小説『ジョーイの出立』
第一部、タイムズスクエアーの家、
第9章『大嵐の次の日に、すべては始まった・・・元・参謀の悲哀・・・』
・・・・・[前号までのあらすじ]、いよいよ、引越しの日が近づいてくる。それにつれて、書く人でもある、百合子は、潜在意識の中に深く秘められていた、不可解な現象の裏にある、真実に近づき、それを、今、分析したくなるのだった。・・・・・
百合子が元・海軍参謀と、心からの出会いとして、出会ったのは、大嵐の次の日であった。普通ならありえない交流が自然現象の不思議さに誘発されて、起きたのだ。その日、朝の五時ごろ起きてくると、庭の先の方で、浴衣姿の山崎氏が興味深そうに右手を見ている。
百合子の家からは見えない谷底が、そこからは見えるのだ。『なにか、非常に興味を引くことがあそこに、あるんだわ』と考えた百合子は、家からサンダルを履いて出て、彼に近づいていった。すると右手の谷底が冠水していた。街があるはずのところが一面の湖になっていた。「あ、すごい」と百合子は声を上げた。走っている車も見えなければ、通行している人も見えない。その百合子の無邪気さに感応して、そのとき、70を越す山崎氏の心が開いた。それで、そちらの家族との交流が始まった。これは、珍しいことだった。その人は固く門を閉ざしていて、町内の誰とも付き合わない人だったからだ。
あとで、事件がおきてから、真実がわかったのだけれど、その人は敗戦で深く傷ついた人だった。海軍参謀として、横須賀一帯で人々の尊敬を集める立場であったが、戦後は一転して、無職となった。自分は原爆にあってしまった人のように、被害者として声を上げることもできない。しかし、加害者として訴追されたわけでもない。A 級戦犯として、裁判を、受けたわけでもない。外地で、捕虜としてつかまった、友人の鹿島泰三氏ほどの、苦労もない。中途半端な立場で、無為徒労の日々を送る。収入はない。で、奥様が働きに出た。
場所は、昔自分が、悦楽の日々を送った、海軍将校クラブである。しかし、現在は米軍の支配を受けている場所だった。そこで、奥様は輝かしい米軍将校と恋に落ちて、アメリカへ去ってしまった。特にご主人が、陰鬱な時代だったし、奥様は当時はまだ30代であったから、それも、ありうる現象だった。だけど、静かに苦難を受容した山崎氏には、後刻、美人で性格のよい若い部下が、愛を注いできて再婚となった。
(結局は仕事を始めたのだ)
で、二人は絶対にご近所様とは付き合わず、ただ、静かに家庭菜園にせいを出していた。後妻は上品で知的で、戦時中に大学を卒業した純真な人だった。二人は、30歳以上の年の差があったが、仲良く静かに犬とともに、暮らしていた。その嵐の日まで、百合子も、ほとんど姿を見たことがなかった。自動車を駆使して遠くへお買い物に行く姿を瞥見しただけだった。
ただ、ここでは、矛盾をするような書き方だけど、事件がおきてから、特に『百合子が、真実を知覚し得るほど、賢い』とわかってからは阿修羅のように変化していったのも事実だったが。
収入は不動産業で得ていた。ただし、氏は特別なビジネス才覚のある人ではない。山崎氏が事業をうまく進められ得たのは、氏一流の頭脳作戦が功を奏していたからだ。
しかし、夫妻は、ご近所づきあいをしないがために、人のこころや、能力を見抜く目を持っていなかった。で、自分たちの収入を得るための方策として、ご近所全部の実印をもらわなければならないのだけれど、百合子には特別なうそをついた。つまり、特別に軽く見て、「市に自分の私道を寄付するから、お宅も地境地主として、この書類に実印を押してください」といったのだ。だけど、百合子は書類を詳細に見て、まったく、違う目的に利用をされることを知り、激怒したのだった。ほかの人は「あなたが協力してくれたら土地を15坪あげます」とか、言われていた。
