これは、水曜日に書き始め、今、金曜日の午前零時半ですが、やっと初稿が完成しました。
が、その40時間の間に、Livedoor が、以下のブログを紹介した模様です。それを読むと、アプローチは違っていても、デモ内で、一筋縄ではいかないことが起きているということを話しておられます。
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討論、(または、激論、または、剛論という題だったかな?) 3「郷原信郎×八木啓代」弾圧する側・される側
2011年09月21日00時04分
八木啓代@@@@
Twitterブログ
これは、お若い方には、ぜひ、読みいただきたい文章です。もちろん、わたくしの文章もお読みいただきたいですよ。両方読んでください。
で、以下は、内容としては、前報の続きです。
副題1、『樺美智子さんについて、さらに気が付いたこと』
副題2、『おしゃれな、東大生・新左翼は、実は、デモには参加しない』
副題3、『新左翼・論客とは、体制内の安全な場所にいるのだ』
副題4、『あなたの親が、すでに、マスコミセレブになっているのなら、大丈夫だが』
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副題1、『樺美智子さんについて、さらに気が付いたこと』
前報で、樺美智子さんは、ソ連のKGBに謀殺をされた可能性があると、落合信彦氏が言っていて、それは、当たっているかもしれないと、わたくしが今感じていると申し上げました。
現場で見ていたといっても、塀の外で、見物していたにすぎないから、この結論は、直観にしかすぎないのですが、それでも、いろいろ、裏づけられるデータもあります。
wikipedia によれば、樺さんはその時点で、すでに、一回入った共産党を離党をして、いて、ブントという新左翼系列の活動家となっており、羽田空港のデモの、時点ですでに一回警察に拘留(または、逮捕)をされているとあります。また、赤旗に、その分析が載っていたとも言われています。
これは、その分野の人材としては、すでにスターです。さわやかな和風の美貌の人で、学者一家に育ったという一種の貴種の趣もあるし、共産党を離党です。おしゃれな経歴という意味でももうしぶんがありません。そして、某女性週刊誌のインタビューを受けているとの話。
この・・・・・商業系の週刊誌にインタビューを受ける・・・・というのは、のちに、早稲田の革○の委員長だった、成岡庸司君を、週刊朝日がインタビューをするという形で繰り返されるのですが、『命の安全を保障された』も同然のことだと、わたくしは考えます。
外には、絶対にそんなことは出てきませんよ。だけど、この日本の真実の宗主国であるアメリカにきらわれたら、そんな、うまい話は降りてきません。いえ、浮かんでも来ません。だから、それは、お墨付きをもらったも同然の話なのです。つまり、この日本のどこを歩いても安全だ。大手を振って歩けるのだということとなります。
しかし、現場はダイナミックです。当時新左翼内でも、すでに、分派活動はおきていたとおもわれるし、それは、5年後ぐらいから、激しい内ゲバというのを繰り返して暴力沙汰へ入っていくわけです。
ですから、あくまでも、精神的なあり方の問題ですが、樺さんは、実は体制内の人で、安全を保障されていた人だったともいえます。それは無論、表面的には伏せられているのですよ。庶民には見えない形での裏付けです。
それに警察なんですが、当時はまだ、日本全体が、おっとりとしていたのです。国会議事堂にも、塀がなかったのです。生垣と、築地塀はありました。が、金属でできた塀はなかったのです。警官が警棒で殴り掛かったから、樺さんが死んだのだったら、ほかにも同じ傷で、死傷者はいっぱい出ている筈です。もちろん殴っているでしょう。だから、けが人が大勢出ている筈です。その中で、特別に体が弱かった樺さんが、一種のショック死状態を起こしたという考えは残しておかないといけません。
それから、圧死の件ですが、これが、一番あり得ると思っているのに、友人や知人のうち、樺さんが倒れたのを見た人がいないそうです。
となると、屈強のアジア系男性を、数十人用意して、デモ内で、樺さんを囲い込み、適切な時間帯(デモは、五、六時間続いたはず)に後ろから、頭を警棒で殴って、卒倒をさせ、あとは自分たちで踏みつけたか? 動かない物体となってしまった樺さんの上を、踏みしだいていった、学生や、警官や労働者が数多くいたと考えると、それが、誰の仕業かは、もう特定できないわけですが・・・・・
共産党について語ることは、当時は大タブーだったはずです。創価学会について語ることも報復をされるという意味で大タブーなのですが、ソ連側が、何重の意味でも、樺さんを殺すことが結果として、プラスだと考えて、謀殺をした可能性はあります。
デモ隊が、警察と対峙する際に、後頭部から殴ることも位置的に無理ですしね。警察が嫌いな私でも、戦後、たった、十五年目の若い男性警官が、殺人になっても構わないと思うほどの、力で女性を殴るかしら? 一時的に卒倒をして地面に彼女だけが、倒れた上に、人が踏みしだいた圧死ならわかるのですけれど・・・・・
この戦後15年目というのは、今とはまるで違った時代なのです。
敗戦で、人々はいったんは打ちひしがれました。が、一方で、反省して謙虚になって、まったく新しい日本人として生きようとしていて、ある意味で、今の日本人より精神的には、ずっと、健康だったのです。今の日本のほうがずっと暗いです。社会に鬱積慰しているものが多いです。
