玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*四ッ倉漁港

2011年12月25日 | 捨て猫の独り言

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 今年初めてJRの「青春18きっぷ」を12月19日に購入した。この冬に出かけるならば多くの人が東北地方へと足を向けるだろう。私の場合は常磐線を北に向かって行けるところまで行くことを考えた。あの日まで常磐線は上野から茨城県、福島県の太平洋側を経由して仙台まで運行されていた。今回の津波と原発事故のため壊滅的な打撃を受けた影響で現在どのような運行状況なのか。「いわき」の先の「広野」まで行けることがわかった。いわきー広野間は10月10日にようやく開通し「草野、四ッ倉、久ノ浜、末続」の4駅がある。この先常磐線の全線復旧がいつになるのかわからない。少なくとも5年はかかるという予測もある。

 水戸まで3時間、さらに広野まで2時間の日帰りの一人旅に出たのはキップ購入の翌日である。JRの駅ビルが全国各地で続々と新しくなる中で水戸駅も大きく変貌していた。北口の「アクセル」に続いて南口に「アクセルみなみ」が完成し、南北のビルをつなぐ通路にはデリ、スイーツなど15ショップが軒を連ねるプライムストリートが今年の9月に完成した。「勝田、佐和、東海、大甕、常陸多賀、日立、小木津、十王、高萩、南中郷、磯原、大津港、勿来、植田、泉、湯本、内郷」 これらは常磐線の水戸ーいわき間のすべての駅名である。水戸から先の列車の中では車窓の風景を緊張しつつ眺めていた。

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 車窓からの観察だけでは被害状況の把握はできない。駅舎を出て港まで歩くことが必要である。考えられる候補の中から四ッ倉漁港を訪ねることに決めた。その前に列車が発着する駅の中で原発事故に関する警戒地域との境界線に最も近い広野まで行くことにした。そこから折り返しの列車に乗ってもどること3つ目が四ッ倉である。昼食の時間も入れて2時間の滞在を予定した。津波は四ッ倉の駅舎までは届いていなかった。冷たい強風の中を海水浴場だったという砂浜の防波堤の上を港まで歩く。港を囲んでいる防波堤と岸壁は比較的ダメージは少ない。しかし打ち上げられた漁船が山積みに放置され、港の建物はすべて破壊されて今でも取り壊しの作業が続いていた。それでもかなりの割合で民家が建ち残っているのは救いだった。

 港には難を逃れた漁船が何隻か係留されているが岸壁に人影はまばらである。岸壁にドラム缶のたき火で暖をとる若衆がいた。あたらせてくれと頼むとどうぞどうぞと大きな声で応える。こちらからこれ以上かける言葉はない。礼を述べて私はすぐに立ち去ることにした。つぎの予定は湯本で降りて温泉につかることだった。しかしお目当ての温泉保養所の入口には「本日定休日」の木札が下がっていた。そのために帰宅が1時間早まった。不通になっていた常磐線の原ノ町ー相馬間の運転が約9カ月ぶりに再開されたという記事が翌日の21日の夕刊に出た。これまで不通だった広野ー亘理(わたり)間102キロの中の一部だ。これで不通区間は原発をかかえる広野ー原ノ町間と相馬ー亘理間となった。常磐線はこの分断された状態が長期間続くことになる。(写真は四ッ倉魚港にて)

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久々のミュージカル観劇

2011年12月22日 | ねったぼのつぶやき

 最近とみに夕刻の外出は苦手になった。ましてや向寒のこの時期は尚更だ。 そんな折、ミュージカルのチケット要りますかと電話が入った。夕刻だが、中央沿線での興行だったので頂く事にした。届いたのは4000円券(当日券は500円高)の入場券2枚。「チーム石塚・新生ふるさときゃら」という劇団が演ずる「トランクロードのかぐや姫」といい、暮らしの中から日本人のためのミュージカルを作り公演活動をしたり~と紹介してあった。さてどうしよう~。

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 会場からそう遠くない所に在住の旧友を誘うと行くという。当日は職場から直行し、彼女と落ち合って久しぶりに開場を待った。広めの会場で埋まるか心配していたのだが、開演時間になると略満席となった。壇上の幕の両側にはたった3人の楽団が、多数の見慣れない楽器に埋まるように位置し、トロンボーンが物悲しい音色を奏でてイヨイヨ幕が上がった。

