「どんなものでもよいので、
石を一つ用意してください。
それは、今、持っていなくても、
いつか、きっと、
これだ!と思えるものが見つかります。
その石が自然と見つかった時でいいですので......」
と、その、何の変哲もない、
普通の身なりをした御人は言います。
「その石を、これも何でもいいので、
気に入った箱に入れて、蓋をして、
先祖代々の位牌の下に置いてください。
そして、二度とそれを開けないでください。
それが必要だと、そう言っています。
意味は......わかりませんが.......」
ごく普通の服装とは裏腹に、
どこか特別な空気を纏った御人を通して、
そんなことを話してくれている存在とは、それは、
表現をするなら「尊い存在」であって。
当然、そんなコトの意味もあるわけで。
わからないといっている御人も、本当は、勿論、
わかっているわけで。
そして、
そんな言葉を受けた当人も、
その意味はよく分かっていました。
それは、お葬式です。
自分を、自分の手で鎮めるのです。
そして、それは、
二度と開けてはいけない、
パンドラの箱ともなるのです。
そのことを決意させられ、
そして、
試されもするわけです。
その当人は、真っ白な、美しく創られた桐の箱を用意し、
ピカピカに磨かれた直径1センチの、
とても美しい天然水晶の小さな玉をその箱の中に納めました。
その玉は結構長い間身近に置いて、
とても大切にしてきた玉でもあって。
しかし、
その箱の蓋は二度と開けられることはない......のでしょうか。
場合によっては、
大地の中に埋めてしまうかもしれない......と。
そんなこともその当人は考えているようでした。
「自分ならざるもの」
人が苦しんでいるとき、大抵は、
この「自分ならざるもの」によって......
ということが多いような気がします。
それはコントロールの利かなくなった馬の様に手ごわくて。
背中に乗っている人は、もう、どうすることもできなくて。
荒ぶる馬に必死にしがみつき、
なだめよう、なだめよう、と乱舞乱闘。
最近もそんな人としばらく接していたことがありました。
人がなぜ自由であるのか。
それは、きっと、
自らの思考を選択することができるからです。
意思ではなく、思考です。
そんな思考の選択が出来なくなったとき、
思考は魔物へと変化します。
荒ぶる馬へと変化します。
思考とは、
自分が乗っている馬であり、
自分を助けてくれるものであり。
自分そのものではないわけで。
浮かび来るものであり、
下りてくるものであり、
降ってくるものであり、
意図すらしないものであり。
走らせて、回すものであり。
今気になっている、
直面している、
様々なコトゴトであり。
それは時に仕事のことだったり、
家族のことだったり、
友達のことだったり、
お金のことだったり、
将来のことだったり、
考えまい、考えまい、としていても、
纏わりついて、浮かんできて、消えないものであって。
それこそが、
選択できない思考というものです。
荒ぶる馬というものです。
自由とはなんなのか。
それは、ある部分、
思考を選択できるということです。
選択を取り戻す。
そうして自由を取り戻す。
そうするためには、時に、
思考より先に行動がなければ取り戻せない時があるように思います。
なだめられない思考であれば、
捨てる事が必要な時があるようにも思えます。
なだめられる、選択もできる思考を取り戻すための、
思考に先行する思考ゼロの行動。
打算ゼロの行動。
行動するという、そのコト以外には何の意図も意味も無いという行動。
そんなことが、
時に思考の選択と自由とを取り戻すキッカケとなることが
あるように思えます。
執着も、執着ということを考えた時点で蟻地獄。
それこそが執着そのもの。
だからこそ、意味も考えない行動を先にしてしまう。
それが良薬と成りえることもあって。
それは、しがみついてでも乗りたい馬なのか?
将来が不安であれば、考えないことです。
全てに行動を先行させることです。
先行をさせなくとも、
思考は行動とともにすればよいのかもしれません。
将来が見えないのであれば、
夢を持つことです。
志(こころざし)をたてることです。
適当な、いい加減な、バカみたいな、
そんな夢や志を創っておけばいいのです。
自分をだましたって......それでいいのです。
他人を傷つけたり、
困らせるようなことになるのなら、
その方が何百倍も素晴らしく、正しくもあることです。
夢や志や意思は思考とは違うものなのですから。
自分ならざる者は、
自分で殺すしかないのです。
自分ならざる者に引きずられて、
自分を失ってしまうくらいならば、
自分で封印するしかないのです。
そんなものに引きずられる生なんて、
いりません。
それは神に与えられた「自由」を失ってしまった魂です。
箱に入れて、
お葬式です。
......
......
なんの話?
助けたい、大切な人がいるからです。
いつの日か、愛する誰かが
「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」
と、見つけてもらえたら。
サブタイトルにあるように、
このブログはいつもそんな思いで書き記してます。
時に、自分など捨ててしまえ!って。
誰も悲しみやせんけんのー!って。
そんな話っす(^^)
よく行くカフェ。
東京、自由が丘の「TODAY'S SPECIAL Kitchen」
ここのお店のチーズケーキとレモネードのコンビネーションは抜群なんす。
ま、ま、いっぱい。お気楽に。お茶でも。
これだけで幸せなんす。
ええ。ええ。(*´∇`*)
石を一つ用意してください。
それは、今、持っていなくても、
いつか、きっと、
これだ!と思えるものが見つかります。
その石が自然と見つかった時でいいですので......」
と、その、何の変哲もない、
普通の身なりをした御人は言います。
「その石を、これも何でもいいので、
気に入った箱に入れて、蓋をして、
先祖代々の位牌の下に置いてください。
そして、二度とそれを開けないでください。
それが必要だと、そう言っています。
意味は......わかりませんが.......」
ごく普通の服装とは裏腹に、
どこか特別な空気を纏った御人を通して、
そんなことを話してくれている存在とは、それは、
表現をするなら「尊い存在」であって。
当然、そんなコトの意味もあるわけで。
わからないといっている御人も、本当は、勿論、
わかっているわけで。
そして、
そんな言葉を受けた当人も、
その意味はよく分かっていました。
それは、お葬式です。
自分を、自分の手で鎮めるのです。
そして、それは、
二度と開けてはいけない、
パンドラの箱ともなるのです。
そのことを決意させられ、
そして、
試されもするわけです。
その当人は、真っ白な、美しく創られた桐の箱を用意し、
ピカピカに磨かれた直径1センチの、
とても美しい天然水晶の小さな玉をその箱の中に納めました。
その玉は結構長い間身近に置いて、
とても大切にしてきた玉でもあって。
しかし、
その箱の蓋は二度と開けられることはない......のでしょうか。
場合によっては、
大地の中に埋めてしまうかもしれない......と。
そんなこともその当人は考えているようでした。
「自分ならざるもの」
人が苦しんでいるとき、大抵は、
この「自分ならざるもの」によって......
