玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

26)毎度!菊千代登場

2006年04月30日 | ピースボート世界一周

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 ケニアから女性の落語家古今亭菊千代さんが乗船してきた。女性として、初めての真打で、何と今回で15回目の乗船となるらしい。

 小柄な女性で一見普通の婦人だが高座に上がるとさすがにプロ。聴衆はスッカリ魅了された。落語家を目指した頃は女性への門戸は閉ざされており、一旦は諦めたもののヤッパリ志は捨てられず、師匠の門戸を叩いき渋々入れてもらったという。

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 こういった世界は内弟子として色々苦労もあったろう。そんなことを面白おかしく紹介し、刑務所慰問で受刑者に心待ちされ、笑顔を見せてくれた事に励まされた話や、北朝鮮を訪問するために現地の言葉を学び、日本語と朝鮮語の2カ国語を相交えながら喋り喜んでもらった事等を話し「だから止められない。英語も学んでいて3ヶ国落語をやりたい」と大きな夢を語った。イヤ実際これも最後の寄席ので聞いたような気もする。

 更に軽快な歌にのせて「南京玉簾」も披露してくれた。どこかで聞いたようなメロディで玉簾を投げ出したり、引き戻したりしながら色んな形を作って会場の皆を引き込んでいった。

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 そして最後に彼女の計画が発表された。彼女が乗船しているケニアからエジプト迄の間に、船上での弟子を募り、芸を仕込み、寄席を挙行するというのだ。そして翌日から猛特訓が始まり、その通りに8日目には実行されたのだった。次回はその時の様子を・・。写真はスエズ運河の日没。ジャングリング世界一のチャンヘン君と。自室に掲示していた日付変更線と航跡を記入した世界地図。

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25)DVD試写会の通知

2006年04月25日 | ピースボート世界一周

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 新年度になってピカピカの一年生が、父母に付き添ってもらい上水通りを賑やかに通学しはじめた。青葉のトンネルに真新しいランドセルはよく似合う。

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 そんな折、以前からお話を戴いていたお知らせが届いて嬉しい。帰国後3ヶ月がかりで編集に取り組まれていたDVDが完成したという。DVDの腕前はプロはだし。音楽も愛され音響入りで格調高いものだろうと想像する。

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 船上でも自主企画でも12月9日「船上で自然との一期一会」と題して海、イルカの漂泳、空の表情,朝夕の太陽の様を音響入りで楽しませてもらった。

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 最初の夕食で同席したよしみもあってspeach-contestの際、個人的にパルパライソ(チリ)の夜景のフイルムをお借りした事もあった。手軽なデジカメと違い望遠レンズで撮られた夜景やとりわけサバンナで遭遇した動物達の写真は見事であった。

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 かなりの数のフイルムを断腸の思い出カットしたけれど、3時間の大作になったと仰っていた。あの控えめな方が、御自分でも良い出来で自信ありとメールを下さったので、大いに期待しているところです。久しぶりに40人を超えそうなかってのお仲間にお会いできるのも嬉しい。メル友からの写真も混在。皆が主役。

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ひかがみ

2006年04月23日 | 捨て猫の独り言

 強風で八重桜が舞い散る様子はなぜか心が騒ぐ。そしてハナミズキが芽吹き始めた。ヤマボウシもそろそろか。玉川上水にも新緑のトンネルが形成されつつある。今年度で定年退職である。個人差があるというものの職場の62歳定年制は私にどんぴしゃりである。そろそろいいかなと自分でも思う。一番の理由は視力である。二番目は歯力だ。ただ長距離自転車通勤は最後まで続けられそうだ。

 「ひかがみ」 という人体の部位を示す言葉がある。詩人のエッセイで知った。だいぶ昔のことである。膝のうしろのくぼんでいるところである。言葉のひびきが気に入って言葉そのものを忘れることはなかった。デパートのエスカレーターで偶然女性のひかがみを目にした。自分の体とはいえ、ほとんどの人は意識することのない部位である。その無防備なひかがみをいとおしく感じたという内容であったかと記憶する。