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副題2、『おしゃれな、東大生・新左翼は、実は、デモには参加しない』
その日の、デモに、現在のマスコミに生き残っている、有名人としては、秋山祐徳太子さんは、参加されていたでしょう。氏は、武蔵野美術大学に学んでいた最中のはずです。そのあとは、芸術家になっていくわけだから、就職をする必要がないのです。そのうえ、自宅ではお父上が、すでにいない状況で、母上は優しい一方の人でした。だから、誰に気兼ねもなく参加ができます。
私と私のその日の一緒だった友人たちのうちに、誰もその後活動に入った人はいません。当時は女性の地位がまだ低い時代だったから、まず、キャリアー・ウーマンになることが大切で、それに対して、損失となる、反体制・運動などには誰も加担をしなかったみたいです。
柄谷さんも、もちろん参加をしていないはずです。氏は当時浪人中だった模様です。関西で自宅通学で予備校に通っていたのなら、当然、6月15日に永田町にいられるわけがないし、東京の予備校に通っていたとしても、予備校生なんて、もっとも、立場が弱い人間だし、目的は大学入試だし、組織化もされていませんから、不参加のはずです。
柄谷さんは、最初から、共産党には参加せず、埴谷雄高氏などと一緒に、いわゆる新左翼系列で、運動に参加していたけれど、ことデモに関しては、傍観者の趣が強かったはずです。ですから、1960年の6月15日に永田町を燃え上がらせていたのは組織で動員された若き労働者である可能性は強いのです。そういう人たちが、四分の三ぐらいを占めていて、学生が、四分の一を占めていたと、考えます。労働者といっても、国労、動労、自治労などの、大きな組織で働いている人たちです。そういう人たちは、デモに参加しても上から「辞めなさい」といわれる恐れがないからです。
今回私がひどくこだわるのは、今回は政治問題ではないと、一般の人が考えており、それ故に、大勢の普通の人が参加する可能性があるからです。で、先週、一一日にデモが大切だと宣言した柄谷氏も、次の週に呼びかけ人となった、大江健三郎氏も、若き日に、デモの洗礼を受けていない可能性を述べておかないとだめだと感じているからです。
『デモ』と言いうものには種々様々に危険な部分が含まれているのです。それを、きちんというのが目撃をしてきた人間の役目だと思うから。
私は、この日の目撃の後で、一九六二年から大学へ入ります。そこでの経験は後回しにして、一九六六年から勤めた東大での経験に入ります。柄谷氏を論じるためにはどうしても、東大を分析する必要があるから。
当時、一九六九年の一月の一九日までは、安田講堂事件はずっとくすぶり続けていたわけですが、東大の内部では意外と無関心だったのです。もちろん、丸山真男さんが、吊るし上げみたいな形になったのですが、だけど、全学が巻き込まれていたわけではありませんでした。もちろんのこと、柄谷さんは関係がなかったはずです。
しかし、わたくしは中学時代の同級生が医学部に通っていたので、東大の医学部の学生がどれほど、高いエリート意識を持っているかは知っています。
あれは、1966年か1967年の秋だったと思いますが、地下鉄丸ノ内線の本郷駅構内で、偶然同じ電車に乗り合わせたのです。私は勤め人だから、軽目のスーツ系の洋服ですが、彼女は全身黒づくめ、のちに私が芸術家として、自分の個展のオープニングで、よく用いたような、衣装で、そこに、金のアクセサリーをジャラジャラとつけていて、40ぐらいの成熟した女性に見えましたよ。
だけど、その口をついて出てくる言葉にはびっくり仰天です。
ちょうど、青医連が活発化していたころで、彼女は自分たちが、『この日本を、理想的な形で、変革できる』と思っていて、その筋道をとうとうと語りました。
今はそれは、まったく実現をしていません。夢物語だったわけですが、確信をもって語る彼女に反論も何もできないまま、電車は、東京駅(=大手町)につき、彼女は降りていきました。たった4駅、7分以内です。
でも、はっきりとわかったことは、大変なレベルで、彼女の方が上に立っているということです。彼女にとっては、わたくしも、『お前ら庶民は、誘導してやらねばならぬ。教え導いてやらねばならぬ』です。
下世話な話に入って、本当に申し訳ないのですが、横浜国大付属中学校って、中学時には、35人程度しか入学させません。付属小学校から持ち上がってくる子が、65人いるからです。で、1950年代は、横浜ではエリートで、実は私は入学式総代で、卒業式総代だら、「当時は、今、目の前にいる彼女より上だったのに」というプライドはあります。でも、彼女の眼には、私なんか、ごみそのものでした。あっけにとられるほどの、エリート意識。
私の通っていた国際キリスト教大学は、学生の親元のことを考えると、おぼっちゃん、おじょうちゃんが多かったけれど、他人に向けて、これほど、ストレートにエリート意識は見せません。『比較して、東大の学生は、なんと違うのであろう』と、仰天をしたのです。東大生であるというだけで、どれほど、自分を甘やかしているかを、如実に感じさせられたのです。
しいて善意にとれば、「知り合いだから、本音を出したのよ」となるのかもしれない。だから、彼女だって、患者さんに向き合う時は赤ひげ医者として、丁寧に対等の言葉を使うのかもしれません。
