、まさに小高い丘の上にあって、東に面しています。この神社の鳥居から神社に朝日が直接差し込むのです。

 それに対して、内野神名宮はどうでしょうか。内野神名宮は神社が南向き、参拝者は北向きで、朝日の出る方向とはまったく関係がありません。
 
 第2点。『浜北市史』が「内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」と述べている内容はどうでしょうか。

 六所神社の鳥居には「朝日宮」という看板が掲げられていて「千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである」と言えます。

 第3点は、この六所神社の裏山が、いま浜松医大のある「半田山」であるという点です。、まさに「ハタ地域」の真ん中にある神社です。
 内野はハタ地域の中心という推定にたよった地名論議より、確実な「ハタ地域」そのものという点でも、この六所神社の方が候補としてはベターです。

 第4点は、秦氏は渡来人の系統でいうと、主にカラ・新羅の系統であって、浜北内野の積み石塚古墳は高句麗の系統で、系統が違うという点です。

 本国の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済・加羅の4国が長期に軍事対立して戦争をしているのであって、「渡来人」という概念だけでおおざっぱに考えてはいけないのではないでしょうか。

 この地方でも「有玉伝説」で有名な坂上氏は、百済系統であって、秦氏とは系統が違います。

 「内野古墳群の集中」は誰が作ったのかは不明ですが、秦氏のものと断定するには資料が足りないと思います。

 以上4つの論点により、現在のところは「朝日波多加神社」は、半田町の「六所神社」であるとしてほぼ間違いないものと考えます。

 (2013年11月14日 わが太陽の誕生日に捧げる)

 


雨宮日記 11月13日(水) 次女と名古屋へピアノコンサート

2013年11月14日 22時32分22秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月13日(水) 次女と名古屋へピアノコンサート

 今年封切りされた、映画「さよならドビュッシー」を見て感激した、次女とボクでした。この映画に「名探偵+ピアニスト」役で出演したリアル・ピアニストの清塚信也(きよづかしんや)さんのリアルピアノコンサートに行ってきました。

 お金は少しで、時間はたっぷりあるので、JR東海道線で、浜松駅から名古屋駅まで各駅停車で行きました。午後2時40分頃浜松駅を発、名古屋駅についたのは、もう暗くなった5時前でした。

 名駅(めいえき)地下で、次女のアイさんと夕食を、山菜そば500円で食べ、アイさんは誰かへの(だれかな?)おみやげを買ってました。

 地下鉄東山線で、名古屋駅から栄駅で下車。地上へ出て、愛知県芸術劇場4Fのコンサートホールへ。

 アイさんがネットでいい席を取ってくれたので、1階の前から3列目の左から1番目と2番目の席でした。本を読みながら開会を待ちました。

 開会のブザーが鳴って会場が暗くなって…あれ…暗くなったまま、なかなか舞台が明るくなりません。その時、暗闇の中で、いきなり、「月光」ソナタの第1楽章が始まって、びっくりしました。

 うわ、なんという演出なんだ。真っ暗ななかで演奏を始めるのか! 「月光」第1楽章の途中で明るくなって、ホッとしました。

 清塚さんの指使いが全部見えて、とてもいい席です。

 びっくりしたのは、クラシックのコンサートなのに、清塚さんがマイクでしゃべって、聴衆を笑わせること!

 清塚さんの演奏は、リストのような、素晴らしく、激烈なダイナミックな演奏でした。とっても素敵な夜でした。則子さんと、この感動を分かち合えなくて残念。

 MCの時間で、かなりしゃべるし、サービス精神もすごいので、「アンコール」もなんと2回も演奏してくれました。「2曲」ではないです。2回とも、清塚さんが、自分で編曲したのかな?いろんな曲を埋め込んだ変奏で、すごかったです。

 終わったのは午後9時20分頃で、みんな、家へ帰り着くため、必死で会場を出ました。

 4800円払って、浜松=名古屋の交通費を払っても元はとれたと思います。遠鉄電車120円。東海道線片道1890円×2=3780円。名駅~栄地下鉄200円×2=400円。夕食500円。帰りのタクシー代1400円。合計で、1人5700円でした。