 時代の空気というものが存在する。ひかがみを目にしたからとて、あの詩人のように感慨にふけることは少なくなった。今では数多くのひかがみは太陽のもとにさらされている。とくに高校生の女子は痛々しい。冬など特にそうだ。むきだしの太ももは寒さで真っ赤に鳥肌立っている。それにしても高校を卒業すると同時にむきだしがぴたりと止まるのは不思議な現象だ。

 ハナミズキは上から見るべき花だと言う説を聞いた。オフィスビルから街路樹のハナミズキを見下ろすのが一番かもしれない。ものの見え方や見方はさまざまである。こちらが自転車に乗っていて前を女性が乗った自転車が走っている。それを後ろから見るとき、長いスカートの中にひかがみを発見していとおしさを感じることがある。稀にこんな幸運な瞬間が訪れる。スカートは長く、本人がお気づきでない時がそうだ。

 

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24)サバンナを走る

2006年04月20日 | ピースボート世界一周

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 サバンナは野生動物たちの生活の場で、はるか彼方見渡す限り広がっていた。おおむね草原でそこかしこに潅木の茂みはあるが、多くは立ち枯れたような背の高い草や背の低い草木に覆われていて、こんな平らな草原で、テレビで見るように外敵に狙われたら逃げ切れるのだろうか?と思えた。 Peace_boat_118_1

 たった一日半位しかサファリドライブをしなかったせいか、フィールドが広すぎたせか動物同士の狩のシーンには出くわさなかった。キリン、象などは群れをなしてソロリソロリと歩いていた。シマウマも群れで移動していたが時に駆け出して動きは俊敏だった。座ったり寝そべったりじゃれたりしながらいくら待っていても立ち上がらなかったのは子供と一緒のライオンだった。その他何種類かの小動物達はさすがに俊敏で茂みに中で周りを伺い、その後に走り出す習性が見て取れた。Peace_boat_191_1

 彼らを脅かすものは全て外敵となる。私達も車を含め当然外敵の大きな一つであった。事前にサファリドライブのマナーを充分に受けていたので、「近付きすぎない」ために動物が道路を横断するときは遠めで待っていたり、「騒がない」ようにライオンが自分で立ち上がるのを待った。言い忘れたがサバンナには金網がめぐらされていて動物が近づくと電気を感知する仕掛けになっているらしかった。私達はゲートを開けてもらって入った事になる 。Peace_boat_177

 ドライブの後シャワーを浴び、料理教室バリに現地の主食であるトウモロコシからつくった、パスタとパンとお焼きをミックスしたような物を作る作業を見たり(この時愉快に指導してくれたピーターバンドのピーターも、今回3発の銃弾を浴びその後病院で死去) 一緒に捏ねたりした後、賑やかな夕食会が始まった。大御馳走で「現地の人々はこんなもの食べられないノニ」との思いは今回の旅程を通して常に私の心を縛り付けていた。Peace_boat_184

 夜空には満天のキラ星。船で見るのとはまた違って目近かで輝きを放ち、今にも落ちて来そうなほど数多くしかも流れ星まで堪能できたのだった。ホテル仕様のロッジに就寝後ナニヤラ音で目覚めた 聞いてはいたが窓越しに覗くと、なんと池を囲んで多様な動物達が水を飲んでいた。母象が子象ピッタリ寄り添ってお尻をこちらに向けていた。その子象のお尻がまた何とも可愛らしい事といったらなかった。Peace_boat_150_1

 4・11に31歳を迎えるクマーは我が子の世代。彼と接する時は我が子のような思いであった。何時も元気で疲れを知らず皆を鼓舞していたものの、時に海や陸で遠くを見やっていた。彼の胸に去来していたものは?と今にして思う。写真の上で左クリックすると拡大できます。

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23)アイデンティティ

2006年04月17日 | ピースボート世界一周

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 世界一周の一通過点であった筈のアフリカは、今となっては私の心を釘付けにする地点となった。同じ地で偉大な友人2人を永久に失ってしまったのだ。  (ピーターも2、3日後昏睡のまま死去。右上のピーターの写真はなぜだか拡大できません)

