夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

拉致被害者の救済と日本の主権国家としての確立

2025年02月25日 | 国家論


拉致被害者の救済と日本の主権国家としての確立

去る2月15日に、北朝鮮によって拉致された有本恵子さんのお父さん、有本明弘さんが87歳でお亡くなりになったそうです。有本恵子さんの拉致が確認されてから、すでに20数年になります。

たしかに日本政府は長年にわたり、北朝鮮による拉致問題の解決に取り組んできた、と一応は言えるかもしれません。しかしながら、いまだに多くの拉致被害者が帰国できていない現状は、現在の日本国が真に主権国家として機能しているのかという根本的な疑問を投げかけています。

国家の第一義的な責務は国民の生命と安全を守ることであるにもかかわらず、この課題において日本国はいまだ決定的な成果を上げられず、責任を果たせないままです。日本はなぜ拉致被害者たちを救済できないでいるのか、その原因は何か、主権国家としての欠陥はどこにあるのか。横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんの当然の願いをなぜ叶えてあげられないのか。

1. 拉致問題の本質と国家の責務

拉致問題は単なる外交問題ではなく、日本国民の基本的人権と国家主権に関わる重大な問題です。国際法上も、自国民が他国により不当に連れ去られた場合には、国家はその救出と保護のために全力を尽くす義務を負います。しかし、日本政府の対応は一貫して慎重かつ受動的なものであり、国際社会への働きかけや交渉が主軸になっています。

イスラエルの例を挙げて比較してみるとよくわかります。イスラエルは自国民が敵勢力に拉致された場合には、軍事作戦を含むあらゆる手段を駆使して救出を試みます。これに対し、日本は外交努力に頼りすぎて、長期に実効的な救出策を講じてきませんでした。イスラエルと日本のこの違いは、国家としての主権意識と対する国民保護の責任感の違いにあります。

2. 日本国の主権国家としての欠陥

日本が拉致被害者救済において効果的な行動を取れない背景には、いくつかの構造的な要因があります。
一つは憲法上の制約です。日本国憲法第9条において、戦力の保持と交戦権を否定しており、これが自国民救出のために必要な積極的な行動を阻害しています。特殊部隊による救出作戦の選択肢など、事実上まったく排除されています。だから政府は交渉と外交圧力に依存するしかありません。これでは、拉致問題の解決は百年河清を俟つようなものです。

さらに国民意識の問題があります。日本は日本国憲法第9条のために、自国の安全を日米安全保障条約に頼らざるを得ず、その結果として、日本では、安全保障に対する国民の関心も低く、拉致問題も「外交問題」としてのみ認識されがちです。国民の間に「国家が主権を行使し、国民を守る」という意識も十分に確立されていません。そのことが政府の消極的な対応を助長することになっています。

また、その結果として、拉致問題の解決を、米国を中心とする国際社会への働きかけを重視して取り組んでいます。しかし、現在のトランプ大統領のアメリカ・ファースト政策に見られるように、国際社会は必ずしも日本の利益を最優先にすることはありません。とくに米中朝露の国際関係の成り行き次第で、蚊帳の外に置かれることになります。

3. 主権国家としての改革の必要性

日本が真に主権国家として機能し、拉致被害者を救出するためには、以下のような改革が求められると思います。
まず第一に憲法改正と法の整備です。憲法9条の改正を含め、国民保護のための法的枠組みを整える必要があります。特に、自衛隊が国外での救出作戦を実施できるような制度の確立が不可欠です。

それにちなんで国家安全保障体制の強化も必要です。防衛力の強化とともに、情報機関の充実が求められます。イスラエルのモサドのような組織を設立し、拉致被害者の所在情報を正確に把握する体制も構築しなければなりません。

そうした政策を講じながら、国民意識を改革していくことが必要です。拉致問題は単なる外交問題ではなく、「国家と国民の主権に関わる問題」ですから、日本国民の国家意識の深化をはかるための啓発活動や教育が必要です。そうして、「国家が国民を守るという共通意識」を社会全体で徹底して共有することが、政府の積極的な行動を後押しすることになります。