 東海道線「特別快速」で豊橋駅まで、それから「普通」で浜松駅まで。浜松へ着いたのは、午後11時40分過ぎで、遠鉄電車はもうないので、タクシーで帰りました。

 家へ帰り着いたのは、午後11時55分頃。疲れましたけど、いい日でした。

 

 


遠州の遺跡・寺社・地名 122の2 西区雄踏町の息神社の2

2013年11月14日 22時27分54秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 122の2 西区雄踏町の息神社の2 

 この息神社には、南北朝時代の2つの獅子頭(ししがしら)と、室町時代の7つの古面が伝わっています。獅子頭というのは獅子舞の踊りに使う木製の獅子の頭です。古面は、もちろん仮面劇で使われる、顔にかぶるお面のことですから、推測では、冬至の「能舞台」で使ったもの、あるいは能で使われることを想定して作られたか、奉納されたものということでしょうか。

 獅子頭には「永和元年乙卯十月吉日」「応安七甲寅七月一日」とあるので、永和元年は南北朝時代の北朝の年号で、西暦1375年のこと、応安七年は1374年ですから、近接する1年3ヶ月くらいの間隔で2つの獅子頭は作られたか、奉納されたことになります。

 この年代が「製作年月日」なのか「奉納予定年月日」なのかは、不明です。

    ☆

 今日、書きたいのは、能面の方です。7つの能面のうちの1つの「女面」には、なんと「いらこ里う志ん参」という文字が記されているのです。

  「いらこ里」とあるのは、この雄踏から船でそう遠い距離ではない、渥美半島の先端「伊良湖岬」の「いらこ」でしょう。だとすると、問題は「里」です。

  8世紀初頭から、それ以前の「国ー評ー里」制から「国ー郡ー里」制へ替わり、さらに「国ー郡ー郷ー里」制に変わったのが、霊亀元年(西暦715年)です。そして郷の下の単位としての「里」が廃止されたのは天平十二年(740年)ごろですから、「里」の呼称は、正式にいえば、西暦740年以前ということになります。

 「8世紀半ば以前の古面」??

 観阿弥や世阿弥による「能」自体が室町時代なのに、「8世紀の能面」というのは形容矛盾ですね。でも、室町以前でも、日本列島には踊りもあり、仮面劇もあり、たぶん「面」もあったろうと思います。

 「面」は、すべて室町時代以後の「能面」ということは言えないと思います。

    ☆

  この面も含め、7つの面の「木材の科学的検査など」、現代科学による分析をおこなっていただきたいと思います。少なくとも、この「古面」の木材年代を推測することは可能ではないでしょうか。

    ☆

  現時点で、可能な推測を言うなら、ここ雄踏の地の水軍ともつながりを持つ、渥美半島先端の「伊良湖岬」付近の「いらこ里」の女性、もしかしたら「う志ん(うしん)」という名前の女性が「女面」を作らせ、この息神社に奉納したのでは、ないでしょうか。

  「う志ん参」は「う志ん参(うしん参る)」つまり、「う志ん」が息神社にお「参」りした)と解釈していいのでは?

  この「伊良湖里」の「う志ん」は、いったい何世紀の女性なのでしょうか?何才くらいの?どんな女性だったでしょうか?

 


遠州の遺跡・寺社・地名 122 西区雄踏町の息神社

2013年11月12日 21時27分39秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 122 西区雄踏町の息神社

 バス停「宇布見浅羽」からへ → 信号 → バス停「図書館」 → 信号を南へ → 1本目の狭い道路を左(東)へ入ると、息神社です。もう少し東には、室町時代からの豪族の旧家「中村家」があります。

 「延喜式神名帳」に載っている古い神社です。南向き。

 どうして「息神社」が「おき神社」なのでしょうか?「さっぱり、わからない」と思っていたのですが、現地に行って、少し分かりました。

 神社に立っていた説明版には、祭神が「志那都比古神、志那都比メ神、宇迦之御魂神、猿田彦神、大宮比メ神」の6神とありました。

 「主神夫妻」の志那都比古神、志那都比メ神」ですが、『古事記』の「国生み」の後の「神生み」の中に「風の神、名は志那都比古神(しつなひこのかみ)を生みたまふ」とあります。