まず、百合子の自宅に損害を与える可能性があった。少しだけでも、家の土地を盗られ、しかもその結果、台所等を狭くする可能性さえ出てきた。これは、絶対に承服できない。書類は地籍変更届というもので、山崎氏は、1200坪(=4760平米)ほどの土地をこの書類が正式に登記できれば、これから、得られるのだけれど、元の面積は、2、73平米しかなかった。変だ。おかしい。と、感じて、百合子は調べ始めたのだった。
すると、4週間以内に、氏の過去の生活、と、何でこういう企みがおきてくるかが一切わかってしまった。氏にとって、敗戦のショックは大きく、その時点で、国とか、法律というものを守る気はうせてしまったのだ。うまくやって生きるのは、別に悪いことではないと、いう居直りの思想が氏の頭の中に芽生えていた。
土地の所有者なんて、いい加減なものだと、言う観点が氏にあった。特に国有地や公有地について、それがあった。それが、氏の歴史観だったのだ。そういえば、明治維新によって旧幕藩側の諸侯は、いろいろなものを奪われた。中国では私有地の発想さえない。特に1980年代はそう伝わっていた。
で、氏は人家のない、公有地の隣に、自分の家を建て、高い塀を建てて、中を見えないようにしては、公有地をあたかも自分の屋敷内庭園のごとく、変身をさせ、そのようにして生み出した土地を、販売をするために、登記をしてマネーロンダリングしては、建売住宅を建てて、お金を得ていた人だった。つまり、ありえない幽霊土地が、地籍変更届という公の仕組みを通して、私有地となるのである。
そんな仕組みがあっという間に百合子には、わかってしまった。山崎氏が子ども扱いをしたうそをつかなければ、百合子はあれほど、怒らなかったであろう。百合子は実はプライドが高い。近所の人よりも、馬鹿にされているというのは、絶対に許されないことだったのだ。だから弁護士さんの指導の下に登記所に、内容証明を出して、自分の土地は守った。それだけの処理だったが、なんと、その後、二週間以内に、山崎氏は急死したのである。
もちろん、その後、百合子はしばらく悩んだ。切腹とか、首くくりとかの自死であろうかとか、心臓病や脳溢血などの、急病であろうかとか。だけど、自分の欲望に奉仕させるために他人を、利用して、苦しめてはいけない。特にわなにかけるようなことをしてはいけない。ご本人が戦争で、どんな、苦しみを得ようが、近所の人間である、私にはその心理部分は関係がないし・・・・・と思って、結局は、その死を、忘れることとした。ともかく、参謀というほどの人だったら、自分が相手にしている人間の頭脳レベルなど、きちんと見抜くべきだった。百合子は法律の専門家ではないが、ちょっと調べればたいていのことは理解ができた。
そして、人とは、研究し勉強するタイプほど、低姿勢なものなのだ。それを見くびってはいけない。研究する人間、努力をする人間は、自分より上の存在があることを知っている。上には上があることを知っている。だから、普段謙虚なのだ。それに、のしかかって、わなをかけるような馬鹿なこと、または安直なことは、してはいけない。それが、ここで、唯一いえることだ。
~~~~~~~~~~
その後である。百合子の身辺がおかしくなったのは。山崎氏自身から、あの嵐の次の日に、「僕は元海軍参謀で、鹿島泰三とは、親友なのですよ」と聞いていた。「あ、そうですか」と軽く答えておいたが、百合子も鹿島泰三の名前はもちろん知っていた。元陸軍参謀でシベリア抑留を経験していて、その際、何ごとかの密約を結んで帰国をしたといわれている人物だった。戦後は日本国を動かす黒幕だとか、言われていた。表向きの仕事は、大商社の重役。
百合子はそういう言葉を聴いても、『別に』とか、『ふん』と思うだけだった。どこかひどく強靭なところを秘めていて、『人間なんて、虚栄で、持っているものではない。最後は、その人の実力だから、毀誉褒貶のうち、社会的な名誉が高い人間ほど、実際には、弱い可能性があると』いうのが、他者には言わないものの、自分の心底からの信念であり、『自分は、現代日本で、最大の権力を持っている偉い人と、友人だ』と、自慢する山崎氏を、『へーっ』という驚きと、『縁って思いがけないものだなあ。こんな地味な生活をしているひとと、あんな派手な立場にいる人と、親友だなんて』と思っただけだった。