だけど、ここで問題なのは、柄谷行人さんにしろ、大江健三郎さんにしろ、まさしく、そういう東大人種の一人であり、かつ、『東大の中でも、若い時期から、特権を持っていた種族だ』となるわけです。
彼らは、実際のデモやら、運動には参加していないのです。そうです。催涙弾にまみれたり、放水車から水を浴びせかけられたり、警棒で殴られたりをしていないのです。でも、今回、若者に、「デモに参加しなさい」と勧めています。これは、大いに不誠実だと言わざるを得ません。
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副題3、『新左翼・論客とは、体制内の安全な場所にいるのだ』
新左翼というのが、1960年代に幅を利かせ始めました。これは、第二次安保改定反対闘争、第三次安保改定反対闘争、ベトナム紛争、大学内の経営や、指導方針へ対する不満等、で、大いに盛り上がるのですが、それを通して、論客というものができるのです。が、それらの人材は、実は体制側・・・(この場合はアメリカ)・・・・に、非常に、かわいがられているのです。
ただし、それは表には出ていません。
ここらあたり、大胆な規定ですが、共産党を離党したということで、「それは、素晴らしい」と、この国の真の支配者であるアメリカ側には、取られて(あくまでも、1950年か、1960年代の話ですが、)内々に接触があったのではないかと感じられます。ただし、見かけは、新聞社とか、出版社の依頼で、仕事をしてくださいと、頼まれて、だんだん、人気が出てきて、国民内人気という意味で、出世をしていくという形をとります。
現在の年齢が、90歳前後つまり、1945年の終戦時に、30歳前後だった人が、共産党へ入っていて、さらに離党をすれば、それは、1960年代には、55歳から60歳になっていて、20代の若い人にとっては、尊敬すべき存在となるわけです。
柄谷行人氏のwikipedia を見ると、埴谷雄高氏に心酔し、デモは、ほとんど、見物程度であったと、この2011年9月15日時点では、書いてありました。でも、それ以降は変わっていくかもしれず、すでに、変わった記述になっているかもしれません。
ただ、柄谷行人氏は、実践の中で戦ってきた人ではないのです。そういう人が、若くて、純真な人に、デモを勧めることに、大きな罪と、忌わしさを感じる私です。
もちろん、このデモは新左翼系のデモです。で、全体が安全なものです。が、もしあなたが純真でまじめだと、狩り出されてしまいます。つまり、デモとは、別名、狩場であり、純真な若者を見つけて、つぶしていくことに役立てているのです。右翼のデモでも、同じだと感じます。
そして、つぶされていった若者も知っています。ご自分も職に就けず、また、夫や妻などの、パートナーも職に就けず、悲惨な貧乏暮らしをして、やがて亡くなったとか聞いています。とても、要領が悪いのです。医者とか大学教授とかいう種類の、立派な親が付いているのに、勘当をされたとか、聞いていますし。
つぶされて行った人の子供時代を見ると、裕福で上流階級だったケースが多いのです。決して、貧しかったり、低層の人間だったというわけはないのですよ。そして、ノブレス・オブリッジの発露の一種として、安保反対闘争(たぶん、1960年代のそれ)に参加したり、その後の学生運動に参加したりしたのです。
とても気の毒な人が、いっぱいいるのです。無名戦士の墓という言葉がありますが、まさしく、世に知れず消えて行った人は一杯いるのです。
上に、郷原信郎×八木啓代の二人が対談をしていて、そのなかで、郷原さんの方が「デモの中では、弾圧のための挑発ということもある」と、述べておられますが、プロのスパイの挑発に乗って、警官に唾を吐いて、逮捕などをされてしまうと、じくじく、じくじく、後々の人生にまで、影響を与えるのです。
私はデモには絶対に行きません。だけど、毎日ブログを書いています。これを書くのだって、体力が要るのですよ。それと節制(摂生)も必要です。で、これが自分に似合うし、かつ、自分にできることだと、自認をして、毎日、コツコツ書いています。
大体、毎日10時間は割いています。それが、11年も続いているのだから、相当な積み重ねはあるわけです。い ところで、一般の人がよく「政治家がだめだから、日本がだめになる」と、言いますね。だけど、それは必然のことなのです。あの安保反対闘争を通じて、大勢のまじめな人が、つぶされて行ったために、今、60代の普通の人は、徹底的に、非政治的だし、政治を馬鹿にしたり、嫌ったりして、まともに向き合おうとしないのです。また、残っていて、政治に携わっている人は、
江戸時代の名君とかとは、遠い、二流の人が多いし。
今の永田町を離れて、また、1960年代に戻れば、新左翼は、ますます過激になり、おかしくなって、あさま山荘事件とか、それ以前の、連合赤軍の永田洋子(女としての嫉妬の感情からひどいリンチを行った)の登場とか、種々様々な、ことが重なり、国民からすっかり、見放されることとなって行きます。それは、その前の、世代で、真面目なひとが、すっかり狩りつくされてしまっているから、永田洋子ごときが主役になってしまって、ますますの悪循環に陥っているのです。
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副題6、『あなたの親が、すでに、マスコミセレブになっているのなら、大丈夫だが』