 つまり「風の神」なのです。『古事記』では、ここに1回だけ名前が出てくるだけで、いっさい伝承がありませんが、風の神なら神社名の「息神社」と合っています。

 つまり「風の息」です。松本清張さんが『風の息』という現代史に題材を取った推理ドキュメンタリーを書いています。
   
 「志那都」神夫妻については、ネットで見ても、あまり解明がないので、今日はこれで種切れです。明日は息神社に伝わる「謎の能面」、あさっては「謎の大宮姫」について書きたいと思います。


 


遠州の遺跡・寺社・地名 121 南区堤町の六所神社

2013年11月11日 20時49分24秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 121 南区堤町の六所神社

 東西を走る掛塚街道の新橋町(にっぱしちょう)信号に、サークルKとGSがあります。南へ曲がって300m走ると、右側(西側)に見えるのが六所神社です。

 南北の道に平行に南側を向いています。境内に「六所会館」があります。

 珍しいのは「木の鳥居」です。木製の鳥居というのは、お稲荷さんでは、赤く塗った木の鳥居が普通ですが、普通の神社で木製の、塗らない鳥居というのは、僕には珍しいです。

 木の方が古い?それとも石の鳥居の方が古い?わかりません。

 『浜松神社名鑑』によれば「延元二年」の創立といい、「楠正成」一族、つまり南朝方と関係があり、この神社の氏子に「小楠」が大半とありますから、由来は古いようです。

 むしろ「楠(くすのき)神社」の方が、よくわかるのですが。祭神は、アマテラス・スサノオ・イザナギ・イザナミ・ツキヨミ・ヒルコの6神ですので、神社と祭神は、あまり関連がない感じです。

 『浜松神社名鑑』によると、旧浜松市内に19神社あります。

 


遠州の遺跡・寺社・地名 119の補足 徳川家康の侵攻と曳馬城

2013年11月11日 20時44分09秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 119の補足 徳川家康の侵攻と曳馬城

 遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線2013年11月01日 22時23分59秒 | 遠州古代史 を書きましたが、以前、徳川家康と曳馬城について書いたのを思い出した。下記の通りです。

 浜松と遠州の歴史 徳川・織田・豊臣の謎を考える 3 徳川家康さんの東照宮の謎 2012年07月14日 06時09分03秒

 徳川家康と駿府城、徳川家康と江戸城についても、また時間があれば、題材はあるので書きたいと思います。


雨宮日記 11月10日(日) パソコン修復、則子ざんは「気管支炎」

2013年11月10日 22時05分18秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月10日(日) パソコン修復、則子ざんは「気管支炎」

 使用中のパソコンが壊れて(「壊した」のじゃなくて「壊れた」ことにしますので、よろしく)、古いパソコンでなんとかネットを復旧しました。源院はUSBメモリーです。物理的原因です。

 日曜日は朝から雨。昨夜も、則子さんが「暖かくするとセキが出る」と言っているので、さすがに心配になって「当番医の医者に行こう」と行って、『中日新聞』を見て、積志町のO医院を探して行きました。

 午前10時◎◎分、着いたら、自分たちだけでしたが、車でボクが待っているあいだに、何台も来ました。

 則子さんが戻ってくると「気管支炎だって」と言いました。重症ではないようなので、ちょっとホッとしました。「気管支炎」なら、誰かにうつす心配もないのかな?違います?

  ☆

 11月7日は立冬でした。つまり、「冬が始まる」ので「秋の最盛期」なのですが、温暖化現象で、夏がかなり続いて、秋は短縮されて、いきなり冬になる感じです。

 則子さんが勤めていたT保育園のイチョウも、まだ色づいていませんでした。色づかずに、散ってしまうのかも。

  ☆

 今週は、毎日「食品偽装表示」の報道でした。売る側の責任は、もちろんですが、買う側も「ブランド」志向があって、たんなる「エビ」ではイヤだという感覚があるのを反省しないといけないのでは?

 エビはエビですよね。


雨宮日記 11月5日(火) 涼しくなってきました。則子さんはカゼ?

2013年11月05日 22時20分54秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月5日(火) 涼しくなってきました。則子さんはカゼ?