  出演者は13名。落選して只の人になった元市長・その父の下駄屋・保母出身の元市長夫人・派遣切りに遭い出戻ったその息子・青春真っ只中の娘の5人家族と、寂れゆく街の商店街の呉服屋・豆腐屋・団子屋・和尚・電機屋・倒産した鉄工所員・信金営業マン等。そこへ舞い降りた失恋娘のアイデアを獲り込んで・・と。私達に極身近な商店街の人達が、日々悩まされている今日的なテーマを歌とダンスを絡めて展開させてゆく。年齢や体型共に似合わないとさえ見え、それ故に親近感をもつ出演者達も軽快に歌い踊っていた。皆が皆演じる喜びに満ち輝いて見えた。出口では、総出で謝意を込めて握手を求めていた。どの出演者の握手も力強かった。

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*信州追分

2011年12月19日 | 捨て猫の独り言

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 先月末に近くを見るための手頃な価格の老眼鏡を手に入れた。これまでの遠近両用眼鏡と老眼鏡との2個を使い分けて生活することになった。新しい老眼鏡を使っている最中にふと目を上げると周囲の景色はぼんやりとしか見えないので慌てる。いつも眼鏡を鼻先にかけ顎をひいて上目づかいにじろりとこちらを見る。以前よくあちこちで見かけていたそんな仕草が見られなくなったのは遠近両用メガネの普及によるものだと気付いた。眼科医は老眼鏡をしてさらに拡大鏡を右手に読書する人もいますと笑いながら話していた。

 今月の7日に信州追分にドライブした。追分で独居生活をしている私より7歳上の方を、私より5歳上の方の運転で訪ねることになった。心苦しいことに若輩の私はだいぶ前に運転を放棄している。3人はかつての同僚で、以前からの約束を果たすためだった。川越で関越自動車道にのり上信越自動車道の佐久平でおりた。途中の横川で昼食用の釜めし弁当を手に入れる。追分の独居人は筋肉が委縮する難病のため歩行が不自由だと聞いていた。しかも彼の奥方はハンガリーで自活していて、たまに日本に帰国するという家族の形態が永く続いている。

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 5年ほど前に建てられた別荘風の家屋の位置は海抜千メートルという。旧交を温めて一泊し、男3人の朝食時にヘルパーさんの訪問があった。車椅子でなく、上体を預ける歩行機での室内生活である。驚くべきことに庭先に止めてある特殊自動車で病院玄関先まで単独運転でたどり着けるという。私は運転を放棄したというのになんということだろう。この朝も外は視界10mほどの濃い霧だった。帰途は逆方向であるが上田まで足を延ばし無言館を訪れることにした。無言館への道を下るにしたがい霧は晴れて視界は良好になった。

 つぎのはがきが届いた。「年の瀬も押し迫って参りました。寒い日が続きますが、ご機嫌如何ですか。(・・・な~んちゃって) 先日は〇〇大兄とご一緒に遠路遥々当地=信濃追分までおいで下さいまして、お陰様で楽しい嬉しい時間を過ごすことが出来ました。また此度は記念の写真をご恵送賜り本当に有難うございました。僕は歩行困難になったお陰で、いわば一日中陽当たりの良い部屋で、寝そべったり、居眠りしたり、考えようによっては、長年望んでいた理想の生活をしているようで、そう思えば明るい気分、ハッピーな気分になります。木の芽どき、若葉萌え出る頃また夏の暑いとき、青葉の頃、秋の紅葉の頃どうぞお遊びにいらして下さいね」(写真は日展会場にて)

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露天風呂で愛でた月食

2011年12月15日 | ねったぼのつぶやき

 たまたま泊まりがけで参加した清里でのクリスマスの歌謡ショーは月食の日と重なった。ショウーの後、「露天風呂での月食観察」という最大級のオマケにもあずかれた。非日常の中で更に非日常を楽しめたのは幸運以外の何物でもなかったけれど、はるばるやって来た高原の里で、果てしなく広がる天体を仰ぎながらの観測も格別だったかもしれない。

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  旅程の2日間、空は晴れ渡り、車窓には甲府盆地を取り囲む遠景の峰々の冠雪の勇姿が臨め、更にその奥には、前に後に左に右にと車の向きにつれて富士山が見え隠れした。紅葉の盛りは過ぎてはいたがそれでも未だ華やかさは衰えてはいなかった。平地を横切る田畑は、収穫を終えて一息入れており、途中休息の度に触れる外気は、冷気を帯び頬に心地よかった。(写真は知人のメールより借用)