平田オリザという劇作家がいます。私より相当若いが、同窓です。このひとが民主党の顧問となっていて、今年の春に、韓国で何やら失言をしました。それで、急に興味を抱いて、ネット検索をすると、思った通り、親世代が、すでに、知的エスタブリッシュメントでした。この人はべつに政治にかかわったわけではなくて、(実際問題として、彼が学生のころには、大きな政治的なムーブメントはなかったのだし)ただ、世界放浪の旅に出たというだけですが、
普通なら、これほどの、大物として、表舞台に登場することは無理なはずなのです。日本というのは横並びを、尊ぶ世界で、突出した個性というのを嫌います。で、22歳の時に、大会社、または、官庁や自治体に就職する、または、大学院へ進んで学究の道を目指すとなるのですが、年齢は非常に大切です。そこで、変り者のケースとなる平田オリザ氏は、普通なら、エリートとしての、処遇を受けにくいはずなのに、受けています。
柄谷行人氏は、親世代は、建設会社で、しかも関西です。東京に知的な橋頭堡はない。しかし、わたくしは奥様の系列がよかったのではないかと見ています。
ところで、このように観察しまくる私ですが、自分自身は一切計算をしない人です。ただ、直観に基づいて行動します。大学在学中は恋愛はしない方がいいと思っていました。だから、秋山祐徳太子氏などとは、まったく違った人生となっています。氏は、学生運動の中で、いろいろな女性と交流があったと、おっしゃっていますね。だけど、わたくしは違う。秋山祐徳太子氏は、親はセレブではありません。ただ、人付き合いが、いいのです。それで、都心のサロンで、いろいろ、人と付き合っている。だから、浮上をすることができました。
私自身は、まったく浮上をしておりません。だけど、まるで、気にしておりません。本日逸見じゅんさんの死が知らされて、72歳だとありました。『おや、あと三年しか、わたくしには、もう、持ち時間がないのか。だけど十分に長生きをしましたね』と思っているのです。そして、有名人ではないから、人と会ったり会議に出る必要もなく、毎日コンスタントに、同じような生活形態で、生きていて、ちゃんと、文章を書き続けることができます。
ラッキーな人生です。だって、名声やお金を得るために書いているわけではありません。うちからあふれてくることが肝心なのです。その創作の泉が枯れないことが大切なのです。それについては、非常に恵まれている人生です。
これは、あとで、もう一回触れる、ことですが、
ここでは、1962年から、1966年までの、国際基督教大学の中に戻りましょう。親がマスコミセレブというか、知的セレブの段階へ達していると、あなたも救われるというケースについてお話をさせてください。
1月年上に秋山豊寛という学生がいましt。殻は、派手に新左翼系で、活動をしていたみたいですが、ちゃんとTBSの入社できました。
同期に、中野隆宣君という背の高い、かつ、歌が上手な男子学生がいました。すでに亡くなっているそうですが、彼は新左翼系の活動家として、ずいぶんなことをやったと思いますよ。でも、無事に就職ができました。父君と同じ朝日新聞社に入社したのです。
でも、親がセレブ、特にマスコミ界のセレブでない場合と、親との関係が悪い場合は、その若者の生活は以降悲惨になるのです。政治が燃え上がり、大衆運動が盛んな時は、海の藻屑として消え去る人がいっぱいいるです。
上の方に例として挙げた、東大医学部へ通学していた、友人が、とうとうと述べていた理想は、今のところ、一つも実現をしていません。
そして、安田講堂の攻防が起きます。そのとき、650人ぐらいの学生が逮捕されたのですが、柄谷さんが含まれていましたか? 大体東大生は、そのなかの20分の一、35人程度逮捕されただけだったそうですし。
私は今回のことで、したり顔で、学生というか、一般市民にデモに参加しなさいと言っている柄谷行人という人間の忌わしさに反吐が出る思いがしますと、はっきり言っておきます。
まだ、今日の段階というか、上の行まででは、説得力が、足りないとおもいます。だけど、ちょっと、ここで、切らせてくださいませ。
2011-9-19日から買い始め、22日までのところで、いったん切る。
雨宮舜(本名 川崎千恵子)
読者の皆様へ、以下は誤変換はあまりありませんでしたが、次へ続く経路にあたるので書き直しました。できるだけ、次の文章を早く上げようと思っております。待っていて、下さいませ。でも、その間、これを、再読していただけますと助かります。
樺美智子さんの死あたりから、日本現代史を、通観する。△
2011-09-18 00:58:13 | Weblog総副題『戦後の政治的な事件は、アメリカの対日試行錯誤の結果だったのではないかな?』
これは前報の続きです。その最後で、有名な知識人、柄谷行人氏を不誠実だと、断言しています。それは、前々報で「原発反対のデモに、参加しなさい」と、柄谷行人氏が若者に勧めていることへ反発をしているからです。
「右翼のデモにしろ、左翼のデモにしろ、いわゆるスパイというのが必ず入っていて、あなたのことをレッテルを張ります。そうなると、あなたは、一生、大変な重荷を、背負う可能性があるから、おやめなさい」と私は、言っているわけです。
有名人と真っ向から対立しているわけですが、わたくしは自説を曲げようとは思いません。そして、自分の方がずっと誠実であり、他者に対して、愛情を持っていると確信をしています。でも、それを、読者にご理解をいただくためにはたくさんのことを、説明をしないとだめです。
どうか、付き合ってくださいませ。なお、この文章も政治的にすこぶる微妙な領域に踏み込みますので、ツィッター方式で、少しずつ、書きぬかせてくださいませ。