だけど、だけど、なのだ。その際、電話が盗聴をされているのには、気がついていた。そして、それは、ニューヨークでも同じだったのだ。大家の電話はすでに盗聴をされていた。山崎氏は死んでしまったので、この作業ができるはずはなく、親友だという鹿島泰三がやっている。それが65歳を過ぎてニューヨークから帰国して、のち、10年が経過してはっきりわかった。最近でも同じことが続いている。鹿島泰三は、すでに死んだはずだったが、依然として、続いているので、かれが、鹿島機関という部下を持っているという、巷のうわさは本当だと思う。
ところで、百合子は、この小説の舞台である1999年という時期には、そんなことには一切を気がつかなかった。ただ、パリで、最初の5日目にバスティーユで拉致されそうになった。それが後で思えば、『やってやれ、好機だ』と考えた鹿島泰三の企画だったとわかるのだけれど、そのときは『変だな』とは思ったものの、それ以上の謎解きにはいたらなかったのだ。それほどの危険なことは、ニューヨークでは起こらなかった。が、この不動産探しと、引越しの際に、ついにそれが顔を出スこととなった。だけど、それを語る前に、アストリアの陽気な不動産やに、戻ろう。目に見える現象は、たいていの場合は、普通のものだったから。それを丁寧に、追いかけていこう。
そして、そのニューヨークでは、15年ぐらい前に起きた海軍参謀とのいきさつは、すべて忘れていたのである。百合子は元気いっぱいであった。
なお、本日は午前零時ごろ、午後二時ごろ、そして、午後7時ごろと散会更新しています。それは、夜ご自宅でパソコンをお開きになる方には、ご迷惑だったかも知れませんが、お許しくださいませ。 2010年7月8日 雨宮舜
第一部、タイムズスクエアーの家、
第9章『大嵐の次の日に、すべては始まった・・・元・参謀の悲哀・・・』
・・・・・[前号までのあらすじ]、いよいよ、引越しの日が近づいてくる。それにつれて、書く人でもある、百合子は、潜在意識の中に深く秘められていた、不可解な現象の裏にある、真実に近づき、それを、今、分析したくなるのだった。・・・・・
百合子が元・海軍参謀と、心からの出会いとして、出会ったのは、大嵐の次の日であった。普通ならありえない交流が自然現象の不思議さに誘発されて、起きたのだ。その日、朝の五時ごろ起きてくると、庭の先の方で、浴衣姿の山崎氏が興味深そうに右手を見ている。
百合子の家からは見えない谷底が、そこからは見えるのだ。『なにか、非常に興味を引くことがあそこに、あるんだわ』と考えた百合子は、家からサンダルを履いて出て、彼に近づいていった。すると右手の谷底が冠水していた。街があるはずのところが一面の湖になっていた。「あ、すごい」と百合子は声を上げた。走っている車も見えなければ、通行している人も見えない。その百合子の無邪気さに感応して、そのとき、70を越す山崎氏の心が開いた。それで、そちらの家族との交流が始まった。これは、珍しいことだった。その人は固く門を閉ざしていて、町内の誰とも付き合わない人だったからだ。
あとで、事件がおきてから、真実がわかったのだけれど、その人は敗戦で深く傷ついた人だった。海軍参謀として、横須賀一帯で人々の尊敬を集める立場であったが、戦後は一転して、無職となった。自分は原爆にあってしまった人のように、被害者として声を上げることもできない。しかし、加害者として訴追されたわけでもない。A 級戦犯として、裁判を、受けたわけでもない。外地で、捕虜としてつかまった、友人の鹿島泰三氏ほどの、苦労もない。中途半端な立場で、無為徒労の日々を送る。収入はない。で、奥様が働きに出た。