ということが多いような気がします。
それはコントロールの利かなくなった馬の様に手ごわくて。
背中に乗っている人は、もう、どうすることもできなくて。
荒ぶる馬に必死にしがみつき、
なだめよう、なだめよう、と乱舞乱闘。
最近もそんな人としばらく接していたことがありました。
人がなぜ自由であるのか。
それは、きっと、
自らの思考を選択することができるからです。
意思ではなく、思考です。
そんな思考の選択が出来なくなったとき、
思考は魔物へと変化します。
荒ぶる馬へと変化します。
思考とは、
自分が乗っている馬であり、
自分を助けてくれるものであり。
自分そのものではないわけで。
浮かび来るものであり、
下りてくるものであり、
降ってくるものであり、
意図すらしないものであり。
走らせて、回すものであり。
今気になっている、
直面している、
様々なコトゴトであり。
それは時に仕事のことだったり、
家族のことだったり、
友達のことだったり、
お金のことだったり、
将来のことだったり、
考えまい、考えまい、としていても、
纏わりついて、浮かんできて、消えないものであって。
それこそが、
選択できない思考というものです。
荒ぶる馬というものです。
自由とはなんなのか。
それは、ある部分、
思考を選択できるということです。
選択を取り戻す。
そうして自由を取り戻す。
そうするためには、時に、
思考より先に行動がなければ取り戻せない時があるように思います。
なだめられない思考であれば、
捨てる事が必要な時があるようにも思えます。
なだめられる、選択もできる思考を取り戻すための、
思考に先行する思考ゼロの行動。
打算ゼロの行動。
行動するという、そのコト以外には何の意図も意味も無いという行動。
そんなことが、
時に思考の選択と自由とを取り戻すキッカケとなることが
あるように思えます。
執着も、執着ということを考えた時点で蟻地獄。
それこそが執着そのもの。
だからこそ、意味も考えない行動を先にしてしまう。
それが良薬と成りえることもあって。
それは、しがみついてでも乗りたい馬なのか?
将来が不安であれば、考えないことです。
全てに行動を先行させることです。
先行をさせなくとも、
思考は行動とともにすればよいのかもしれません。
将来が見えないのであれば、
夢を持つことです。
志(こころざし)をたてることです。
適当な、いい加減な、バカみたいな、
そんな夢や志を創っておけばいいのです。
自分をだましたって......それでいいのです。
他人を傷つけたり、
困らせるようなことになるのなら、
その方が何百倍も素晴らしく、正しくもあることです。
夢や志や意思は思考とは違うものなのですから。
自分ならざる者は、
自分で殺すしかないのです。
自分ならざる者に引きずられて、
自分を失ってしまうくらいならば、
自分で封印するしかないのです。
そんなものに引きずられる生なんて、
いりません。
それは神に与えられた「自由」を失ってしまった魂です。
箱に入れて、
お葬式です。
......
......
なんの話?
助けたい、大切な人がいるからです。
いつの日か、愛する誰かが
「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」
と、見つけてもらえたら。
サブタイトルにあるように、
このブログはいつもそんな思いで書き記してます。
時に、自分など捨ててしまえ!って。
誰も悲しみやせんけんのー!って。
そんな話っす(^^)
よく行くカフェ。
東京、自由が丘の「TODAY'S SPECIAL Kitchen」
ここのお店のチーズケーキとレモネードのコンビネーションは抜群なんす。
ま、ま、いっぱい。お気楽に。お茶でも。
これだけで幸せなんす。
ええ。ええ。(*´∇`*)
涙が溢れました。まだ止まりません。
私も同じ様な状況だったので。。。
uzmetさんのブログは
いつも
私を助けてくれます。
ありがとうございます。
感謝しかありません。
これからも、ブログ
楽しみにしています。
北海道Oの妻
ありがとうございます。
とにかく動くしかなくて、すり減ってしまって。
コントロールするのって難しいですね・・・また今日辺りはそうなりそうな、ならなさそうな。
まぁなったら、箱に入れて出られないようにして「ソォーイ、流れてお行きなさーい」と川にでもポイってしておきます😸そのうち海について浄化されるかな!?
元気出ました😸✨ありがとうございます🎵
あとケーキ美味しそうです😻
自分ならざるものになってしまった父を
何とか助けようと思っても
話も通じない、執着を捨てない、周りが見えない。
そして何より自分が見えてない。
もうずっとです。
私が動かねば悲惨な事になるので
「威信にかけて」なんとかしようと、
日々戦い続けてます。
私だけは、光を見失わないように。
そう自分に強く思って。
今日も、頑張ります٩( 'ω' )و