もし、意味が通らないところがあるとお考えでしたら、前報、前々報へ戻って、そちらを読んでいただけますと幸いです。
副題1、『戦後重要事件は、すべて、日本を支配するための、
安定した関係を、構築するための、
アメリカ側のトライアンドエラーであった』
副題2、『庶民階級が、支配されにくい日本』
副題3、『共産党の変質、・・・・・宮本賢治、不破哲三、井上ひさし』
副題4、『日米安保条約締結と、安保闘争』
副題5、『樺美智子さんの死と、その謎の部分について』
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副題1、『戦後重要事件は、すべて、日本を支配するための、
安定した関係を、構築するための、
アメリカ側のトライアンドエラーであった』
アメリカは近・現代史の資料をずいぶんとたくさん公開している模様です。が、そこに出ているデータは、日本でいえば、官僚が作ったものあたりであり、真実の政治的なトップの意思決定・事項など外には出ていないと私は考えます。ケネディ一家のドラマに、そこらへんが相当出ていたのですが、アメリカでさえ、大統領がトップではない可能性は強いのです。
1943年ごろ、まだ、第二次大戦中にアメリカは勝利をすでに確信して、国家建設以来、初めての植民地を持つことに、大きな喜びを感じ、支配計画案を練っていた可能性が高いのですが、1944年ごろから、日本人のメンタリティに関して、恐怖を感じ始めたと推察されます。
それは、南方戦線でも、すでに、把握をされていたと思いますが、日本に戦線が近づくにつれ、神風特攻隊やら、沖縄戦を通じて、畏怖と、恐怖の両方を抱き、生易しい形では日本は支配できないと感じて、最初から練りに練って、乗り込んできたのです。
その実行が天皇制維持、東京裁判、帝銀事件の3つで、『結構大丈夫だ。日本人は支配できる』という目論見を得たと思われます。これらの事件や、事象の詳細はwikipedia 等をご参照いただくとして、
以上の三つは、戦前からの日本の支配階層の、アメリカ側の支配の確立でした。それは、うまく行ったのです。思いがけないほど、スムーズだったのです。今の言葉でいう富裕層に対しては、うまく行ったのです。白洲次郎が抵抗したといっても、それは、些末な部分であり、大局としては、うまく行ったのです。
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副題2、『庶民階級が、支配されにくかった日本』
ところが、意気軒昂なのは庶民です。日本は江戸時代、200年間の平和を通じて、全国通々浦々に、寺子屋制度が、確立し、庶民も一定の教養を確保していました。伊勢講とか、俳句会とか、和算の勉強会等を、通じて、ソサイエティを作ることにも長ていました。
それが、戦前に大正ロマンとして花開いたのに、戦前戦中がっちりと抑圧されていたのです。が、戦後解放をされて、突然に、百家争鳴というほど、活発になりました。ありとあらゆる分野が、活発になったのですが、特に新興宗教の分野と、共産党が活発になりました。
共産党は、戦時中激しく弾圧を受けていたことへの大反発があり、かつ、ソ連、や、中国、および、北朝鮮からの大宣伝もあり、『わが意を得たり』というほどの、大活躍でした。しかし、これは、宗主国アメリカにとっては許せないことでした。
東西対立が激しかったからこそ、アメリカはアメリカ国内も、植民地国家日本も資本主義一本で染め上げたいのに、手ごわい共産党が、抵抗するからです。
共産党というのは、アメリカにも、フランスにもイタリアにもあって、それぞれ活発に動いていたのですが、アメリカのそれが、真っ先に弾圧をされました。マッカーシーという議員が、発案して、赤狩りが行われたのです。特に映画界でのそれが有名です。日本にもエピソードが数々伝わっています。が、労働争議のそれは、あまり、伝わっていません。
しかし、日本では数多くの労働争議が、起こされたのだと思います。で、困ったアメリカはアメリカで生み出された手法ではなくて、徹底的な裏工作を用います。それが、謀略です。共産党側に言わせれば、冤罪ですが、各種の事件を起こして、その犯人が共産党だといったのです。で、警察が共産党員を逮捕しました。白鳥事件、松川事件までは、共産党は激しく抵抗しましたが、下山事件で、とうとう、折れたのです。
下山事件とは、国鉄の労働争議に悩む下山総裁が自殺をしたとされる事件です。
おりしも、JR北海道の社長が自殺をしたというニュースが、東京にも聞こえてきますが、こちらは、ちがって、本当に奇々怪々の事件です。下山総裁は、当日、実に不思議な行動をとっていることと、自殺にしては、血痕の位置がおかしいなどと、いうことで、後年は謀殺であろうということに、傾きますが、当時は、自殺だと喧伝されていました。
これで、共産党はすっかり、参って静かになってしまいました。
だって、自分たちがデモをすることによって、総裁が飛び込み自殺をしたということは、一般の国鉄労働者にとっては、やはり、気が咎めることでしょうから。
現在の事件に照らし合わせると、ちょっと、厚生事務次官殺しの似ています。この事件は表向きには自民党とは何も関係がないとみなされていると思いますが、でも、政治に詳しい人間なら、だれでも、自民党を狙った謀略だと推察しますよ。佐賀大学出身の男性が逮捕されて、『子供のころ、保健所に犬を連れ去られたので恨んでいた』と供述しましたが、男性の父親が「うちの子は殺人など犯す子ではない」といった方がただしいのではないでしょうか?