場所は、昔自分が、悦楽の日々を送った、海軍将校クラブである。しかし、現在は米軍の支配を受けている場所だった。そこで、奥様は輝かしい米軍将校と恋に落ちて、アメリカへ去ってしまった。特にご主人が、陰鬱な時代だったし、奥様は当時はまだ30代であったから、それも、ありうる現象だった。だけど、静かに苦難を受容した山崎氏には、後刻、美人で性格のよい若い部下が、愛を注いできて再婚となった。
(結局は仕事を始めたのだ)
で、二人は絶対にご近所様とは付き合わず、ただ、静かに家庭菜園にせいを出していた。後妻は上品で知的で、戦時中に大学を卒業した純真な人だった。二人は、30歳以上の年の差があったが、仲良く静かに犬とともに、暮らしていた。その嵐の日まで、百合子も、ほとんど姿を見たことがなかった。自動車を駆使して遠くへお買い物に行く姿を瞥見しただけだった。
ただ、ここでは、矛盾をするような書き方だけど、事件がおきてから、特に『百合子が、真実を知覚し得るほど、賢い』とわかってからは阿修羅のように変化していったのも事実だったが。
収入は不動産業で得ていた。ただし、氏は特別なビジネス才覚のある人ではない。山崎氏が事業をうまく進められ得たのは、氏一流の頭脳作戦が功を奏していたからだ。
しかし、夫妻は、ご近所づきあいをしないがために、人のこころや、能力を見抜く目を持っていなかった。で、自分たちの収入を得るための方策として、ご近所全部の実印をもらわなければならないのだけれど、百合子には特別なうそをついた。つまり、特別に軽く見て、「市に自分の私道を寄付するから、お宅も地境地主として、この書類に実印を押してください」といったのだ。だけど、百合子は書類を詳細に見て、まったく、違う目的に利用をされることを知り、激怒したのだった。ほかの人は「あなたが協力してくれたら土地を15坪あげます」とか、言われていた。
まず、百合子の自宅に損害を与える可能性があった。少しだけでも、家の土地を盗られ、しかもその結果、台所等を狭くする可能性さえ出てきた。これは、絶対に承服できない。書類は地籍変更届というもので、山崎氏は、1200坪(=4760平米)ほどの土地をこの書類が正式に登記できれば、これから、得られるのだけれど、元の面積は、2、73平米しかなかった。変だ。おかしい。と、感じて、百合子は調べ始めたのだった。
すると、4週間以内に、氏の過去の生活、と、何でこういう企みがおきてくるかが一切わかってしまった。氏にとって、敗戦のショックは大きく、その時点で、国とか、法律というものを守る気はうせてしまったのだ。うまくやって生きるのは、別に悪いことではないと、いう居直りの思想が氏の頭の中に芽生えていた。
土地の所有者なんて、いい加減なものだと、言う観点が氏にあった。特に国有地や公有地について、それがあった。それが、氏の歴史観だったのだ。そういえば、明治維新によって旧幕藩側の諸侯は、いろいろなものを奪われた。中国では私有地の発想さえない。特に1980年代はそう伝わっていた。
で、氏は人家のない、公有地の隣に、自分の家を建て、高い塀を建てて、中を見えないようにしては、公有地をあたかも自分の屋敷内庭園のごとく、変身をさせ、そのようにして生み出した土地を、販売をするために、登記をしてマネーロンダリングしては、建売住宅を建てて、お金を得ていた人だった。つまり、ありえない幽霊土地が、地籍変更届という公の仕組みを通して、私有地となるのである。
そんな仕組みがあっという間に百合子には、わかってしまった。山崎氏が子ども扱いをしたうそをつかなければ、百合子はあれほど、怒らなかったであろう。百合子は実はプライドが高い。近所の人よりも、馬鹿にされているというのは、絶対に許されないことだったのだ。だから弁護士さんの指導の下に登記所に、内容証明を出して、自分の土地は守った。それだけの処理だったが、なんと、その後、二週間以内に、山崎氏は急死したのである。