 かなり涼しくなってきました。介護施設に先月から勤務し始めた則子さんは、さっそくカゼを引いたようで、昨日は「ノドが痛い」と言って早く寝ました。今日は「セキが出る」と言って、今日も早く寝ました。

 ボクは、午前中、すこし学習。午前11時半、長女のTさんをアパートから職場まで車で送る。「お腹の赤ちゃんが重たくなってきた」と言ってました。

 お昼前、家に帰って、朝、則子さんの作ったおかずで、父の昼食を準備。

 録画してあるテレビ番組をいくつか見てから消去。「NHK高校講座 熱」と「世界遺産 シーラカンス」が面白かったです。シーラカンスの標本、化石?、沼津にある「深海博物館」に見に行きたいな。

 午後2時くらいに車で外出。玄関を開けると、しょうりょうバッタの子どもがいました。生まれたてかな?寒くなると越冬するのかな?それとも卵で越冬するのかな?

 ボランテイア事務所に寄って、ボク宛の荷物を預かる。ついでに「知久屋」に行って、夕食の「お寿司」を買う。今日は手抜きで「買った夕食」ですませることにする。

 午後5時前、長女を迎えに「イトーヨーカ堂」へ車で行き、自宅まで送る。帰ったら、父の夕食は終わっていたので、一人で食べる。

 2階の2人の部屋の雨戸を閉めようとすると、西空に明るい美の女神ヴィーナス、金星が輝いていました。

 そういえば「アイソン彗星」は、これから見えるんでしょうか?忙しくて、情報収集がなかなかできません。

 少し疲れて寝ていると、則子さんが6時過ぎに帰宅した音と気配。6時20分頃、1階へ下りていって「そろそろ出掛ける?」と言う。6時半過ぎ、2人で車で原水協の会議へ出掛ける。

 会議を終え、家に帰ったら、次女が「この『タイムライン』、おもしろいよ」と言う。マイケル・クライトンのSF小説です。「ぼく、クライトンの他の本を図書館で借りてるので」と言うと、「それ見せて」というので、自立的ナノマシンをテーマにした「プレイ(上下)」を見せてあげると、読みたそうなので、「もう一度借りてくる」ことにしました。

 則子さんは、もう寝ました。カゼを引いてるので、明日朝まで起こしませんし、お布団にも近づきませんことを誓います。

 あの、でも、ちょっと、近づいてもいいですか?起こさないから。則子さんの体温を感じてみたいだけだから。

 

 

 

 


遠州の遺跡・寺社・地名 120の2 東区半田1丁目の「六所神社」の2

2013年11月02日 22時57分21秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 120の2 東区半田1丁目の「六所神社」の2

 半田山の六所神社の階段を上ると、なんと「朝日宮」と書かれています。神社自体が、つまり祭られている神さま自身が、朝日の方向を向いているのですから、「朝日宮」という表現は当然ですが。

 私たちが神社へ行って神さまを拝んでいる方向は、当然、神社の中の「本殿」で私たちの方を向いているはずの神さまとは、逆方向です。

 神社の本殿の中の神様は、当然、こちらを向いて座っている「はず」という想定だと思います。

 (なお念のために書きますが、ボクは「自然信仰」「宇宙信仰」、自然・宇宙・生命・人類への、シュバイツアーさん的な、あるいはレイチェル・カーソンさん的な「畏敬の念」は持っていますが、「宗教者」ではないので、本当に、神社の本殿の中にリアル神さまが座っているとは思っていませんので、念のため。神様リアル実在説の信心深い宗教者の皆様には、罰当たりな無宗教者で申し訳ありません。神さまは、もちろん「実在」しましたし、「実在」していますが、それは人々の「心の中に実在した」と思います。ただし「記紀神話」の神々のそれぞれは、もっと歴史的な分析が必要です。)

 もっと直接的には、日本人は(日本人以外の外人はどうなのかな?)毎年、元旦だけ「日の出」を見に行くときのように、太陽の出る方向を向いて、太陽を拝みます。

 でも、いつのころからか、直接、自然現象の「お日様」を拝むのではなく、そこにワンクッション・媒介項を入れて、「神さま」を拝むようになりました。

 そういう話も書いていこうと思います。まだまだ、いっぱい「解明」したい神さま、神社、神話などいっぱいあります。

 まだ広い浜松市内も行った事のない神社・古墳・遺跡がいっぱいありますが、浜松市内の遺跡・神社・古墳を解明するためにも、視野を浜松市内に限らず広くして、静岡県内や愛知県へも遠出をしていきたいと思います。