車も持っていないような人間が、一晩に、遠く離れた二か所で、殺人事件を起こすなど考えられないです。アメリカにとって、不都合な勢力を、弱めていくという方向性は、下山事件と同じです。
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副題3、『共産党の変質、・・・・・宮本賢治、不破哲三、井上ひさし』
共産党というのは、敵がある存在だから、内部にスパイが入ることを恐れて、内部で、『スパイの疑いをかけられた人材は、リンチ裁判に会う』などと言われ、暗黒の部分もあったのです。一方の警察にも暗黒の部分があり、警察側のそれは、独立系の映画で、描き出されています。私が大学生のころは、そういうものの上映会が頻繁に開かれていました。今はとんと、うわささえ聞きませが、戦争時代の、戦争協力絵画と同じく、検討をされるべき分野だと思います。批判をするとか、肯定をするとか、そういうポイントではなくて、ともかく、一大分野として、そういうものがあったのです。
で、共産党側の、暗黒部分については、離党した人材によって語られ始め、やがて、それらの離党者が、アメリカ側に目をつけられ、利用されることなって行きます。が、もちろんのこと、アメリカとの結びつきは、表面上は伏せられていたでしょう。そうしないと命が危ないというような状況だったと思います。もちろん、ナイフで刺されるというような意味ではなくて、精神的に追い詰められるという意味でです。それは、人間関係を壊されるとか、それ以外にもいろいろあって。
これは、後で出てくる、樺美智子さんもその一人だったのです。
樺さんはアメリカに利用をされていたかどうかはわかりませんが。
ところで、長い間、日本の共産党のトップとして君臨した宮本賢治という人は、男性的な、魅力(エロチックな意味で)にあふれた人だったと感じます。それは、美形で育ちの良い年上の女流作家、中條百合子と結婚をしたことでも明らかで、口(理論)では共産主義を主張していても、実際の生活では贅沢三昧を好む人です。
これは、現在の中国・国民が激しく批判をしている通り、ほかの共産国家でも、共通してみられる現象でしょう。つまり共産党の幹部は、特権階級であり贅沢三昧をしているとのことです。
週刊誌の記事によれば、百合子夫人が亡くなった後で、別の女性と結婚をした宮本賢治は、自宅近辺の宅地を、130か所か、買い求めたそうです。個人名義か、党の所有かは知りませんが、大・資産家でもあるのです。
その宮本賢治を継いだのが、不破哲三(ペンネーム)という人で、グレーのスーツがよく似合う白髪の紳士でした。この人が上田耕一郎という人物と兄弟で、共産党を支配しました。この時期に、この党は大きく変質したのだろうと、私は、思います。そしてその変質の結果、『実は、アメリカ側に協力をするようになった』と私は見ています。むろんのこと、間接的です。つまり、装置として、日本には、言論の自由があるがごとく、見せて国民を納得させるために機能しているとみています。
そのことは、特に、小泉純一郎元首相が靖国神社に参拝をしたころ、日本全国で、集団訴訟というのが起こされ、「首相の靖国参拝は、違憲である」という判決が多数出たので、確信をしました。
実は、我が家は、13坪以上、不当に使用できない形にコンクリートうちをされてしまっています。それに関して、前田家というお宅を中心に、25年以上にわたって、あまりに被害を与えられ続けるので、怒った私が、前田祝一氏を、グーグルで検索をしたことがあるのです。(2010年、9月26日発信のブログ他にその詳細が書いてある)すると、前田氏は、集団訴訟の原告になっていることがわかりました。
その集団訴訟は、郵便局員の過重な労働に対する抗議の意味でのもので、まっとうなものですが、それでも、その同じメンバーが、地域ごとに分割して、例の靖国参拝反対の違憲訴訟をおこなっていると思いますので、共産党がいかに、アメリカに協力をしているかがわかってしまうのです。
というのも前田氏は、人の苦しみなど、話も聞かないし、勘案もしないで、ペンキ塗りお当番というのを設定したのですが、それが、赤旗祭りとか、何とかというのとそっくりな手法なのです。人の土地を、自分たちのしりぬぐいのために、ほぼ無断で奪っておいて、その傷口に、さらに塩を塗りこめるような作業を、お祭りみたいにしてやって行く。
特に、お祭りみたいに、というところが重要なのです。
そこには、無神経を通り越した、恐ろしいものがあるのです。たぶんですが、誠実などとは程遠い、何かがある。本当に恐ろしい。だから、ここでぴったりと共産党と、集団訴訟が結び付きました。自分固有の体験を通して、大きな政治が見えてきたのです。
アメリカが最も神経をわずらわしている、A級戦犯のまつられている靖国を、無視し、つぶそうとすることへ、協力をするという一点でも『うわあ、現在の共産党って、ずぶずぶのレベルで、強者の味方であり、アメリカの協力者なんだ』と、わたくしは判断しているわけです。これは、書物から判断した様な知識ではなくて、毎日毎日の苦しみから判断をしたことですから、どこへ出ても、堂々と、主張ができることなのです。
ここで、A級戦犯がどうして問題になるかというと、東京裁判そのものに、道徳的、かつ概念的な、疑惑があって、そのことをアメリカのある部分(もちろん、トップレベルの部分)は自覚をしているのです。だから、気になり、気にかかり、気に病む問題なのです。アメリカという国は、やはり、西欧の一家ですから、原理的なところがあって、良心に反した行動をとったというポイントを、後々まで、悔やんでいるのです。
で、民主党の全閣僚は、参拝をしません。こういうポイントでも、日本はさらに深く、植民地支配を進められています。