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 サバンナの広大で乾燥した赤土。茂みや草原をノッソリあるいはすばやく走る野生動物たち。そのサバンナを車列をなし赤土をけたてて走るサファリーカー。観光客むけのロッジは見事に設備されホテル並みに快適そのもの。食事も美味で豊富。しかもテラスの目前には水場が設けられ、朝夕は水を求めてやってくる動物達を居ながらに鑑賞できる仕組みになっていた。

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 頭上に水のボトルを載せ路上を素足でゆっくり歩く婦人達。車が通るとあどけない笑顔をみせたり、何か頂戴とばかりに手を差し出す子供達は戦後の日本で見られた風景ではなかったか?男達も仕事場に向かっているのだろうか、歩いている姿を多く見た。ゴミ焼き場だろうか?自然発火だろうか?くすぶる野原。その近くにはビニール等が散乱している。この分では蚊やハエも発生していることだろう。

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 商売人は団体客を相手に上手な値段交渉をしてくる。客は言葉を充分に操れない。貨幣価値の違いで高いのか安いのか分からない。「欲しい」場合は販売員と何とかヤリトリする。そして販売員が責任者らしき人と最後の値段交渉をして折り合うか決裂する。そんな具合だった。その店では計算機がないのか、メモ用紙に書き付けては思案していた。一人の客が自分の計算機と商品の交換を条件に出すと商談は即刻決着した。 

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 多くの先生方もshoppingに余念がなかったけれど、 kumarはお弟子さんのために?ジャンベを求めていた。kumarの柩に載せられていた見慣れた服や周りに並べられていた装飾品、置物、お面、などもこんな風に一つ一つ丹念に求めていった物だったろうか。

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 kumarのみならず、他の米国人も「自分自身のアイデンティティに戸惑う」と表現している。kumarがアフリカにこだわったのもジャンベや音楽であったことは確かだが、アイデンティティの戸惑い故にアメリカとは対極の所に身を置いたのではないかと私には思える。

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病院の再開発

2006年04月16日 | 捨て猫の独り言

 3月末に武蔵野赤十字病院に新しい建物が完成した。古い方は改装されて緊急外来棟になるという。病院の玄関入り口は新しい建物の方に移動した。職員や患者の動きにも緊張や戸惑いの様子が見える。

 これまではなかったエスカレーターが登場した。人が一人通れるほどの狭い幅だ。新しい中央採血室はパーテーションのあるカウンターになり、取り付けられたばかりだった、むさくるしい布のカーテンは姿を消した。待合所に順番表示機ができた。医者が不慣れのようでまだまだ機能していない。建物の内外にイスとテーブルのあるくつろぎの空間が増えた。これまでと異なり医療費計算の入力は各科で行われ、出口付近に自動入金機が設置された。以前の会計窓口に大勢いた女性たちはどうなったか気にかかる。それでも病院全体には変化の活気がみなぎっている。

 私の眼科通いはしばらく続きそうだ。二人の若い女医が担当し、主任の男性医師が随時加わるという体制だ。症状はそれほどのことではないのに大げさだと思う。しかし満更でもない。

 ご存知のように眼科の診察は機器をはさんで至近距離で行われる。耳に米粒ほどのピアス、真剣に仕事する唇が私のごく間近にある。最初は戸惑いもあったが今は心静かに若さを鑑賞している。指示に従ってまばたきもせず、両眼を見開くのだ。しかし 「若さはただそれだけで美しい」 という私の想いを、その只中にいる彼女達は気づいていないと思われる。最近はお互いに軽口を叩くほどだ。通院にも意外な楽しみがある。

 

 

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22)kumarをモット知る

2006年04月13日 | ピースボート世界一周

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 3月16日kumarがgunnに倒れてから4Wが過ぎました。未練と思いつつも、私達の悲しみが次第に薄れていくのも止むを得ないことです。そういう意味合いもあってあと1、2回立ち止まってみようと思います。

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 船内の企画に「GET Closer with (  )」というのがあってGET teacherの自己紹介や質問コーナーがあった。先生方も色んな所から応募してきており、自分達もその人を知りたいという訳で参加者が多く好評な企画の一つだった。私も時間の空いている限り出席した。勿論hearingの練習も意図していた。以前書いた「世界の平和も大事だけれども、足元の自分の平和もモット大事では?」と質問したのもこの場だった。