  地場産業であるワイナリーや和菓子工房では、お義理で一番小さなお土産セットを求めた。一方帰京の途上で立ち寄ったサービスエリアでは、出発地の立川に車を止め置いていた事もあり、主婦の習性そのままに野菜物を目一杯買い込んだ。房総の旅はせわしなかったけれど、今回は近場の上、泊まりがけのせいでユッタリ。しかし、ホテルも、ショーも、サービスエリアも、店頭もユッタリは良かったけれど、景気の影響も偲ばわれて、それはそれで辛い気分にもなった。

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*欠礼のはがき

2011年12月12日 | 捨て猫の独り言
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 私が受け取った欠礼のはがきの中から3通を紹介したい。かなり前の2002年の年明けに届いたはがきから始める。冒頭には「寒中お見舞い」とあった。差出人は私より7歳先輩の退職した教師である。私と彼が在職中のことだが、生徒を前に定年退職の挨拶をしんみりと述べたあと、いきなり「な~んちゃって」で締め括るとおもしろかろうと冗談を言い合ったことがあった。はがきはいつものように手書きでていねいにびっしり書きこまれていた。「さて私事ながら母が昨年末96歳で永眠いたしました。故人の意志により告別式は行わず、どなたにもご通知せず、欠礼いたしました。介護する機会に恵まれ、母を喜ばせ、母と共約2年間を過ごし、ぶじ母を見送ることが出来たのは望外の幸せでした。・・・・な~んちゃって!」

 のこりの2通は5年先輩の教師からのものである。この両先輩と私の3人はどういうわけか現在でも付き合いが続いている。2006年末につぎのような印刷されたはがきが届いた。「妻〇〇〇〇が去る〇月〇日に65歳で永眠しました。子育てと教職生活を両立させながら、英語・英文学を学び続け、世界の現実に関心を深めていきました。病床に伏す直前まで、地域の英語サークルにボランティアとして参加しました。向寒の折、ご自愛ください」

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 彼は妻をなくした5年後に母をなくしている。「母〇〇〇〇は〇月〇日92歳で静かに生涯を閉じました。戦中戦後の苦難の時代に五人の子供を育て それぞれが選んだ道を歩めるよう支援してくれました。夫〇〇に先立たれた五年ほど前から認知症が進み 私も毎月新潟の生家に戻り 半月は介護をしてきました。最晩年は言葉が不自由になりましたが 呼びかけには手をさし伸ばして笑顔で応答してくれました。それが私にとって至福の一瞬でした。向寒の折 くれぐれもご自愛ください」

 両先輩のこれらのはがきにみられる誠実な生活態度は私をうちのめす。とてもまねできないな~とへこんでしまうのだ。こんなときに私を救ってくれる言葉の一つに「色即是空 空即是色」がある。「空」は無意味ということである。すべては空であるのに人間はなんにでも意味づけをする。本当は善悪も浄不浄も美醜も、そんなものをはかる物差しなどない。人生を「こう生きなければいけない」などと考えるのは窮屈である。(写真は日展会場にて)

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お歳暮シーズンに一考

2011年12月08日 | ねったぼのつぶやき

 急に冷え込んで冬到来だ。今月はお世話になった方々に謝意を表す月である。たいして代り映えのしない日々の暮らしながら、それこそが有難き幸せと思える年でもあった。年に1~2度、季節の挨拶がてらお互いに贈物を交換し合う。多少面倒な思いもないではないが、日本的な失いたくない一習慣だろう。今年思いがけずお付き合いが深まった方々に感謝の気持ちをお届けした。一体いかほど頂いた事か・・・米・味噌・醤油・酢・梨・柿・りんご・漬物・ジャガイモ・さつま芋・山芋・玉葱・生姜・落花生・・等々。

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 かって、毎朝夕決まって見かけたのは幼稚園の送迎車だった。その後は、宅配便をひっきりなしに見かけるようになり、この10年は幼稚園車より、ディケアー・ディサービスのバリアーフリ車が多くなった。時代の流れが読み取れる。それにしても宅配便は飛躍的に発展して、身軽な私達も更に身軽に移動出来て嬉しい。例え海外であろうとバック一つで空港に向えるのだから。(写真は国立新美術館の前庭)

 しかし一度通販を利用するとダイレクトメールが次々と押し寄せる。郵便だけなら未だしも電話の場合とても困る。それに、どの業界も他社との差別化に苦慮している。多くは利用者に対して付加価値を高める工夫をしているが、ある流通業界は荷物一ケにつき10円を震災被災者に寄付する仕組みとした。タイムリーな好企画は誰の発案? 社員から出た会社だとしたら、そんな会社の業績は今後も伸びてゆくだろう。