 


遠州の遺跡・寺社・地名 120 東区半田1丁目の「六所神社」

2013年11月02日 22時52分27秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 120 東区半田1丁目の「六所神社」
 
 飛竜バイパスを「有玉北町」信号(東に「ガスト」がある)で西へ曲がって西進、「半田町」信号(南西にセブン・イレブン)を越して、左に浜松医大の丘にかかるあたりで染地川を「宮前橋」で渡ったら、すぐ川沿いの道に左折。すぐ右に見える階段が「六所神社」です。

 神社は階段を上った上で、周りは濃い緑の森です。神社は測定すると、明らかに真東、つまり春分の日と秋分の日、太陽の日の出の方向を向いています。

 説明板はないので、家に帰ってから手元の『浜松神社名鑑』(1982年)を見ました。

 「創立年暦並に沿革は不詳なるも、鬱蒼とした樹木に被われた半田町朝日山の中腹、表参道五十段の石段を登った所に東面して鎮座し、氏子を眼下一望のもとに見霽かす位置に在り。往昔この地を覇田の郷と称し、式内朝日波多可神社は当社であると伝へられている」とあります。

 前項目「内野神明宮」との関係は、別項目で書きます。


 


雨宮日記 11月1日(金) 今日から「神無月」、出雲は「神在月」です

2013年11月01日 22時39分50秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 11月1日(金) 今日から「神無月」、出雲は「神在月」です

 今日から11月です。全国的には「神無月(かんなづき)」、出雲だけは「神在月(かみありづき)」です。

 つまり、出雲の大國主の命のもとへ、全国の「八百万(やおろず)の神さま」たちが「全員集合」で集まるので、全国的には「朝!」じゃない、「神さまがいない」のですね。

 そして全国から集まってくる神さまで、出雲は「神在月」になります。

 問題は、このイメージが古代からのものか、それとも近世~近代になってから「出雲大社」が作り上げた宣伝イメージなのか、ですね。

 ぼくが思うには、『古事記』『日本書紀』という、8世紀初頭の「日本古代国家」が作った「検定済み歴史教科書」に、堂々と「ヤマト朝廷は、出雲の大國主の尊から「権力」を「国譲り」で委譲された正当な国家である」と書いてあります。

 つまり、国譲りまでは、日本列島の支配権は「出雲」が持っていたと、公式に書いてあるのです。

 「記紀」の根幹である「国譲り」自体を否定するなら、『古事記』『日本書紀』の根幹が「ウソ」であり「創作小説」であるとしないといけなくなり、古代史が成り立ちません。

 ぼくは「国譲り」は実際にあった事実であると思います。

 ただし、そのことと「ヤマト天皇家」との関係は、「記紀」では明確ではありません。直系、とは書いてありませんので。

 

 


遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線

2013年11月01日 22時23分59秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線

 神社の研究はしていますが、お寺の研究は、あまりしていません。神社のことを考えるために、浜松市の中心部を見ていて発見しました。

 浜松の縄文時代を代表する遺跡である蜆塚遺跡は、古墳もあり、真横に東向きの「山神社」があることからも、縄文時代以後も、影響力をもった遺跡であると思います。

 その蜆塚遺跡=山神社から春分・秋分の日の出の方向、真東に東西線を引いていくと、西から「宗源院」「西来院」「普済寺」と3つのお寺を通っています。

 地図を見てもらえばわかりますが、3つのお寺とも「かろうじて、かすめて」いるのではなくて、3つのお寺の北端・南端は3つともほとんど同じです。

 そして、さらにまっすぐ東へ伸ばして、「中世~近世」という時代限定で考えると、当時の「曳馬城」、つまり徳川家康が侵略してくる以前の「飯尾氏」の時代のお城を通ります。

 つまり、同時代の「過去の遺跡ーお寺ーお城」が同緯度になっています。このことは偶然ではなくて、意味があることだと思います。

 家康は、浜松を占領してから、新たに、この緯度よりかなり南へ「浜松城」を築きます。このことも、過去の伝統と決別する意味で、重要なことだと思います。

 これって、これまでに誰か気がついた人がいるという事実がありましたら、ぜひ、私までご一報ください。