4. 拉致問題解決への具体的戦略

1. 経済制裁の強化: 北朝鮮に対する独自の制裁を強化し、交渉の圧力を増大させていくことです。最近は経済制裁の強化という問題意識もすっかり失われています。

2. 国際連携の深化: 米国、韓国、欧州諸国と連携し、拉致問題を国際社会の主要議題としてあらゆる機会に提起し続けることです。

3. 軍事的抑止力の向上: 救出作戦の可能性を追求し、その態勢を整え、拉致被害者を救済することのできるだけの実行力を確保していくことです。その実力的な背景があってこそ、外交的な成果もあげることができます。

結論

要するに、日本が主権国家として、拉致問題の解決に向けた責務を果たすためには、上記のような抜本的な改革が不可欠です。憲法上の制約、国民意識の低さ、国際社会への過度な依存といった問題を克服して、自国民の安全と尊厳を守ることのできる国家へと変革していく必要があります。

拉致問題の解決は決して単なる外交的課題ではなくて、むしろ、日本が真に独立した国家として機能するかどうかを問う試金石です。日本国民は主権回復を目指し、拉致問題の根本的解決に向けて、政治的・法的手段の強化をあらゆる方面から検討し、改革してゆかなければなりません。
 
日本がそうして真の主権国家としてこの問題に正面から向き合い行動を起こすことによって、日本国がかっての明治国家のように、主権国家としての矜持を取り戻していくことが、拉致被害者救済の鍵となります。


 
 
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赤尾秀一の思想研究

2025年02月15日 | 哲学一般
 
赤尾秀一の思想研究

これまで哲学研究者、赤尾秀一はブログ日記「作雨作晴」や哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」上などで、さまざまに論考を公開してきました。しかし、いまだ目次や索引などを整備しきれておらず、赤尾秀一の思想傾向の概略でさえ把握しにくいと思います。
それで、さしあたって、中間的なまとめとして、赤尾秀一の思想的な概略とでもいうべきものを、まとめておきたいと思いました。おおよそ次のようなものとなると思います。

1、 ヘーゲル哲学の研究者としての立場
 
◦ 哲学的思考の根底にヘーゲルの哲学を据えようとしています。

◦ とくに「自由」「国家」「立憲君主制」「民主主義」「神の国」といった概念に関心があり、研究を深めようとしています。

2、日本の国家理念としての「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」

◦ 日本の国家理念として「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」を追求しています。(ヘーゲルの国家哲学に基づく国家観と、キリスト教的な価値観を融合させようとしているといえます。)

◦ 日本の歴史的な文脈の中で、「立憲君主制」と「自由民主主義」をどう両立させるかというテーマを追求しています。 

3、二大政党制の構想(「保守自由党」と「民主国民党」)

 ◦ ヘーゲル的な歴史発展の観点から、対立する二つの理念(保守と自由、民主と国民)を調停し、より高次の統一へと発展させようとしています。
 
 
さしあたっては、赤尾秀一の思想傾向としては、おおよそのところ以上のようにまとめることができると思います。今後さらにその研究を深め、思想や哲学を深化発展させることができればいいのですが。皆様のご理解とご協力もお願いできればと思います。
 
 
 
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6月5日(日)のTW:常識と哲学

2025年02月14日 | ヘーゲル『哲学入門』

§1
常識というものは、ただそれが知ろうとする対象についてだけを考えるが、しかしその時、知識そのものについては考えようとはしない。つまり、知識そのものついては思い浮かべないのである。知識そのものの中にある全体の姿は、単に対象のみではなく、自我の知るという作用でもあり、a


自我と対象との相互の関係でもある。つまり意識である。

§2

哲学においては、知識を規定するものは、ただ単に一方的な事物の規定だけとは見られない。むしろ事物の規定と事物そのものを共に含むところの知識が問題となる。言い換えると、知識の規定は客観的な規定としてのみではなく、


