絵の勉強でもしていない限り、
自分の肖像画を書くことなんてそうそうは無いと思います。
仮にそんな肖像画を描き出したとしても、
自分が見たく無い自分を余すことなく写し、
自分が嫌いに思う部分を他人の目線でありのままに描けるような人は
果たしてどれだけいるのでしょうか。
鏡で毎日自分の顔を見ていても、
ソレを自分の都合の良い様に見ないというコトすら
ナカナカ出来るコトでは無いように思います。
TVで自分を取り巻く世界のニュースを見ていても、
それが自分と深い繋がりがある、関わりがある......
という感覚で捉えるということも
ナカナカ出来ることでは無いように思います。
人はモノゴトを自分の捉えたいように捉えます。
見たいように見てしまいます。
それは、人が不完全である限り、
いつも背負っている十字架の様にも思えます。
「大人って、なんでしょうかね......」
時折交わされるそんな会話も、
不完全な人間につきまとう十字架のように思える時があります。
小さな頃はあまり交わす事が無かったこんな会話は
年齢を重ねる毎に増えていったりもしましたが、
ある地点からはその意味も価値も失い、
何かの付属品の如く宙に漂っているように感じられてもいます。
「君は大人だね。」
「お前は子供だな。」
それはいったい、
どんな物差しを持って話されているセリフなのか?
曖昧な場合も多いように思いますが、
「大人ということに大きな価値を持たせたい」
というニュアンスが溢れている時のそんなセリフには、
時折違和感を覚えるようなこともあります。
君は、その言葉を言うほど大人なのか?
君は......大人とはいったいなんだと説明するのか?
「社会に出て法的にも金銭的にも自立している人だよ」
「何かに頼らないで生きれる人だよ」
「法律から定義づけられるよね」
「子供ができれば親になって、そこから大人じゃね!?」
「調和が取れる人だよ。自己中じゃなくてさ。それが出来る人」
「何かを諦めたら......それも大人じゃね?」
......答えはなんでしょうか?
答えはあるのでしょうか?
それとも、
ソモソモ、
答えを出すべきような問題なのでしょうか?
誰かが、
誰かの優位に立ちたいがために持ち出した
レトリックの可能性は無いのでしょうか?
大人とか、子供とか、
そんな言葉が飛び交う会話の中で、
僕の心に表れる空模様はいつもこんな感じ。
ちょっとした雷雨のような、春の嵐のような。
人は自分のことが一番わかりません。
少なくとも......僕はそうです。
物心ついてから今に至るまで、
ずっと自分を紐解く旅をしているようにすら思える時があります。
「俺は何者なのか?」
考えても大きな意味は無さそうなので、
ただただ生き抜いてみようと思うばかりです。
だから僕は
「大人とは?」
と、その意味を聞かれるようなことがあれば、
「自分で自分を分かっている人なんじゃないかな......」
と答えることしかできません。
そして、産まれてからこのかた、
未だ自分で自分を分かっていない僕は
とても大人とは言えないと思います。
18の時から金銭的にも社会的に自立して生活してきました。
自分なりの親孝行も、お婆ちゃん孝行もしてきたつもりです。
兄弟も奥さんも助けて来ました。
沢山助けられても来ました。
ペットさん達にも、
幸せに暮らせる様にいつも愛情を込めてきたつもりです。
子供も......そのうちやってく来るでしょう!?
近所の皆さんの力になれる様に自分なりに努力もしてきました。
人を裏切るようなことだけはしない様に踏ん張ってきました。
職場の力になりたいとも、
故郷の力になりたいとも、
日本や世界の力になりたいとも努力しています。
悪いことも沢山して、
良いと思える?ことも沢山してきました。
でも。
僕は未だ子供のままです。
それが悪いことなのか良いことなのかは
意味のない問題のように思っています。
「自分は自分のことをどこまで分かっているのか?」
ただ一つ。
それが僕には意味のある問題です。
プラトンやアリストテレスを育てた
古代ギリシャの賢人「ソクラテス」は
「国家を堕落させる教えを広めた」
として、当時、
愛憎敬侮入り乱れる裁判で死刑の判決を受けました。
それでも支持者の多かったソクラテスの牢獄は、
彼がいつでも逃げられるように
番人が鉄格子の鍵を開けていたようなのですが、
ソクラテスは逃げずに、
毒杯を煽り亡くなったと今に伝わっています。
「汝自身を知れ」
「グノーティ セアウトン = Know thyself」
彼が自らの原点としていた有名な言葉。
大ヒットした映画「マトリックス」シリーズでも
シーンや脚本にさりげなく織り込まれていた言葉。
この言葉を大切にしていたソクラテスは、
当時、沢山の知者と称される人達の考えをよくよく調べてみたら、
実は、皆、何もわかっていないということを知ってしまいました。
これはどうしたことか?
と考えた彼が導き出したその答えは「無知の知」と呼ばれるもの......
「この人達は自分のことを知者だと思っているが、
私はそうは思ってない。
しかしこの人達も私も知者では無いという点では同じだ。
違いは、この人達は自分のことを
“実際には知者ではないのに、知者であると思っている”
のに対して、私は自分のことを
“実際に知者ではないその通りに、知者ではないと思っている”
という点だ。
自分が知者ではないというその姿を、
その姿通りに自覚しているという点が
最も大切で賢いということなのだ......」
大人とはいったいなんでしょうか。
ソクラテスならなんと答えるのでしょうか。
いつか、そっと、
聞いてみたいものです。
ご近所にある「エル・テ・ディ・カフェ」
大人なカフェで超お子ちゃま!なケーキを頼みながら
カチャカチャと打ちこんだ今回の記事。
ケーキたまらん。。(= ̄ ρ ̄=) ...オトナニナレナイノ......
