新・眠らない医者の人生探求劇場・・・夢果たすまで

血液専門医・総合内科専門医の17年目医師が、日常生活や医療制度、趣味などに関して記載します。現在、コメント承認制です。

医療の不確実性:この例えはどう思われますか?

2008-11-30 23:27:57 | 医療

こんばんは。

 

最後にひとつだけ、ちょっとした質問を・・・

 

医療の不確実性に関して先ほど書きました。しかし、一部の方々は「医療は人命に直結するのだから間違ってはいけない」といわれます。 

 

確かに「できるだけ患者さんの利益になるように最善の努力を・・・」とは思っておりますが、すべてを見通すことができるかどうか・・・

 

それに関してすべての専門家、会社員、政治家、官僚が考えていただきたいと思います。

 

ここで例に挙げさせてもらうのは・・・そうですねテレビゲーム業界にしましょうか。それとも…携帯電話にしてみましょうか・・・。

 

まぁ、何らかの会社が何か新アイテムを生産しているとします。

 

この製品はきっと売れ行きが伸びるだろう」 と思っていたら、全然売れなかった。在庫の山だ・・・。逆に売れすぎた、品切れだ

 

そんな予想外のことはあると思います。

 

一方政治家、官僚の方々も、一部の既得権益を守ろうとする人を除き「国民のために・・・」と思って仕事をされていると思います。

 

しかし、最近様々な問題が起きているように、「国民のために思って行った政策」が「国民に不利益」をもたらす結果となっています。

 

生きている人間が住む「国家」の政策が失敗続きであれば、当然多くの人の生活に不利益が出るわけで・・・。

 

 

警察の方でも検察でも・・「あいつが犯人である」とか、そう考えて逮捕されているのでしょうけど・・・それが冤罪だった場合、もしくは社会的不利益を与えた場合どうするのでしょうか?

 

 

全てを見通して正しい選択をする。それはなかなか難しいことです。

 

それぞれの専門家、自分の分野でのことを考えながら、すべての問題を考えてみると面白いことに「医療の不確実性」もわかるのではないでしょうか?

 

 

医師は人命を扱っていることから、時間をかけて勉強し、患者さんのために尽くしていると思います。専門分野が分かれたことも、それを反映していると思います

 

しかし、それでも相手が生きた人ですから、それぞれに様々なものが異なります。

 

薬に対する反応、外科分野であればおそらく少しは血管走行の異常などがあったり、開けてみたら微小な転移がたくさんあったとかそういうこともあるかもしれません。

 

医療が進めば進むほど、今現在問題となる不確実さはなくなるのでしょうけど、新たな不確実な問題も出てくるでしょう。

 

今はわかっていることですけど、昔はわからなかったことがあります

 

これから先もそういうものが増えてくるでしょう。そしてそれがわからないと…とかいう問題が出てくるでしょう。

 

社会の不確実性、社会は生きた人間の集まりですから不確実です。政策をやっても、製品の売り上げも…予想はできても不確実でしょう。

100%の予想を立てることができる人間がいるのであれば、その人はすでに神様の領域かもしれません。しかし、そんな人間はいないでしょうし・・・100%予想できるのであれば生きていても面白くもないでしょう。

 

医師が患者に起こること全てを見通せるかと言えば、不可能です。

 

もちろん、明らかに「使う薬剤を間違えている」「切る足を間違えている」「患者を取り違えている」というのは論外です。これはそのようなミスが行われないようにシステム作りを作らなくてはなりません。

 

例えば「社会保険庁の組織的年金工作」を二度と行わせないようなシステム作りと同じでしょう

 

しかし、少なくとも明らかに間違ったことをしているわけでもなく、結果が悪かったことに対してどういう対応を取るのがよいのか・・・。

 

政治家の政策が間違っていた。予想外の現象が起きてしまった。これが罪に問われるかと言えば罪に問われることはありますまい。議員辞職すらしないこともある。

 

ある会社で売り上げの予想を外してしまい、「売れ残り」ができたとしても「売り切れ」商品ができたとしても、どちらも会社に対して損を与えている。売れ残りはそのまま損益ですし、売り切れはもっと作っておくべきだったわけですから・・

 

そう考えれば・・・すべてを予測することが不可能なのは自明の理です。

 

この例えがどのように多くの方々に思われるかはわかりません。

 

すべては不確実なものです。確実なものというのは、世の中にあるのでしょうか?

 

自分自身のこと・・・。わずか先ですら不確実なのに・・・。

 

もしかすると、いろいろ意見いただくかもしれません。それはこのBlogが多くの方々から見ていただいていることの反映でもありますのでありがたく思います。

 

ただ、すべてのことは不確実だと思っております。それをどれだけ安全に、確実性を高めていくか。そのシステム作りをしていかなくてはならない、そう思っています。

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個人の責任追及よりも再発防止のシステム作りを・・・

2008-11-30 21:46:02 | 複合記事

さて、続けます。

 

この記事を読んで「補償はすべきだが・・・・」と思うのは僕だけでしょうか?

