—————陳腐でアホな物語!?でしたけど......
次回は、物語の中でお地蔵さんが話していた本に関して、
少しばかり記し残しておこうかと思います。
ええ。ええ。(^^)
「二宮翁夜話(にのみやおうよばなし)」
福住正兄(ふくずみまさえ)原著。
佐々井典比古(ささいのりひろ)訳注。
江戸末期の偉人である
二宮尊徳(にのみやそんとく=二宮金次郎)さんの説話を、
弟子の福住さんがまとめたもの。
いわゆる、時代を越える名著作というものでしょうか。
写真のものは現代語訳になっていて、
他の本と比べるととても読みやすくなっていました。
個人的には心身に染み入る話も多く収められていて、
ここにもほんの一部分を備忘録程度に。
ええ。ええ。(^ν^)
==========================
——————およそ世の中に、
道を説いた書物は数え切れないほどあるが、
くせ・偏り(かたより)の無い、完全なものは一つもない。
どうしてかといえば、釈迦も孔子もみんな人なのだし、
経書といい経文といってもみんなひとの書いたものだからだ。
それゆえ私は、
書物に書いてあることのうち、不書の経——すなわち
「もの言わずして四時めぐり百物なる」
ところの天地の経文に引き当ててみて、
間違いのないものを採り、間違っているものは採らない。
——————肉眼で見えるものには限りがあるが、
心眼で見るものには限りがないからだ。
——————そもそも我が道は、
天地をもって経文とするのだから、
日輪に光明のあるうちは行われぬことがなく、
間違うことのない大道なのだ。
——————そのように、神儒仏をはじめ、
心学・性学など数えきれぬほどあるが、みんな、
大道の入口の名なのだ。
この入口が幾つあろうと、
行きつくところは必ず一つまことの道だ。
これを、別々に道があると思うのは迷いだし、
別々だと教えるのは邪説なのだ。
——————この本(とある神道家から届けられた書)
に書いてあるようなことは、
みんな神に仕える者の道であって、神の道ではないのだ。
このような書物が一万巻あろうと、国家の用をなさない。
いったい神道というものは、
国家のために常に今日の用をなすものでなければならない。
——————人道というものは人造のものだ。
だから、自然に行われるところの天理とは別のものなのだ。
天理とは、春は生じ、秋は枯れ、
火はかわいた方に燃え、
水は低い方に流れるというように、
昼も夜もまわり動いて万古から変わらないものをいうのだ。
ところが人道は、日々夜々に尽力を尽くし、
保護をして成り立つものだ。
だから天道の自然にまかせれば、たちまちすたれて行われない。
それゆえ、情欲のままにしていては、人道は立たないのだ。
——————天道は自然に行われる道で、
人道は人の立てるところの道だ。
もとより区別が判然としているものを、混同するのは間違いだ。
人道は努めて人力をもって保持し、
自然に流動する天道のために押し流されぬようにするべきなのだ。
天道にまかせておけば、堤は崩れ、川は埋まり、橋は朽ち、
家は立ち腐れとなる。
人道はこれに対して、堤を築き、川をさらえ、橋を修理し、
屋根をふいて雨のもらぬようにするのだ。
身の行いも同様であって、
天道は寝たければ寝、
遊びたければ遊び、
悔いたければ食い、
飲みたければ飲むという類だ。
人道は眠たいのを努めて働き、
遊びたいのを励まして戒め、
食いたい美食をこらえ、
飲みたい酒をひかえて明日のために物をたくわえる。
これが人道なのだ。
よく考えるが良い。
——————木の葉の落ちるのは天道だ。
人道をもって、毎日一度は掃くが良い。
あとまた落ちてきても捨てておいて、
無心の落葉に使役されぬがよい。
しかしまた、人道をゆるがせにして、
積りほうだいにしてはならない。
これが人道なのだ。
——————学者は書物を実にくわしく講義するが、
活用することを知らないで、
いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。
だから世の中の役に立たない。
ただの本読みで、
こじき坊主が経をよむのと同じことだ。
——————こういうのはばくちの類であって
運とは違うのだ。
——————これしきのことは、とか、
これくらいのことは、とかいいながら自ら許すところから、
人は過つものだ。
はじめは害がなくても、年をへる間に、
思わず知らずいつか敵となって、
悔いても及ばぬ場合に立ちいたることがある。
——————下流におるとは、
心の劣った者と一緒にいることをいう。
——————道徳の本理は
才知では理解できないものだからだろう。
——————私の死ぬのも近いうちだろう。
私を葬るのに、分を超えるでない。
墓石を立てるでない。
<福住正兄(ふくずみまさえ)補足文>
——————内に天賦の良心を養成することと、
外に天地の化育を賛成すること、この二つです。
概していえば道徳と経済です。
そこで道徳をもって体とし、経済をもって用とし、
この二つを至誠の一つで貫くのを道とします。
==========================
神奈川県、小田原市、小田原城の一角にある、
報徳二宮神社(ほうとくにのみやじんじゃ)さん。
「報徳思想」の祖神として、
偉人、二宮尊徳さんを祀っています。
僕は尊徳さんには地蔵菩薩の力やイメージを感じたりしますが......
この神社では、境内の片隅にあるこの石さんが......
