〔前回までのあらすじ〕、57歳の日本人主婦百合子は、1999年に初めて、ニューヨーク入りをする。
第一部『タイムズスクエアーの家』、第二章
・・・・・ 百合子はポロット・インスティテュートに出かけてみて、そこが版画工房ではなく、美大であることに、驚く。日本の大学の卒業証明書等の、資格用書類は、何もを持ってきていなかったが、僥倖が重なって、大学院に入学できることとなった。その詳細は、2ヵ月後に始まるであろう、次の小説『煌くプラタナス』の中で述べたい。今日は、私生活を引き続き述べる。・・・・・
うきうきした幸福な感覚で、下宿に戻ってくる。エレベーターを降りると、例の居間から、何か単純な音楽が聞こえ、興味を持ってチラッと覗いてみる。その部屋は、ドアも無い形式で、3メートルぐらいの長さの開口部があるので、簡単に中は見える。テレビがついていて画面はファイナルファンタジーであった。画面の前には、奥さんと思われる日本人女性が座っている。奥さんは若い人らしいが、挨拶する百合子に、は、はーと言う感じで、簡単に、やり過ごし、ゲームに戻った。
百合子は、この家の乱雑さが、奥さんのゲーム好きにも原因があることを知った。『ああ、現代っ子って、わがままなんだなあ』と思う。百合子のように戦前の生まれだと、子供が一才と七ヶ月だと、ゲームなんかやっていられないという思いになると思うが、現代の女性だと違うのだろう。
百合子も10(後注4)年ぐらい前の40代には、ドラゴンクエストをやった。子供が学校へ行っている間に、そっと隠れて。特に子供たちはとっくにやり終えているので、そのソフトを点検もしないので、昼間こっそりやっていることがばれないで、済んだ。が、どうしてもわからないときは、自分の子供に質問をすることができないので、友達のお子さんに電話をかけて教えてもらったりしたものだ。「あのね。どうしたら、虹の橋って架かるのかしら」とか。「こうこうこうすれば、よいんですよ」と教えてもらい、それで、やっと次の段階へ進んだが、結局のところ、ドラゴン・クエストVが完成できず、それ以来、ロールプレイングゲームには、手を染めていない。それが、体力や時間を大量に消耗するものであることが骨の髄までわかっていたから。
後日、百合子は奥さんと、もっと仲良くなって、話を交わしたりして、なぜ、奥さんがゲームに熱中をしているかの、根本原因を知ることとなる。奥さんはゲームで気を紛らわせずにはいられないほど、いらいらしていた。それは出産と子育てによって、未来が閉ざされたと感じていたからだ。
すらっとした人で、百合子より背が高く、167センチぐらいはある。日本でバレーやモダンダンスをマスターしていて、ブロードウエーでオーディションに応募し、ミュージカルの本場の舞台で、ダンサーとしてプロになることを夢見て、こちらへ、やってきた女性だった。しかし、割と簡単な交際で赤ちゃんができてしまい、その結果、実質的に結婚をすることとなって、急に生活も進路も大変更になり、そのことに戸惑い、対応ができないでいる模様だった。
しかも、ご主人は、男性としては、素敵な存在だが、さまざまな事情から、まだ、入籍もしていないとのこと。別に嫌いでもないのだけれど、好きで好きでたまらないというわけでもなくて、新婚気分で、『はい、これから、私は、がんばりますよ』という姿勢には、到底なれない模様だった。
その奥さんの気分を反映しているのか、北側の道路に面して、大きな窓があったが、それは、分厚い青緑色のカーテンで覆われていた。日光を一筋も入れない、居間で、彼女はファイナルファンタジーに熱中することとなっていた。だから、坊やも猫も相手をしてもらえなくて、つまらない。やがて二人とも、百合子の部屋に入り浸るようになった。
百合子が布巾で、自室のガラステーブルを拭くと、坊やは早速まねをする。まだ、日本語がしゃべれるという年齢ではないが、賢い坊やで、退屈しきっているので、百合子のすることは何でも真似をしてくれる。それは、かわいいが、早晩困ったことになるだろうという予感を抱いた。百合子は、非常に子供好きで、かつ、何事も断ることができないタイプだ。太宰治の小説に『饗応夫人』というのがあるが、こと子育てという意味ではまさにそれで、自分の子供が幼児期には、半分以上のエネルギーを割いて、他人のこどもの世話をしてきたみたいなものだった。
二度とそのわだちを踏まないぞと決意して、「おばちゃんね。これからお仕事があるのね。だから、ママのところへ行ってね」といいながら、ドアの外へだす。しかし、一才と七ヶ月の坊やが、そんなことを理解してくれるはずも無い。うわーんと大声で泣きだす。