しかも、民主党と対立する自民党でさえ、野党なのに、靖国参拝を放棄しています。一つの、橋頭堡だったのに、失っていますね。谷垣さんは、モダンでおしゃれな政治家を目指しているのか、靖国参拝をしませんが、今の自民党にとって、アメリカに大事にされていないからこそ、力を使う必要があるのに、それを放棄しています。靖国参拝は長い間の、慣行だから、それを行使することは、過激なことでもなんでもないのに、それを、放棄して、丸腰になっています。
戦後の日本はもとから何の武器も持っていないのです。しかし、与党として、各国から大切にしてもらえる時代を過ぎて、より弱体化した自民党となっています。のに、慣行であって、それを、切るのは問題がない、武器であった靖国参拝という切り札を、自ら捨ててしまった谷垣自民党は、何の力も今ないのです。だから、お正月休みに、アメリカに行こうとしても取り合ってもらえないというほど、アメリカから、ばかにされています。お育ちがよくて甘い一方の谷垣さんは、戦う手法というのを、何も、知らないのです。
しかも、地方選挙で、勝ち続けているにもかかわらず、それを、国政に反映できません。
それは、赤ちゃんのように無策でいるからです。民主党の方は、こういう風に調略を常に練っている国際的軍産共同体の支援を得ていますので、メディアを手下にしていますので、何もしなくても有利なのですが、自民党は戦わなくてはだめなのです。だが、靖国参拝などという有効な武器を捨てて、単に、民主党の上げ足とりばかり、やっています。素人の国民から見ても、子供っぽい戦いばかりやっています。一見すると、派手に戦っているように見えますが、実際には、相手の土俵に乗せられていて、家来としての戦いしかやっていないのです。
自民党から、また、共産党へ、戻ります。今の共産党は、日教組をも支配しています。ですから、50メートル徒・競走で、一等賞を作るのはいけないという発想が生まれます。そして心身ともにひ弱な子供が出来上がります。植民地ならその方がいいのです。元気があって、反権力闘争など起こす若者が育ったら、困るからです。
でも、福島県の、原発地元民および、東北の被災者に聞いてごらんなさい。「人間は強くなければ生きていかれないのだし、自主的に判断できるぐらいでないと、生きていけないのだ」と、おっしゃると思いますよ。それらの基本的な力を奪ったのだからひどい教育です。
輿石幹事長は、そういう日教組の偉いところから、今、永田町の偉い人になった人です。ただし、輿石氏は、共産党ではなくて民主党の党員ですけれどね。
ところで、わたくしが本当に言いたいことは、さきほどもちらっとふれましたが、
・・・・・共産党は、一種の装置となってしまっている。何の装置かというと、あたかも、本当の民主主義と言論の自由が、この国にあるかのごとく見せつけるための。で、結果として、見事にアメリカの役に立っているわけです。だから、この国の中で、存在を、許容をされていて、その党員であることが危険なことではなくなっているということです。
で、とても数多い党員がこの国にはいると思います。ただ、その姿は、隠されているでしょう。その方が、便利だと考えられているのです。だけど、それゆえに、この国には、隠された何重の仕組みによる、裏支配が、生まれることとなりました。このほかに、隠れ、創価学会、隠れフリーメイソン、隠れ、在日、隠れなにがしと続いて、この国には何が何やらわからぬ、タブーが何重にも網を張る国家となってしまい、その中を生きていくためには、用心に次ぐ用心をしないといけないので、つい口をつぐむとなって、この日本社会には、KYなどという言葉さえ生まれています。これはとても不健全な社会です。
・・・・・という点です。
もし、私の、こういう分析===共産党は、大変アメリカと近いのです。むしろ、その家来です===が間違っているのなら、それこそ、集団訴訟の力を利用して、原発を阻止してほしいです。日本各地で「これが子供の健康を阻害するものだから、憲法に違反する」と訴訟を起こして、ください。
どうしてここで、こういうことを言うかというと、いよいよ懸念をしていた方向へ進んでいるからです。『どんこ』がだめでも、『ヒラメ』は大丈夫だから、底引き網漁を再開するそうです。牛肉も汚染が基準値以下になったから、売るそうです。これは科学的に考えるとありえないことなのです。科学的環境の方は、一か月では変わらない。
基準値その物とか、計測そのものを変えているのです。つまり科学よりも地元の経済的環境の改善が、優先されています。で、数値も計測結果も、非常に怪しくなってきています。それで、将来がどうなるでしょうね。真面目なものは頭を抱えるという以上の苦しみを与えられています。
さて、共産党を分析するだけで、2011年まで、話が飛んでしまったのですが、ここで、1950年代に戻ります。
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副題5、『日米安保条約締結と、安保闘争』
1949年に下山事件他で、共産党の弾圧に成功したアメリカは、トライアンドエラーが、一段階、進んだとみなして、日本へ自衛隊の設立を勧めます。当時の保守政党が、それを決定したかのように国民には、見えましたが、実際にはアメリカがそれを望んだのでした。というのも、その前の年に、朝鮮戦争が終結しています。
つまり、『一種の傭兵として、日本人にも一肌脱いでもらいたい』と、アメリカは考えたのです。そして、その傭兵としての自衛隊が、実際に、北朝鮮や中国を相手に、戦えるようにと整えるのが、安保改定で、それをきっかけとして、安保反対闘争が起こりました。