 

僕はこのような自動車事故(明らかに悪意があったり、違反をしているというのではない場合)は家族に対する補償を中心にするべきだと思いますが・・・。

 

ここでもちろん、容疑者が逃げた場合は別ですけど・・・・。

 

<事故>駐車場で1歳児はねられ死亡 宇都宮動物園

11月30日19時23分配信 毎日新聞

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081130-00000037-mai-soci  

 

30日午前10時45分ごろ、宇都宮市上金井町の宇都宮動物園駐車場で、埼玉県羽生市北3、会社員、荒川利夫さん(29)の次男将人ちゃん(1)が、栃木県大田原市美原2、会社員、福田一利容疑者(37)の乗用車にはねられた。将人ちゃんは頭を打って病院に運ばれたが約1時間半後に死亡した。宇都宮中央署は、福田容疑者を自動車運転過失傷害容疑で現行犯逮捕し、同致死に切り替えて調べている。  

調べでは、福田容疑者は車を前進させた際、右前にいた将人ちゃんに気付かず接触転倒させ、さらに後退してひいたとみられる。将人ちゃんは家族5人で動物園に来ており、事故時、荒川さんらは福田容疑者の左隣に止めていた車の中で、長女(5カ月)のおむつを交換していたという。【吉村周平】

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まず・・亡くなったお子さんに哀悼の意をささげます。

 

ただ、申し訳ありませんが・・・僕はこの場合、自分自身が絶対に引かないという自信がありません。見えない子供が歩いているとは予想できないかもしれません

注意義務はあったかもしれませんが・・・・

親もこの場合は車の中に入れたほうがよかったかもしれません。

 

 

基本的に何が正しいとか間違っているとか、そんなことを言うつもりはないのです

 

ただ、いつぞやの地震の時の…地震に驚いて家の外に駆け出して来た男性を跳ねて死亡させたとか、自転車が明らかに信号無視をしてはねられて死亡したとか・・・ 死んだという結果のために「殺した」人間が悪いとするのはどうだろうか・・と思うのです。

 

もちろん、悪意があったり、違反があった場合は別です。

 

ただ、この会社員の方も小さな子を殺したいと思うわけもなく、この会社員の方の家族などが不憫だと思ってしまうわけです。

それと同時に将来のあった「亡くなった子供」に対しても不憫だとは思うのです。

 

 

何故、この話になるかというと…航空機事故や船舶の事故など、そして医療事故などに関しても同じことが言えると思うからです。

 

医療事故ではなくとも、予想できなかった上に結果が悪かった場合…そして違反がなかった場合・・・・。

 

 

1歳の子供が右前にいることが見えなかった…とします。おそらく運転席から見える範囲ではなく、車体の前方の右側なんでしょうけど・・・。

 

見えないものを見ることはできません。

 

同様に…例えば医療というのは確率論であり「確率100%」にすることは不可能です。

 

見えないものを見なかったから注意義務違反だと言われて逮捕されている方がいて・・・それを「どうすればよかったのか」と聞かれたら僕は答えられません

 

捕まえた方々は答えられるのでしょうか?

 

逆に医療に関してもどれほど進んでも「確率100%」にするのは不可能だといってもよいと思います。

 特に「○○が存在する」とは言えても、「存在しない」とは言いにくい

~をすれば100%大丈夫ですというのもあり得ません。

 

人を傷つける行為をして「利益>不利益(危険)」というだけで、何かが原因でこれがひっくり返ることはあると思います。

 

だからこそ、「このような事故」に関しては、被害者の救済をかねた「補償」と再発防止のための「システム作り」が必要なわけで、それを考えずに個人の責任にするのが…。

 

 

この悲しい事故、事件。以前にも似たような話はありました。子供が飛び出して来たのを跳ねてしまったという事件は多々あると思います。

 

そういうものを起こさないようにすることが重要であって、個人の責任としてつるしあげることが再発防止になるとは思えないのです。

 

個人の責任として吊るしあげを行う人は「自分はそんなことは起こさない」と思っている人で、言ってしまえば「飲酒運転」をしても自分は大丈夫だと思うタイプの人に似ているような気がします

 

これは表現が悪いですけど・・・。 つまり過信しているということです。

 

自信は持っていなくてはならないと思いますが、過信はしてはいけない

何事にも100%大丈夫だというものはないと思っています

 

 

このような話に関して、いがみ合う二つ・・・いや複数のグループがあります。

 

答えは一つでなくてはならないわけではないのです

 

あるものを片方から見れば女性に見え、別の方向から見たら別のものに見えるということもあります。

 