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*気になる人たち

2011年12月05日 | 捨て猫の独り言

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 玉川上水緑道の黄葉もそろそろ終わりを迎えようとしている。とりわけ雨上がりの後の黄葉のトンネルには息をのむばかりだった。柿、サルスベリ、ハナミズキの庭木はすっかり葉を落とした。すでにツワブキはその容色を失い、膝ほどの高さしかないサザンカはつぎつぎに八重の紅い花びらをこぼしている。ネリネはいまだに初期の姿を変えず凛として佇む。今年は大震災などもあって私のMLBのテレビ観戦の時間は減少した。最近のニュースからボビー・バレンタイン、工藤公康、長淵剛の動向に私は興味を抱いている。

 バレンタイン(61歳)がMLBボストン・レッドソクスの監督に就任するというニュースに驚きそして喜んだ。バレンタインは1985年にテキサス・レンジャーズで初めて監督に就任し、96年から7年間指揮したメッツでは2000年にナ・リーグ優勝、2度監督を務めたロッテは05年に日本シリーズを制覇した。私はバレンタインの明るさが好きだ。なぜか私はバレンタインを60年代にアメリカで活躍したコメディアンのジュリー・ルイスに重ねたりしている。本人はボストンの監督は敷居が高いと感じているようだ。記者会見で「これまでのどんな経験とも違う人生が始まる」と答えている。

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 工藤公康(48歳)は横浜DeNAベイスターズの監督候補である。監督就任について「まだ要請がきていないので、話はできない」と取材に答えている。実現すれば新生横浜に期待がもてる。西武、ダイエー、巨人、横浜、西武に所属し40歳を超えても現役を続けた。専属のマッサージ師と契約するなど身体への配慮、野球へのあくなき探究心はひろく知られている。球団のゼネラルマネージャーに正式要請されている前ヤクルト監督の高田繁の決断やいかに、というところである。

 長淵剛(55歳)のNHK紅白歌合戦3度目の出場が決定した。1990年の初出場では、ベルリンでの生演奏を披露したが、3曲も演奏したうえスタッフを批判しNHKの出入り禁止と報道された。95年には大麻取締法違反で逮捕され、起訴猶予処分を受けている。03年に2度目の出場をして、森進一に楽曲提供した「狼たちの遠吠え」では歌う森のバックで長淵がコーラス&ギターセッションで参加して話題になった。今回の選考は長淵の大震災復興支援活動が考慮されたものだろう。その歌いっぷりが注目される。(写真は「日展」会場にて)

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お返しの往来も又楽し!

2011年12月01日 | ねったぼのつぶやき

 この所日没が早く5時過ぎには暗くなる。近所の子供達が保育園から帰宅するのも暗くなってからで、夕方の外遊びの姿はメッキリ見なくなった。小寒くなって週末でも外遊びの姿はたまにしか見ない。彼らのはしゃぐ声を窓越しに見聞きしながら夕食作りをし、子供の傍らにいるママさんに、ちょっと多めに作った副采を差し入れすると喜ばれるのは、昔なつかしい食材を使っての佃煮や煮びたし、煮物系が多いせいだろう。

001  そしてお返しと称して、年に何度か北海道の方からは郷里の産物を頂く。先日は山芋を4~5本頂いた。PCを繰ってレシピを探す。生で良し煮て良し。粘りがあってお好み焼き風のお焼きに混ぜると、美味しさが引き立ちふんわりと仕上がる。山芋を入れたがんもどきはとりわけ美味だ。煮物にするとジャガイモや里芋とはまた違った風合いになる。もう一方は京都出身で自家製のパンや京菓子をよく頂く。皮がコンガリ焼けた麦パンの焼き立ての美味しさといったらない。正月前よく頂く丹波栗のビン詰で、昨年は栗キントンを作った。

 昨日買物から帰ると、薄暗くなりかけた夕闇の中で子供達が遊んでいた。「明日、山芋を入れたガンモドキを差し入れするわ」と声をかけたら、「エッ 手作り?嬉しい!」とママ達の歓声が返って来た。今年はニガウリと茗荷が豊作で食べきれず、半干しにして味噌漬けにした。何れも初めての試みである。味見をして美味しかったら口直しに加えよう。・・・と、玄関のチャイムが鳴った。アテにしていた宅配物かと思いきや、知友からの大ぶりの甘柿の2段詰だった・・・こちらはチョット頂き過ぎだ。ナントショウ!

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