そのころの日本人は、うぶでピュアーで、絶対に戦争をしてはいけないから、安保改定など、とんでもないという方向で、ほとんどの国民が納得をしていたのです。
今なら、自衛隊は、「災害復旧に貢献してくださってありがとうございます」となって、日米安保は、『思いやり予算』というものまで公開されていて、まるで日常茶飯事となっています。しかし、1959年と1960年は、すごい状況でした。私は樺美智子さんが亡くなった当日の夕方、友達と一緒に、丸ノ内線、国会議事堂前に行き、駅の出入り口に立って、国会の内庭を眺めたのです。
友達と、10人ぐらいが一緒です。のちに東大とお茶大と教育大学へ進学した友達たちがいました。後で、先生に、うんと叱られました。「御茶ノ水女子大の付属高校は、国立だから、国家に反対する闘争なんて見に行ってはいけません」と。
でも、今、大人になった自分から先生の言葉を噛み直すと、身の安全を人の子の親として、心配をしてくださったのです。
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副題6、『樺美智子さんの死、と、その謎?』
今回2011年の9月11日の新宿駅南口での原発反対デモと、その際警官隊が出て、数人を拉致、逮捕して、数日後、釈放をしたということが、ウエブサイト上で、大騒ぎになったわけですが、本当の闘争なんて、そんなやわなものではありません。
あんな、ものは、フェイクです。お遊びの一種といってよいぐらいです。
1960年、当夜永田町で、塀の外で、その熱気に接した人間としては、樺美智子さんは、転んだ上に、人々の乗っかられてしまった圧殺死だったと感じています。後年、明石市で、花火見物の人の間に、大勢の死者が出たでしょう。あれと同じだと感じます。もし、警官隊が意図して、殴ったりしたのだったら、ほかにも数人の死者が出ている筈です。人があの広い広場に、密集しきって、わっしょい、わっしょいともみ合っていました。そのエネルギーレベルが高かったのは確かですが、警官隊が、警棒で、樺さんを殴ったとは、考えられません。
私は警察をひいきにする人間ではないのですよ。ご近所との猫をめぐるトラブルから始まって、警官を巻き込んだ大騒ぎを起こした石川和子女子側を、警察がひいきしている現状を考えても、今の警察が正義を守るとも、順法精神があるとも思えず、大っきらいです。だけど、樺さんを意図的に標的にして、殺害をしたとは考えられません。
wikipedia を見ると、落合信彦氏が、KGBによる謀殺説を唱えておられるようですが、それは、当たっているかもしれません。
と、言うのも彼女が、警官隊によって殺されたとあれば、国民の大批判が、警察に対して起こり、それは、当然のごとく、時の内閣に対する批判となり、それは、また、当然のごとく、安保条約によって、日本の対ソ連要塞化(または、塹壕化)を、阻止するわけです。
それによって得をするのはソ連です。ソ連が、当時の日本を分析するに、『日本は、再び、中国や朝鮮に再び侵略する可能性はない。が、ソ連には、侵略する可能性はある』だったでしょう。それは北海道での、漁船の拿捕が、続いている時期でもあり、シベリア抑留(一種の奴隷として、日本人の労働力を、使ったこと)の具体的、記憶が、残っている時代です。で、アメリカと同じく、日本に対する『復讐をされるのではないか』という警戒心を持っていたと、考えられます。そうすると、自らを守ることに役立つ謀略に取り組む可能性は大いにあります。
繰り返しますが、私は日本の警察を信頼していません。が、日本人である警察官が、女子学生に、警棒で殴り掛かるとも思えません。アメリカの警官が、よくアフリカンを、なぐりたおしたり、蹴ったりしている映像を見ますが、菜食の日本人は、特に1960年代は、体格も小さかったはずです。で、獰猛でもなかった。
この情報を信頼する理由がもう一つあって、それは、樺美智子さんが、生前すでに、有名人であり、一種のスターだったことがあります。
私のような一般人は、まだ、その名前を、しりませんでした。が、共産党にしろ、新左翼にしろ、こういう活動をしている人々の間では、すでに有名人だったのです。となると、有名人一人を殺害することは、象徴的な意味が強まり、効果が上がります。
ここで、この落合信彦氏の、アイデアが当たっているとすれば、ソ連にもアメリカにも謀略として、有名人を殺害されたということおなります。東大生樺美智子さんと国鉄・総裁・下山氏です。
そして、謀略によって殺されたにしろ、警官に、暴力を振るわれたにしろ、一種の事故だったにしろ、樺美智子さんは、その後、英雄として祭り上げられました。
が、わたくしが問題にするのは、無名の人たちの戦死なのです。大戦中も戦死した人がいたわけですが、これらの運動のさなかと、それ以降に、不利をこうむったまま、緩慢な死を迎えた人が大勢いるのです。
そこを問題とする私は、さらに、この文章を敷衍し、補筆していくわけですが、
その内容を、今回の、文章に入れ込めてしまうと、項目が多くなりすぎます。
戦後、左翼運動史を、通観していっているわけですから、入っている現象が多くなっています。で、ここで、いったん切って、明日にでも、あらたな項目を立てて、続きを書きたいと感じています。
その完成は、明日か、明後日になる見込みで、その中で、断言しっぱなしで、おわっている、柄谷行人氏が、不誠実だという、話を、煮詰めていくつもりです。
なお、今晩は、柄谷氏、関連の、3つの文章、今号、前報、前々報の、誤変換直しにとりくみます。よかったら、それら、三文、を、タイトルに△印が付いた後で、再読でも、していただきたく。
2011年9月17日 初稿 21日水曜日の朝に、3度目の推敲をした。