そしてさらには、
日本の国号というのはいつ正式に「日本」と定まったのか?
その言葉は本当のところ「何処から」来たのか。。
「日本中央」と記された東北に眠る伝説の石碑の話も、
ココ迄来てしまうと、
必然的にそんなことに思いが馳せられていくのでございます......
次回最終回!(゜0゜)/......のハズ......
一般的に一番有力な「国号」制定説は
「701年の大宝律令による、、」
となっていますが、
それは、実は諸説あってハッキリしていません。
世界を見渡してもこんな国はなかなかないようです。
国名そのものの起源に関しても、
大陸の国々からみて東の果てに当たる日本は必然的に
「太陽が昇り来る所の国」
などと呼ばれて来ていて。
当時のアジアの強国であった中国や朝鮮半島の国々の文献にも
そのように記されていることから、
「日本」と言う国号は
外国から見た表現を用いて定められていったのではないか......
とする説が最も有力になってはいます。が、
それも「決定的な証拠づけ」は未だ出来ていなく、
やはりハッキリしないままです。
仮に、国号制定の経緯が上記の様なことであったとしても、
「日本」という国号が定められる以前......
それは「倭=わ」もしくは「大倭、大和=やまと」が、
そのまま国全体を指し示す言葉として使われていた7世紀以前......
のこの国においては、
「日本」と言う「正式な国号」は、まだ、
この国に定着していなかったという可能性は
捨てきれないのです。
特に、田村麻呂が蝦夷を平定し、
東北の地で「日本中央」と記した時には、
東北地方を始め、北海道や熊野、九州の一部など、
まだ当時の政権の支配下に入っていない、
完全に掌握が出来ていない辺境の地というのは沢山あった時代であり。
そんな中においては、これ迄記して来た様に、
古の当時の「日の本=ひのもと」といえば、
もしかしたら本州において最初に太陽が昇ってくる東の果ての地......
「東北の地を差していた」
という可能性は、やはり捨てきれないのです。
実のところ「日ノ本」が陸奥(みちのく)をさす言葉として
使われていたという事実は、
大宝律令から数百年を経た鎌倉時代後期にも記録が残っています。
北海道アイヌ民族との間の重要な交易拠点でもあった
青森県十三湊(とさみなと)の豪族の安東氏を
「日ノ本将軍=ひのもとのしょうぐん」
と呼んでいたという記録です。
その後の戦国時代においても、
豊臣秀吉の小田原攻めを記す書物には
「小田原の事は関東 日ノ本迄の置目にて候まま......」
などと記されていて。
「日ノ本」が陸奥をさす言葉として使われていたことを
示す証拠として語られることもあります。
この「日の本=東北」という説は、
捨てられない大きな可能性を有しているのです。
「日本」という国名の元が、実は東北、
蝦夷の地の呼称だった...という可能性。
史記にある通り、田村麻呂が蝦夷平定後、
もし本当に「日本中央」と大きな石に記したのであれば、
その石碑のある場所というのは「日の本の地」を治めていた
蝦夷のリーダーであるアテルイに関わる地の何処か?なのか。
「日の本の地」における「何らかの中心地」であった何処か?なのか。
もしかしたらそんな場所にあるのかもしれません。
......うーーん.....浪漫ですぅ。。 (´-`) ンー。。
「日本中央......ひのもとのまなか」
単純な4文字ですが、
それ故に古の昔から多くの人々の想像力を掻き立てて来た
大きなロマンを秘めている言葉。石碑......
とてもマニア向け!?マイナー系の話しなのに、
ソレは、もしかしたら日本という国の名前......国号......
の由来に関わる秘密を宿している話しかもしれない。
そんな歴史学においてもメジャー級の魅力を宿す大きな石碑が、
古の昔より、未だ東北の地の何処かに埋まっている......かも......
しれない......
それは浪漫と言わずして、何と言いましょう。
東北の地で起こることは「ひのもと」で起こること。
それは日本で起きていること、起ころうとしていること、
抱えていること、の雛形。
「ひのもと」が苦しめば日本全ても苦しむ。
東北の震災復興を願うことは「ひのもと」の復興を願うこと。
それは日本の復興を願うこと。
日本の飛躍を成し遂げること。
それも、僕らの浪漫と言わずして何と言いましょうか。
がんばらなきゃ。
ふぃーー ......今回長編になっちゃった。。
頑張ったよぉー。じぶーーん。。ε-(´・`) フー
まぁ、コーヒーでも一杯、
オタクな話をわざわざ読んでくれた皆さんにも。。
☆シリーズ過去記事☆
「日本中央」
「日本中央 2」
「日本中央 3」
日本の国号というのはいつ正式に「日本」と定まったのか?