もしかすると唯一絶対の真理があるのかもしれませんが、僕はそれを考えることはできません

 

僕の考え方、誰かの考え方、多くの人の考え方があり、それぞれに良い点や悪い点、考慮すべき点などがあり、それを総合して最良のアイデアを出していくしかないだろうと思っています

 

ただ、一つだけ僕が言えると思うのは「個人のつるしあげを行っても何も解決はしない」ということです。

 

言えるとすれば原子力発電所が10枚もの安全弁を持っているように、医療や航空機、自動車事故なども安全弁があるようにしなくてはならないということだけです

 

複数の安全弁を持ち、それぞれが10分の1の確率(そんな高い確率で起こるはずもないですけど)で何か不具合があっても5個の安全弁があれば10万分の1の確率になります。

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それを追求していくことが「社会の役割」だと思っています。

 

医療に関しては安全弁を作るほどの人材や資金がない

 

それが最大の原因で、安全弁が1枚~3枚くらいだから問題なんでしょう。

 

それでは、明日もいろいろあります。自分を高める時間が必要なので、そろそろ失礼いたします。

 

結局、12月も休むことはできなさそうですw

たぶん、1月も何も変わらないのではないかと思います。

 

僕はそれでもそのことに感謝しながら生きていますけど。休みがあれば休みがあるで感謝。今の状況すべてに感謝して生きていきたいと思います

(というか、感謝しています。不満はほとんどないですからw)

 

それでは、また。

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ど~でもいい話:僕と武士道

2008-11-30 20:41:28 | ど~でもいい話

こんばんは

今、病院から帰ってきました。 研修医の先生方が頑張ってくれているので助かります。 患者さんの数も多く、抗癌剤治療をしている患者さんが入院の中心ですから、いつ何が起こるかわからないので緊張感を持続させなくてはなりません

 

研修医のみんなが緊張しすぎて倒れないようにするのも僕の役目なので、彼らをサポートをしようと思います。ここでの研修を精一杯やってくれたらよいと思っています。そしてここで学んだことを役立ててくれたら、それで十分僕はうれしいし、ここに来てくれたことに感謝します。

 

さて、今日は久々にど~でもいい話をしていきたいと思います。

 

僕は武士道というやつが好きです。新渡戸さんの武士道も好きですが、「葉隠」を特に好んで読んでいます。

 

武士道から何を得ているかというと、今の教育が忘れている「徳育」というべきものを学んでいます。知識偏重の教育システムの中で、「どのような人物になるか」というのは重要なことです

 

これを学ぶのに「古典」は非常に役に立ちます。 その中の一つに武士道関係の書物があります。

 

武士道というやつは「如何に良い生き方をするか」「如何に死ぬか=如何に生きるか」「どのような人物になるか(武士として)」という話を追求しています。

 

武士…ではなくてここを「人」として読んでいけば「人としてどのような人間になるか」という話を追求することになります。

 

別に武士道がすべてだとは思っていません。如何に生きるか・・それを子供たちが自分で学んでいくことが重要だと思うのです。

 

そう、子供たちが自分たちで学んでいくためのものです。

 

子供たちは育つものですからw

 

今の世の中でおかしなことは「子供たちを育てなくてはならない」という風潮。「親は無くとも子は育つ」と言いますが、子供たちは自分たちで育っていくものだと思います。僕らは守るのが仕事w

 

「良い本」「よい見本となる大人」「自分たちを認め、愛してくれる人々」 これだけでも、恐らく育っていくでしょう。

 

我々はそれを守っていく。彼らが育っていくのを守り、自分たちを超えていくのを喜び、認める。 それが重要だと思います。

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なかのひと 

僕は武士道を含め、多くの本と出会ってから自分自身が良く生きていけるようになったような気はします。気のせいかもしれませんがw

 

僕にとっての武士道は「如何に生きるか」「どのような人間になるか、なりたいのか」ということを考えるためのものです。

 

武士道は死ぬことと見つけたり・・・二つ二つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり・・・・という考えで、一生懸命に生きること。そして精一杯生きて死ぬことを目標にしています。

 

自分が何かを後世に残せるのであれば、僕が生きてきた意味はあると思いますし、僕がかかわった人たちが何かをしてくれるのであれば、それもまたよし。基本的に自分の生きてきた意味は必ずあるのでしょうから、死ぬことを恐れても仕方がないです。

 

過労死寸前のことをしているかもしれませんが、死を恐れず自分のやれることを精一杯やっていこうと思います

 

ま、僕が死んだらたぶんこの方面の血液臨床崩れると思いますけどw

 

それを考えたら死ねないな~w ただ、死ぬ直前まで死ぬことを考えないと思いますね

如何に生きるか、何を残すか、誰のために生きるか・・・とかしか・・・。 家族でも持ったら変わるのでしょうけどね~。

 

それでは、また。

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