主観的な規定とも見られるのである。むしろ、知識の規定とは、客観と主観との相互の関係の特定の形態だと言える。

§3

そこで知識の中には、事物とそれに対する規定の両方があるから、一面から言えば、それらは全く意識の外にあって、意識にとっては全くの外来品として、出来合いのものとしてc


外から与えられたものであると考えることもできる。しかし他面では、意識は知識にとって、事物そのものと同じく、本質的なものであるから、意識はこの自分の世界を自分自身で規定し、その世界のさまざまな規定を自分の態度と活動によってその全部を、あるいは一部を自分で作り出し、または d


変形するものと考えることもできる。第一の見方は実在論(Realismus)、他方の見方は観念論(Idealismus)と名付けられる。しかし、ここ哲学では、事物の一般的な諸規定は、ただ、客観の主観に対する特定の関係と見なければならない。d


※いわゆる常識の、日常の知識というものが、つまり人間の知識が、単なる実在論でもなければ、また観念論でもなく、それは客観と主観との関係の特定のあり方であること、つまり、人間の知識が本質的に弁証法的なものであることが示されている。


§4

さらにはっきり言えば、主観とは精神である。ところで、精神は存在する対象に本質的に関係するものであるから、現象するもの(erscheinede)である。その限り精神は意識である。だから、意識についての論考は、


精神の現象論(Phänomenologie des Geistes)でもある。

§5

しかし精神が他のものとの関係を離れて、自分自身の内部で、したがって自分自身との関係において、自己の活動性の面から見られると、それは本来の精神論、つまり心理学である。 b


§ 6

意識とはふつう、その外部にあるか、または内部にある対象についての知識であって、その対象が精神の働きが加わることなくして意識に現れたものであるか、それとも精神によって作り出されたものであるかは問題ではない。意識のさまざまな規定が、精神そのものの働きに基づくものである限り、


精神は精神の活動の面から考察される。

§7

意識とは自我の対象に対する特定の関係である。我々が対象から出発する限り、意識の持つ対象の区別に応じて、意識にも区別があるということができる。

§8

しかしまた同時に、対象は本質的に意識に対する関係から規定される。


したがって、逆に対象の区別は意識の発展に依存すると考えらる。この相互性は意識そのものの現象する領域の中に生じてくる。したがってこの相互性から見れば、これら意識の面と事物の面の二つの規定の、いずれが絶対的に主導性を持つかという先に§ 3で述べた問題は未決定のままに残される。




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ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

2025年02月04日 | 哲学一般

 

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

      2025(令和7)年02月03日(月)曇り。#寺沢学派、#寺沢恒信、#許萬元、#牧野紀之、#マルクス主義批判

 

ここしばらくヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解が中断したままになっています。そこでの私の翻訳と註解の水準はさておくとしても、我が国のヘーゲル研究は講壇、在野を問わず、非常に高いレベルにあるのではないか思います。世界的に見てもおそらく最高の水準に達しているのではないでしょうか。

その理由の一つとしては、わが国におけるかつてのマルクス主義の隆盛があると思います。しかし、20世紀末にソ連邦の崩壊を始めとする共産主義の失墜があって、共産主義そのものの信用は地に落ちたということはありますが、それでもわが国においては今なお日本共産党が日本の政界の一角を占めているように、この破綻したマルクス主義も今なお国民の間に一定の影響力はあるようです。

わが国のヘーゲル研究に大きく貢献したのは、マルクス主義哲学者であった元東京都立大学の哲学教授で共産主義者の寺沢恒信の存在が大きいと思います。この寺沢恒信のもとから許萬元と牧野紀之という二人の傑出したマルクス主義ヘーゲル学徒が生まれてきました。

マルクス主義の立場からするヘーゲル哲学研究については、「寺沢学派」とも称することできる、寺沢恒信、許萬元と牧野紀之たちの三人によって、マルクス主義の立場からのヘーゲル哲学研究は行き着くところまで行ったと思います。今後おそらく彼らを乗り越えるほどのヘーゲル哲学研究者は出てこないのではないでしょうか。それほど三人のヘーゲル哲学研究は徹底し傑出していたと思います。

