夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

民主主義の概念(1) 多数決原理

2006年07月08日 | 哲学一般

民主主義の概念(1) 多数決原理

哲学の祖で人類の永遠の教師プラトンは、「民主政治」に深い恨みを抱いていた。なぜなら、プラトンの愛するかけがえのない師ソクラテスの命を奪ったのは、古代ギリシャの民主政治だったからである。民主政治も腐敗と堕落の運命から免れなかった。プラトンの哲学の営みが、師ソクラテスの無念の死の意味を考えることを深い動機としていることは疑いのないところである。

また、イエスが十字架の刑に処せられたときにも、時のローマ帝国のユダヤ総督ピラトは、イエスが捕えられたのは民衆の嫉妬と憎悪によるものであることを知っていた。だから、ピラト自身は祭りの日の特赦としてイエスを解放しようとしたのだが、結局は民衆の多数意見におされて、イエスではなく、暴動で殺人を犯したバラバという男を身代わりに釈放した。

これらの事実を見ても、民主主義をその単なる一つの原理である多数決原理に帰着させることがどれほどに危ういものであるかが分かる。二十世紀の人民民主主義政治下のスターリニズムや中国の文化革命もその新しい例示であるだろう。

この「民主政治」の愚かさから真理を救うために、プラトンが構想し、その帰結として見出したのは、真理を悟った哲人が民衆を指導するという「哲人政治」だった。だから、ある意味では、プラトンこそ全体主義思想家の祖ということもできる。しかし、プラトンの国家は自由を知らなかった。真理が国家の原理となるためには、法治主義に基づかなければならないという思想に達することもなかった。


戦後、日本国憲法が公布されて六十年。民主主義ははいうまでもなく日本国憲法の原理の一つである。しかし、現代日本の民主主義が多くの点でその概念を十全に実現したものではないことは明らかである。「戦後民主主義」の欠陥を指摘する学者や思想家も少なくない。

民主主義の根本的な欠陥をその多数決原理に見出すことは困難ではない。その理由は簡単である。多数決それ自体は、その判断や選択の内容の真理を保証するものではないからである。この原理が明らかにするのは、相対的に多数の意見に基づいて政治が運営されるという形式だけである。その政治的な選択が正しいか誤っているかという内容には関わらない。

専門的な問題に関しては、素人の意見をどれほど多数に集積しても、一人の専門家の見識に敵わないということもある。多数意見の方が実際に愚劣であるということも少なくない。むしろ、歴史を切り開いてきたのは人類の全体からいえば少数の個人であるとも言える。ここから、「民主主義」についての絶望と嫌悪が生まれることにもなる。

民主国家の国民多数が無知で無能力で無教養であるとき、その国家は「愚者の楽園」になり、イエスやソクラテスのような人格にとっては、地獄となる。「船頭多くして船山に登る」と言うことわざもあるし、「枯れ木の賑わい」ということわざもある。このとき民主主義はもっとも劣悪な政治システムになる。それは鎌倉時代の北条時宗の高貴な治世などには及びもつかない。

それでは、「愚かな」国民や大衆が政治の指導権を握る民主主義を排して、哲人による「専制政治」が目指されるべきか。


それにも関わらず、民主主義が多数決原理に基づくのはなぜか。それは民主主義が能力の平等という観点ではなく、人格の平等という価値観に基づいているからである。能力に関しては平等ということはありえないが、この多数決原理の根本には、人格としての平等という思想がある。それは本来は神の前の平等という宗教的な背景を母胎にしている。

この余りにも崇高な理想を実行しようとすれば、多数決原理をとらざるを得ないし、この原理を実行するとき、その現実はもっとも愚かで醜いものに転化し得る。「民主主義」を少なくとも狂信することのない者は、民主主義の持つこうした欠陥を直視する必要がある。そして、問題は民主主義のこの形式的な欠陥を克服する要件は何かということである。

それは、おそらく、民主主義の担い手である個別的な人格が、プラトンのいう哲人の真理を国家の中に原理的に実現してゆく必然性を備えることだろうと思う。その要件は何か、がさらに問われなければならない。


いずれにせよ、官僚(公務員)や政治家に対する国民による自由な統制の実現できていないことなどに、日本の民主主義の未完成を読み取れる。それが行政や経済運営で多くの無駄や不合理を許すことになっている。客観的にみて現在の日本国民の国民性が民主主義の理想に適っているとは思えない。

民主主義が本当に機能し、その美点を最大限に実現して、国民一人一人が幸福な生活を享受するためには、まだ改革されなければならない点が多い。


そのためには何よりもまず、民主主義の概念を明らかにし、それが国家の原理として実現されてゆくために必要な条件とは何か、それを検討して行くことが必要であると思う。こうしたブログで、多くの人がこのような問題について考え議論しあうことも民主主義の健全な発達につながるのではないかとも思う。

それにしても相変わらず今日の学校では、民主主義は、制度としても精神としても能力としても十分に教育され、訓練もされていないと思う。教師自身が教えられておらず、その問題意識もない。それが現代日本を「品格なき国家」にし、また現代日本の悲喜劇の一つの原因にもなっている。今日の学校教育の根本的な欠陥の一つだと思う。問題は切実で大きい。(「学校教育に民主主義を」)

いろいろ問題のあるインターネットも、使い方次第では、そうした学校教育の欠陥を補うものになることが出来るのではないだろうか。

 

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