お父さんもお母さんもアメリカンドリームを、達成したくてニューヨークへ来たエネルギーレベルの高い存在だ。遺伝的に、坊やもきわめてエネルギーレベルが高かった。泣いている坊やを心配して、お母さんが駆けつけてくるかと思ったが、来ない。それで、あるとき、お母さんと話し合うこととした。
決して命令調とか、説教調にならないように気をつける。でも、お母さんは百合子の言いたいことの本質をすぐ理解して、「去年、妹と母が来たときはすごくきれいだったのよ」という。「妹は母と似ているの。家事がすきなのよ」とも。百合子ははっと思い当たることがあって、「おかあさんは、妹さんをかわいがった」と聞くとそうだとの返事。「そう。妹のほうだけを母はかわいがったの」と彼女は言う。
『うわあ、これは、とても難しい問題を抱えたお嬢さんだ。偏愛をしたお母さんを嫌いだから、お母さんのやっていることを真似したり身につけたくは、なかったのだ。だから、家事は嫌い。お子さんを育てきれるかな?』と内心で思うが、質問をずらして、「もしかしたら、実家からお金を送ってもらっている」と聞いたら、「ええ、生活費を毎月、送ってもらっているの」と答えをもらった。
百合子はすばやく頭を回転させる。『二つの部屋を間貸しして、かつご主人が働いていて、かつ、実家から仕送りがある。奥さんは外出好きでもない模様なのに、なぜ、そんなにお金がいるのだろう。もしかしたら、この広いマンションは賃貸?』と思い至るが、さすがにそれを聞くのははばかられた。
でも、『なんと危なっかしい生活だろう』と、今度は、それを心配になる。『もっと、地味な小さな部屋に住んでもいいではないかなあ? この部屋は広すぎる。お金をとって、また貸しをするのはある種の賢さでもあるが、ちょっと、道を間違えているよ』とも思うが、ここを選んだのは、例のオーディショん向けの、地の利のよさがあったかららしいので、引越しなど考えられないのだろう。
『うわ、どうしたら、この問題をうまく解決できるだろう。自分が子守をしないで済むためにも、彼女が生き生きとした生活を取り戻すためにも、今のままではまずいな』と思案する百合子の前に、もう一人の下宿人が、日本から帰ってきた。
(後注4)今から10年ほど前のことなので、こういう年齢構成となる
この項、つづく。2010年7月5日 雨宮舜
第一部『タイムズスクエアーの家』、第二章
・・・・・ 百合子はポロット・インスティテュートに出かけてみて、そこが版画工房ではなく、美大であることに、驚く。日本の大学の卒業証明書等の、資格用書類は、何もを持ってきていなかったが、僥倖が重なって、大学院に入学できることとなった。その詳細は、2ヵ月後に始まるであろう、次の小説『煌くプラタナス』の中で述べたい。今日は、私生活を引き続き述べる。・・・・・
うきうきした幸福な感覚で、下宿に戻ってくる。エレベーターを降りると、例の居間から、何か単純な音楽が聞こえ、興味を持ってチラッと覗いてみる。その部屋は、ドアも無い形式で、3メートルぐらいの長さの開口部があるので、簡単に中は見える。テレビがついていて画面はファイナルファンタジーであった。画面の前には、奥さんと思われる日本人女性が座っている。奥さんは若い人らしいが、挨拶する百合子に、は、はーと言う感じで、簡単に、やり過ごし、ゲームに戻った。
百合子は、この家の乱雑さが、奥さんのゲーム好きにも原因があることを知った。『ああ、現代っ子って、わがままなんだなあ』と思う。百合子のように戦前の生まれだと、子供が一才と七ヶ月だと、ゲームなんかやっていられないという思いになると思うが、現代の女性だと違うのだろう。
百合子も10(後注4)年ぐらい前の40代には、ドラゴンクエストをやった。子供が学校へ行っている間に、そっと隠れて。特に子供たちはとっくにやり終えているので、そのソフトを点検もしないので、昼間こっそりやっていることがばれないで、済んだ。が、どうしてもわからないときは、自分の子供に質問をすることができないので、友達のお子さんに電話をかけて教えてもらったりしたものだ。「あのね。どうしたら、虹の橋って架かるのかしら」とか。「こうこうこうすれば、よいんですよ」と教えてもらい、それで、やっと次の段階へ進んだが、結局のところ、ドラゴン・クエストVが完成できず、それ以来、ロールプレイングゲームには、手を染めていない。それが、体力や時間を大量に消耗するものであることが骨の髄までわかっていたから。
