石牟礼道子の苦海浄土が世に出たのが1969年で、出水市西照寺での「名残りの世」と題した講演は1983年だ。「わたしはお婆ちゃん方の、その日その日のお暮らし向きのさまざま、お心のありようを、少しはお察しすることができると思います。なぜならば、お婆ちゃん方のそこに座っていらっしゃるお姿は、わたしの母や、大叔母たちや、日常接している親類のお婆ちゃんや近所の方々にそっくりでいらっしゃるからです」とあるから、会場の様子が眼に浮かぶようだ。
「ここの出水の地続きの、つい隣りの水俣の育ちでもありますし、水俣では、向こうの天草島、鹿児島県出水郡になる獅子島、長島、伊唐島などとはしょっちゅう嫁入り、婿取りががありますし、漁業の方々のゆききが日常ありますし、私のご近所や親戚にも薩摩の人方がたくさんいらっしゃいます」と続く。「阿弥陀如来というものを人格化せずにはやまなかった先人たちの欲求というものは、やはり一つの到達点でして後世はこの到達点を後追いするだけでも大変だという気がします」に私は深くうなずく。
「薩摩には議を言うなという言葉がありますけれども浄土真宗に言う、義なきを義とす、と申すあの義でしょうか。いくらか近いようにも考えられます。知というものは、存在のいちばん底を見透せた時に、その頂をも仰ぐことができるのではないかとわたしは思うのですが、親鸞という人は知性だけでなく、並はずれて情感の濃い人だったようで」の知についての件には石牟礼さんの凄さを感じた。先々隣には女郎屋さんがあった自分の生い立ちや、チッソの患者さんの死、島原の乱のあとに、江戸の自邸に戻り、最後の嘆願をしたためて、島民たちのために腹を切った鈴木重成の話などをされている。
「わたしどもの心の内部のいちばん根本のところで、ひとりひとりを苦しめております煩悩、天下国家の心配よりは、社会問題よりは、一人の人間のいちばん内側にあっておのおのを苦しめている煩悩ということを、否定しているのではなく、とうぜんあるものとして把握していう言い方があります」「浄土真宗も悟れとは言ってないみたいですし、人間の中に本来ある煩悩を全うすることなく、途中で中断されなきゃならない者たちは、水俣病患者だけではありません。近松さんが「曽根崎心中」が書こうとした世界も、そういう煩悩を断ち切られる人間たちが、せめてこの世を去る時に視る花の色を描こうとしたのではないでしょうか」