ただ、彼らのヘーゲル研究に限界というものがあるとすれば、それは彼らが「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの誤った提唱を無自覚、無批判に引き継ぎ、それを彼らのヘーゲル哲学研究の出発点にしたことにあると思います。マルクスのヘーゲル哲学批判は、ヘーゲルの絶対的観念論に対する誤解の上に立つものであるし、レーニンはこのマルクスの誤解をそのまま無批判に引き継いでいるからです。

キリスト教にも「ブドウの樹の良し悪しはその実を味わえばわかる」とあるように、共産主義諸国の歴史的な政治的な崩壊という実際の現実が、マルクス主義の破綻を実証することになっていると思います。

ヘーゲルの絶対的観念論は「絶対的」なもので、それ自体としては完結したものです。だから、ヘーゲル哲学批判の上に立つマルクスやレーニンの共産主義は、ヘーゲル哲学の根本的に誤った継承にならざる得なかったと思います。マルクス主義が歴史的に破綻することになったのは理の当然であると思います。

マルクス主義の破綻の原因を理論的に指摘するのは、それなりに教養が必要で難しいことだとは思いますが、私のこれまでの論考の中でも、ヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解、無理解については、いくつか指摘してあります。そのマルクスのヘーゲル哲学に対する主な誤解について指摘するとすれば、三つあると思います。

その第一は、ヘーゲルの「概念論」に対するマルクスの誤解です。
その第二は、ヘーゲルの「観念論」に対するマルクスの誤解です。
第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。

第一については、マルクスは、「概念」を、単なる「個別性から共通性を抽出」したもので、抽象化や捨象の積み重ねによって生じるものとして、「概念」を単純な観念的な「抽象の産物」として捉えました。しかし、ヘーゲルにとって「概念」は、単に人間が作った便宜的な言葉や観念ではなく、「内在的な必然性によって自己を展開する論理構造」そのものです。マルクスはヘーゲルの「概念」の本質を十分に理解していなかったと言わざるを得ません。

第二に、マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの「概念(der Begriff)」を誤解して単なる主観的な観念的な抽象物として、「観念論的な幻想」と見なしていました。ヘーゲル哲学の「概念」自体は自己運動する論理的実在であり、自己を展開する論理構造であることを見抜けませんでした。

ヘーゲルの「概念」は単なる頭の中の抽象ではなく、現実を貫く論理そのものなのに、マルクスは唯物論的な世界観から、この観念的な自己展開の論理を理解せず、それを「形而上学的な幻想」とか「神秘化された観念論」として物質主義に還元して批判することになった。

その第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。
ヘーゲルは『法の哲学』において、国家は「客観的精神の最高の実現形態」であり、国家を「自由の実現形態」として捉えたのに対し、マルクスは国家を「階級支配の道具」とみなし、「国家は支配階級の手段にすぎず、その役割は資本の利益を擁護することにある」といった一面的な国家観を主張しました。そのことによって、本来は家族愛と友愛に満ちた自由な国家であるはずなのに、そこに憎しみと妬みと闘争の不自由な種がまかれました。

許萬元と牧野紀之の二人は、寺沢の指導のもとで切磋琢磨した学友同士でもあります。確かに、寺沢恒信や許萬元、牧野紀之らマルクス主義を継承する立場からのヘーゲル研究は、その徹底性においてヘーゲル哲学研究における功績は大きなものです。しかし、そのいずれもが上記のようなヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解を無自覚に無批判に引き継いでしまっているという点で、根本的で致命的な欠陥を抱えたままであると思います。

これまでに赤尾 秀一がマルクスの「ヘーゲル哲学批判」に対して行ったいくつか反論。


§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j9SLmx)
§278c[至高性(主権)をつくる観念論、Der Idealismus, die Souveränität ausmacht] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ovLOgU
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
「神の国」とヘーゲルの「概念」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/eCm1Xv

事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lIVw2T

 

 

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