その言葉は本当のところ「何処から」来たのか。。
「日本中央」と記された東北に眠る伝説の石碑の話も、
ココ迄来てしまうと、
必然的にそんなことに思いが馳せられていくのでございます......
次回最終回!(゜0゜)/......のハズ......
一般的に一番有力な「国号」制定説は
「701年の大宝律令による、、」
となっていますが、
それは、実は諸説あってハッキリしていません。
世界を見渡してもこんな国はなかなかないようです。
国名そのものの起源に関しても、
大陸の国々からみて東の果てに当たる日本は必然的に
「太陽が昇り来る所の国」
などと呼ばれて来ていて。
当時のアジアの強国であった中国や朝鮮半島の国々の文献にも
そのように記されていることから、
「日本」と言う国号は
外国から見た表現を用いて定められていったのではないか......
とする説が最も有力になってはいます。が、
それも「決定的な証拠づけ」は未だ出来ていなく、
やはりハッキリしないままです。
仮に、国号制定の経緯が上記の様なことであったとしても、
「日本」という国号が定められる以前......
それは「倭=わ」もしくは「大倭、大和=やまと」が、
そのまま国全体を指し示す言葉として使われていた7世紀以前......
のこの国においては、
「日本」と言う「正式な国号」は、まだ、
この国に定着していなかったという可能性は
捨てきれないのです。
特に、田村麻呂が蝦夷を平定し、
東北の地で「日本中央」と記した時には、
東北地方を始め、北海道や熊野、九州の一部など、
まだ当時の政権の支配下に入っていない、
完全に掌握が出来ていない辺境の地というのは沢山あった時代であり。
そんな中においては、これ迄記して来た様に、
古の当時の「日の本=ひのもと」といえば、
もしかしたら本州において最初に太陽が昇ってくる東の果ての地......
「東北の地を差していた」
という可能性は、やはり捨てきれないのです。
実のところ「日ノ本」が陸奥(みちのく)をさす言葉として
使われていたという事実は、
大宝律令から数百年を経た鎌倉時代後期にも記録が残っています。
北海道アイヌ民族との間の重要な交易拠点でもあった
青森県十三湊(とさみなと)の豪族の安東氏を
「日ノ本将軍=ひのもとのしょうぐん」
と呼んでいたという記録です。
その後の戦国時代においても、
豊臣秀吉の小田原攻めを記す書物には
「小田原の事は関東 日ノ本迄の置目にて候まま......」
などと記されていて。
「日ノ本」が陸奥をさす言葉として使われていたことを
示す証拠として語られることもあります。
この「日の本=東北」という説は、
捨てられない大きな可能性を有しているのです。
「日本」という国名の元が、実は東北、
蝦夷の地の呼称だった...という可能性。
史記にある通り、田村麻呂が蝦夷平定後、
もし本当に「日本中央」と大きな石に記したのであれば、
その石碑のある場所というのは「日の本の地」を治めていた
蝦夷のリーダーであるアテルイに関わる地の何処か?なのか。
「日の本の地」における「何らかの中心地」であった何処か?なのか。
もしかしたらそんな場所にあるのかもしれません。
......うーーん.....浪漫ですぅ。。 (´-`) ンー。。
「日本中央......ひのもとのまなか」
単純な4文字ですが、
それ故に古の昔から多くの人々の想像力を掻き立てて来た
大きなロマンを秘めている言葉。石碑......
とてもマニア向け!?マイナー系の話しなのに、
ソレは、もしかしたら日本という国の名前......国号......
の由来に関わる秘密を宿している話しかもしれない。
そんな歴史学においてもメジャー級の魅力を宿す大きな石碑が、
古の昔より、未だ東北の地の何処かに埋まっている......かも......
しれない......
それは浪漫と言わずして、何と言いましょう。
東北の地で起こることは「ひのもと」で起こること。
それは日本で起きていること、起ころうとしていること、
抱えていること、の雛形。
「ひのもと」が苦しめば日本全ても苦しむ。
東北の震災復興を願うことは「ひのもと」の復興を願うこと。
それは日本の復興を願うこと。
日本の飛躍を成し遂げること。
それも、僕らの浪漫と言わずして何と言いましょうか。
がんばらなきゃ。
ふぃーー ......今回長編になっちゃった。。
頑張ったよぉー。じぶーーん。。ε-(´・`) フー
まぁ、コーヒーでも一杯、
オタクな話をわざわざ読んでくれた皆さんにも。。
☆シリーズ過去記事☆
「日本中央」
「日本中央 2」
「日本中央 3」