もちろん、その後、百合子はしばらく悩んだ。切腹とか、首くくりとかの自死であろうかとか、心臓病や脳溢血などの、急病であろうかとか。だけど、自分の欲望に奉仕させるために他人を、利用して、苦しめてはいけない。特にわなにかけるようなことをしてはいけない。ご本人が戦争で、どんな、苦しみを得ようが、近所の人間である、私にはその心理部分は関係がないし・・・・・と思って、結局は、その死を、忘れることとした。ともかく、参謀というほどの人だったら、自分が相手にしている人間の頭脳レベルなど、きちんと見抜くべきだった。百合子は法律の専門家ではないが、ちょっと調べればたいていのことは理解ができた。
そして、人とは、研究し勉強するタイプほど、低姿勢なものなのだ。それを見くびってはいけない。研究する人間、努力をする人間は、自分より上の存在があることを知っている。上には上があることを知っている。だから、普段謙虚なのだ。それに、のしかかって、わなをかけるような馬鹿なこと、または安直なことは、してはいけない。それが、ここで、唯一いえることだ。
~~~~~~~~~~
その後である。百合子の身辺がおかしくなったのは。山崎氏自身から、あの嵐の次の日に、「僕は元海軍参謀で、鹿島泰三とは、親友なのですよ」と聞いていた。「あ、そうですか」と軽く答えておいたが、百合子も鹿島泰三の名前はもちろん知っていた。元陸軍参謀でシベリア抑留を経験していて、その際、何ごとかの密約を結んで帰国をしたといわれている人物だった。戦後は日本国を動かす黒幕だとか、言われていた。表向きの仕事は、大商社の重役。
百合子はそういう言葉を聴いても、『別に』とか、『ふん』と思うだけだった。どこかひどく強靭なところを秘めていて、『人間なんて、虚栄で、持っているものではない。最後は、その人の実力だから、毀誉褒貶のうち、社会的な名誉が高い人間ほど、実際には、弱い可能性があると』いうのが、他者には言わないものの、自分の心底からの信念であり、『自分は、現代日本で、最大の権力を持っている偉い人と、友人だ』と、自慢する山崎氏を、『へーっ』という驚きと、『縁って思いがけないものだなあ。こんな地味な生活をしているひとと、あんな派手な立場にいる人と、親友だなんて』と思っただけだった。
だけど、だけど、なのだ。その際、電話が盗聴をされているのには、気がついていた。そして、それは、ニューヨークでも同じだったのだ。大家の電話はすでに盗聴をされていた。山崎氏は死んでしまったので、この作業ができるはずはなく、親友だという鹿島泰三がやっている。それが65歳を過ぎてニューヨークから帰国して、のち、10年が経過してはっきりわかった。最近でも同じことが続いている。鹿島泰三は、すでに死んだはずだったが、依然として、続いているので、かれが、鹿島機関という部下を持っているという、巷のうわさは本当だと思う。
ところで、百合子は、この小説の舞台である1999年という時期には、そんなことには一切を気がつかなかった。ただ、パリで、最初の5日目にバスティーユで拉致されそうになった。それが後で思えば、『やってやれ、好機だ』と考えた鹿島泰三の企画だったとわかるのだけれど、そのときは『変だな』とは思ったものの、それ以上の謎解きにはいたらなかったのだ。それほどの危険なことは、ニューヨークでは起こらなかった。が、この不動産探しと、引越しの際に、ついにそれが顔を出スこととなった。だけど、それを語る前に、アストリアの陽気な不動産やに、戻ろう。目に見える現象は、たいていの場合は、普通のものだったから。それを丁寧に、追いかけていこう。
そして、そのニューヨークでは、15年ぐらい前に起きた海軍参謀とのいきさつは、すべて忘れていたのである。百合子は元気いっぱいであった。
なお、本日は午前零時ごろ、午後二時ごろ、そして、午後7時ごろと散会更新しています。それは、夜ご自宅でパソコンをお開きになる方には、ご迷惑だったかも知れませんが、お許しくださいませ。 2010年7月8日 雨宮舜