かなーりのポイントと思われまして。
ええ。ええ。
コチラに伺った際には篤く手を合わさせてもらってます。
そんな神社のHPには、
こんな言葉が掲げられていました。
「経済なき道徳は戯言であり、
道徳なき経済は犯罪である」
☆関連過去記事☆
「三界の城」
「三界の城 2」
次回は、物語の中でお地蔵さんが話していた本に関して、
少しばかり記し残しておこうかと思います。
ええ。ええ。(^^)
「二宮翁夜話(にのみやおうよばなし)」
福住正兄(ふくずみまさえ)原著。
佐々井典比古(ささいのりひろ)訳注。
江戸末期の偉人である
二宮尊徳(にのみやそんとく=二宮金次郎)さんの説話を、
弟子の福住さんがまとめたもの。
いわゆる、時代を越える名著作というものでしょうか。
写真のものは現代語訳になっていて、
他の本と比べるととても読みやすくなっていました。
個人的には心身に染み入る話も多く収められていて、
ここにもほんの一部分を備忘録程度に。
ええ。ええ。(^ν^)
==========================
——————およそ世の中に、
道を説いた書物は数え切れないほどあるが、
くせ・偏り(かたより)の無い、完全なものは一つもない。
どうしてかといえば、釈迦も孔子もみんな人なのだし、
経書といい経文といってもみんなひとの書いたものだからだ。
それゆえ私は、
書物に書いてあることのうち、不書の経——すなわち
「もの言わずして四時めぐり百物なる」
ところの天地の経文に引き当ててみて、
間違いのないものを採り、間違っているものは採らない。
——————肉眼で見えるものには限りがあるが、
心眼で見るものには限りがないからだ。
——————そもそも我が道は、
天地をもって経文とするのだから、
日輪に光明のあるうちは行われぬことがなく、
間違うことのない大道なのだ。
——————そのように、神儒仏をはじめ、
心学・性学など数えきれぬほどあるが、みんな、
大道の入口の名なのだ。
この入口が幾つあろうと、
行きつくところは必ず一つまことの道だ。
これを、別々に道があると思うのは迷いだし、
別々だと教えるのは邪説なのだ。
——————この本(とある神道家から届けられた書)
に書いてあるようなことは、
みんな神に仕える者の道であって、神の道ではないのだ。
このような書物が一万巻あろうと、国家の用をなさない。
いったい神道というものは、
国家のために常に今日の用をなすものでなければならない。
——————人道というものは人造のものだ。
だから、自然に行われるところの天理とは別のものなのだ。
天理とは、春は生じ、秋は枯れ、
火はかわいた方に燃え、
水は低い方に流れるというように、
昼も夜もまわり動いて万古から変わらないものをいうのだ。
ところが人道は、日々夜々に尽力を尽くし、
保護をして成り立つものだ。
だから天道の自然にまかせれば、たちまちすたれて行われない。
それゆえ、情欲のままにしていては、人道は立たないのだ。
——————天道は自然に行われる道で、
人道は人の立てるところの道だ。
もとより区別が判然としているものを、混同するのは間違いだ。
人道は努めて人力をもって保持し、
自然に流動する天道のために押し流されぬようにするべきなのだ。
天道にまかせておけば、堤は崩れ、川は埋まり、橋は朽ち、
家は立ち腐れとなる。
人道はこれに対して、堤を築き、川をさらえ、橋を修理し、
屋根をふいて雨のもらぬようにするのだ。
身の行いも同様であって、
天道は寝たければ寝、
遊びたければ遊び、
悔いたければ食い、
飲みたければ飲むという類だ。
人道は眠たいのを努めて働き、
遊びたいのを励まして戒め、
食いたい美食をこらえ、
飲みたい酒をひかえて明日のために物をたくわえる。
これが人道なのだ。
よく考えるが良い。
——————木の葉の落ちるのは天道だ。
人道をもって、毎日一度は掃くが良い。
あとまた落ちてきても捨てておいて、
無心の落葉に使役されぬがよい。
しかしまた、人道をゆるがせにして、
積りほうだいにしてはならない。
これが人道なのだ。
——————学者は書物を実にくわしく講義するが、
活用することを知らないで、
いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。
だから世の中の役に立たない。
ただの本読みで、
こじき坊主が経をよむのと同じことだ。
——————こういうのはばくちの類であって
運とは違うのだ。
——————これしきのことは、とか、
これくらいのことは、とかいいながら自ら許すところから、
人は過つものだ。
はじめは害がなくても、年をへる間に、
思わず知らずいつか敵となって、
悔いても及ばぬ場合に立ちいたることがある。
——————下流におるとは、
心の劣った者と一緒にいることをいう。
——————道徳の本理は
才知では理解できないものだからだろう。
——————私の死ぬのも近いうちだろう。
私を葬るのに、分を超えるでない。
墓石を立てるでない。
<福住正兄(ふくずみまさえ)補足文>
——————内に天賦の良心を養成することと、
外に天地の化育を賛成すること、この二つです。
概していえば道徳と経済です。
そこで道徳をもって体とし、経済をもって用とし、
この二つを至誠の一つで貫くのを道とします。
==========================
神奈川県、小田原市、小田原城の一角にある、
報徳二宮神社(ほうとくにのみやじんじゃ)さん。
「報徳思想」の祖神として、
偉人、二宮尊徳さんを祀っています。
僕は尊徳さんには地蔵菩薩の力やイメージを感じたりしますが......
この神社では、境内の片隅にあるこの石さんが......
かなーりのポイントと思われまして。
ええ。ええ。
コチラに伺った際には篤く手を合わさせてもらってます。
そんな神社のHPには、
こんな言葉が掲げられていました。
「経済なき道徳は戯言であり、
道徳なき経済は犯罪である」
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「三界の城」
「三界の城 2」
直しておきます!
ありがとうございます!
僕もみてみます。
ありがとうございます。(^^)
そういうものなのかと、達観、諦観の気持ちになったり、
耳が痛くなって我が身を振り返ったり、
色んな思いに寄り添っていただいているような気持ちになって、心救われたり。
ありがとうございます。
日頃の生活を反省して見直します。
このお話にまつわるお話がもう少しあるので、
今度また書いてみます。
ありがとうございます。