自分の肖像画を書くことなんてそうそうは無いと思います。
仮にそんな肖像画を描き出したとしても、
自分が見たく無い自分を余すことなく写し、
自分が嫌いに思う部分を他人の目線でありのままに描けるような人は
果たしてどれだけいるのでしょうか。
鏡で毎日自分の顔を見ていても、
ソレを自分の都合の良い様に見ないというコトすら
ナカナカ出来るコトでは無いように思います。
TVで自分を取り巻く世界のニュースを見ていても、
それが自分と深い繋がりがある、関わりがある......
という感覚で捉えるということも
ナカナカ出来ることでは無いように思います。
人はモノゴトを自分の捉えたいように捉えます。
見たいように見てしまいます。
それは、人が不完全である限り、
いつも背負っている十字架の様にも思えます。
「大人って、なんでしょうかね......」
時折交わされるそんな会話も、
不完全な人間につきまとう十字架のように思える時があります。
小さな頃はあまり交わす事が無かったこんな会話は
年齢を重ねる毎に増えていったりもしましたが、
ある地点からはその意味も価値も失い、
何かの付属品の如く宙に漂っているように感じられてもいます。
「君は大人だね。」
「お前は子供だな。」
それはいったい、
どんな物差しを持って話されているセリフなのか?
曖昧な場合も多いように思いますが、
「大人ということに大きな価値を持たせたい」
というニュアンスが溢れている時のそんなセリフには、
時折違和感を覚えるようなこともあります。
君は、その言葉を言うほど大人なのか?
君は......大人とはいったいなんだと説明するのか?
「社会に出て法的にも金銭的にも自立している人だよ」
「何かに頼らないで生きれる人だよ」
「法律から定義づけられるよね」
「子供ができれば親になって、そこから大人じゃね!?」
「調和が取れる人だよ。自己中じゃなくてさ。それが出来る人」
「何かを諦めたら......それも大人じゃね?」
......答えはなんでしょうか?
答えはあるのでしょうか?
それとも、
ソモソモ、
答えを出すべきような問題なのでしょうか?
誰かが、
誰かの優位に立ちたいがために持ち出した
レトリックの可能性は無いのでしょうか?
大人とか、子供とか、
そんな言葉が飛び交う会話の中で、
僕の心に表れる空模様はいつもこんな感じ。
ちょっとした雷雨のような、春の嵐のような。
人は自分のことが一番わかりません。
少なくとも......僕はそうです。
物心ついてから今に至るまで、
ずっと自分を紐解く旅をしているようにすら思える時があります。
「俺は何者なのか?」
考えても大きな意味は無さそうなので、
ただただ生き抜いてみようと思うばかりです。
だから僕は
「大人とは?」
と、その意味を聞かれるようなことがあれば、
「自分で自分を分かっている人なんじゃないかな......」
と答えることしかできません。
そして、産まれてからこのかた、
未だ自分で自分を分かっていない僕は
とても大人とは言えないと思います。
18の時から金銭的にも社会的に自立して生活してきました。
自分なりの親孝行も、お婆ちゃん孝行もしてきたつもりです。
兄弟も奥さんも助けて来ました。
沢山助けられても来ました。
ペットさん達にも、
幸せに暮らせる様にいつも愛情を込めてきたつもりです。
子供も......そのうちやってく来るでしょう!?
近所の皆さんの力になれる様に自分なりに努力もしてきました。
人を裏切るようなことだけはしない様に踏ん張ってきました。
職場の力になりたいとも、
故郷の力になりたいとも、
日本や世界の力になりたいとも努力しています。
悪いことも沢山して、
良いと思える?ことも沢山してきました。
でも。
僕は未だ子供のままです。
それが悪いことなのか良いことなのかは
意味のない問題のように思っています。
「自分は自分のことをどこまで分かっているのか?」
ただ一つ。
それが僕には意味のある問題です。
プラトンやアリストテレスを育てた
古代ギリシャの賢人「ソクラテス」は
「国家を堕落させる教えを広めた」
として、当時、
愛憎敬侮入り乱れる裁判で死刑の判決を受けました。
それでも支持者の多かったソクラテスの牢獄は、
彼がいつでも逃げられるように
番人が鉄格子の鍵を開けていたようなのですが、
ソクラテスは逃げずに、
毒杯を煽り亡くなったと今に伝わっています。
「汝自身を知れ」
「グノーティ セアウトン = Know thyself」
彼が自らの原点としていた有名な言葉。
大ヒットした映画「マトリックス」シリーズでも
シーンや脚本にさりげなく織り込まれていた言葉。
この言葉を大切にしていたソクラテスは、
当時、沢山の知者と称される人達の考えをよくよく調べてみたら、
実は、皆、何もわかっていないということを知ってしまいました。
これはどうしたことか?
と考えた彼が導き出したその答えは「無知の知」と呼ばれるもの......
「この人達は自分のことを知者だと思っているが、
私はそうは思ってない。
しかしこの人達も私も知者では無いという点では同じだ。
違いは、この人達は自分のことを
“実際には知者ではないのに、知者であると思っている”
のに対して、私は自分のことを
“実際に知者ではないその通りに、知者ではないと思っている”
という点だ。
自分が知者ではないというその姿を、
その姿通りに自覚しているという点が
最も大切で賢いということなのだ......」
大人とはいったいなんでしょうか。
ソクラテスならなんと答えるのでしょうか。
いつか、そっと、
聞いてみたいものです。
ご近所にある「エル・テ・ディ・カフェ」
大人なカフェで超お子ちゃま!なケーキを頼みながら
カチャカチャと打ちこんだ今回の記事。
ケーキたまらん。。(= ̄ ρ ̄=) ...オトナニナレナイノ......