後日、百合子は奥さんと、もっと仲良くなって、話を交わしたりして、なぜ、奥さんがゲームに熱中をしているかの、根本原因を知ることとなる。奥さんはゲームで気を紛らわせずにはいられないほど、いらいらしていた。それは出産と子育てによって、未来が閉ざされたと感じていたからだ。
すらっとした人で、百合子より背が高く、167センチぐらいはある。日本でバレーやモダンダンスをマスターしていて、ブロードウエーでオーディションに応募し、ミュージカルの本場の舞台で、ダンサーとしてプロになることを夢見て、こちらへ、やってきた女性だった。しかし、割と簡単な交際で赤ちゃんができてしまい、その結果、実質的に結婚をすることとなって、急に生活も進路も大変更になり、そのことに戸惑い、対応ができないでいる模様だった。
しかも、ご主人は、男性としては、素敵な存在だが、さまざまな事情から、まだ、入籍もしていないとのこと。別に嫌いでもないのだけれど、好きで好きでたまらないというわけでもなくて、新婚気分で、『はい、これから、私は、がんばりますよ』という姿勢には、到底なれない模様だった。
その奥さんの気分を反映しているのか、北側の道路に面して、大きな窓があったが、それは、分厚い青緑色のカーテンで覆われていた。日光を一筋も入れない、居間で、彼女はファイナルファンタジーに熱中することとなっていた。だから、坊やも猫も相手をしてもらえなくて、つまらない。やがて二人とも、百合子の部屋に入り浸るようになった。
百合子が布巾で、自室のガラステーブルを拭くと、坊やは早速まねをする。まだ、日本語がしゃべれるという年齢ではないが、賢い坊やで、退屈しきっているので、百合子のすることは何でも真似をしてくれる。それは、かわいいが、早晩困ったことになるだろうという予感を抱いた。百合子は、非常に子供好きで、かつ、何事も断ることができないタイプだ。太宰治の小説に『饗応夫人』というのがあるが、こと子育てという意味ではまさにそれで、自分の子供が幼児期には、半分以上のエネルギーを割いて、他人のこどもの世話をしてきたみたいなものだった。
二度とそのわだちを踏まないぞと決意して、「おばちゃんね。これからお仕事があるのね。だから、ママのところへ行ってね」といいながら、ドアの外へだす。しかし、一才と七ヶ月の坊やが、そんなことを理解してくれるはずも無い。うわーんと大声で泣きだす。
お父さんもお母さんもアメリカンドリームを、達成したくてニューヨークへ来たエネルギーレベルの高い存在だ。遺伝的に、坊やもきわめてエネルギーレベルが高かった。泣いている坊やを心配して、お母さんが駆けつけてくるかと思ったが、来ない。それで、あるとき、お母さんと話し合うこととした。
決して命令調とか、説教調にならないように気をつける。でも、お母さんは百合子の言いたいことの本質をすぐ理解して、「去年、妹と母が来たときはすごくきれいだったのよ」という。「妹は母と似ているの。家事がすきなのよ」とも。百合子ははっと思い当たることがあって、「おかあさんは、妹さんをかわいがった」と聞くとそうだとの返事。「そう。妹のほうだけを母はかわいがったの」と彼女は言う。
『うわあ、これは、とても難しい問題を抱えたお嬢さんだ。偏愛をしたお母さんを嫌いだから、お母さんのやっていることを真似したり身につけたくは、なかったのだ。だから、家事は嫌い。お子さんを育てきれるかな?』と内心で思うが、質問をずらして、「もしかしたら、実家からお金を送ってもらっている」と聞いたら、「ええ、生活費を毎月、送ってもらっているの」と答えをもらった。
百合子はすばやく頭を回転させる。『二つの部屋を間貸しして、かつご主人が働いていて、かつ、実家から仕送りがある。奥さんは外出好きでもない模様なのに、なぜ、そんなにお金がいるのだろう。もしかしたら、この広いマンションは賃貸?』と思い至るが、さすがにそれを聞くのははばかられた。
でも、『なんと危なっかしい生活だろう』と、今度は、それを心配になる。『もっと、地味な小さな部屋に住んでもいいではないかなあ? この部屋は広すぎる。お金をとって、また貸しをするのはある種の賢さでもあるが、ちょっと、道を間違えているよ』とも思うが、ここを選んだのは、例のオーディショん向けの、地の利のよさがあったかららしいので、引越しなど考えられないのだろう。
『うわ、どうしたら、この問題をうまく解決できるだろう。自分が子守をしないで済むためにも、彼女が生き生きとした生活を取り戻すためにも、今のままではまずいな』と思案する百合子の前に、もう一人の下宿人が、日本から帰ってきた。
(後注4)今から10年ほど前のことなので、こういう年齢構成となる
この項、つづく。2010年7月5日 雨宮舜