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 船内企画「サァーファー哲学入門」紹介では、船内新聞のインタビューを受けて答えている。peace boatとの出会いは宮崎で英語教師をしていた時。今回は5回目の乗船。楽しい事はGETの先生と皆の架け橋になれる事。世界の皆と出会える事。大変な事は自分の時間を作る事。自分自身のアイデンティティに戸惑う事。趣味はサーフイン、サッカー、ジャンベ、音楽等。メッセージは「Live it up!」自分の夢をかなえる。ポジティブに元気よく。確かに彼はこの通りに生きた人だった!。

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 彼の仕事である語学教育のマネージメントは教材がしっかりしていた。レクチャーでは多くの場面でアメリカは分が悪かった。その辺をアンデンティティに戸惑うと表現していた。その他船内企画の随所でリーダーシップをとり、皆を引き込んでいた。クジラ、イルカのウオッチング。語学クラスの小運動会や全体参加の大運動会での大活躍。スポーツデッキで熱中していたサッカー。ジムでのトレーニングやボクササイズへの参加など。

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 何と言っても一番印象に残るのはジャンベを叩いているときの幸せそうな顔であった。心からアフリカの音楽を愛していた。最初にその恰好を見たのはGETの先生の紹介の時であった。ステージ上で彼がジャンベを股間に挟んで打ち鳴らし、20名近い先生方がマラカスを手に手に出て来た時だ。先生方は壇上でひとしきり踊ったり、おどけたりして降りていった。乗船間もない時期だったので会場が盛り上がり、一段と打ち解けあったのは言うまでもない。

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 その後も各寄港地を出航する際、船上から色とりどりのテープが投げられ下船する講師や関係者と別れを告げたのだが,その際も流れるテーマソングに載せて幸せそうにジャンベを打ち鳴らしていたkumarの姿が、テーマソングと共に思い出される。

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21)kumarを偲ぶ会

2006年04月10日 | ピースボート世界一周

Kumar  午後から雨が降り出した4月2日の夜8時、100人近くの人々が集まってkumarlewisを偲ぶ会が営まれました。4~5回乗船したkumarにはたくさんの友人や知人がいて、久しぶりに会った喜びや大事で貴重な友人を失った悲しみが満ち満ちていました。

Kumar3_1  会場のアチコチに彼のおどけた写真や、日々を満喫している写真、強靭な体をさらし、気持ちよくジャンベを叩きアフリカの音楽に浸っている写真が掲示してあって、そのアフリカの地で「何ゆえに銃弾に倒れなければならなかったのか」と思うと怒りと悲しみが一段と込み上げてきました。

Kumar4_1  突然の訃報を知らされた人々の彼へのメッセージは真摯でひたむきで情熱家。スポーツマン(サッカー、サーフィン、登山)でアフリカ音楽愛好家。家族思いの国際人と悼んでいました。

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 2歳違いのお姉さまの挨拶は悲しみをこらえ、時に笑みさえ浮かべて感謝の言葉を述べられ感動的でした。「弟は目立ちたがり屋の性格で何時もうるさいほどにお喋りだった。私はズーッと聞き役だった。しかし彼は何でもこなし何時も優秀な成績を収め、我が家の誇りだった。そんな彼にとってアメリカだけではフィールドが狭かったのだと思う。どうかkumarのことを忘れないでほしい。皆さんの中でkumarが生き続けていく事を願っている。私もkumarの目を通して見てゆきたい」といったものでした。

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 そして会の最後に、彼が機会あるごとに叩いていたジャンベを彼から学んだ人たちが叩きました。参加者は哀切な響きを持つ歌唱が流れるとリズムに身も心もゆだね、唯ひたすらジャンベを叩いていたkumarを偲ぶのでした。

kumarのプログはhttp://kumarlewis.comです。英語版ですが写真も見られ、音楽も聴けます。このページの写真はすべて当日会場で撮影したものです。

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西郷さん

2006年04月08日 | 捨て猫の独り言

 鹿児島の丘の上のホテルに午後8時にチェクインした。羽田空港を先発した三人と会えると思ったがまだ到着していないという。1階の 「滝の茶屋」 で一人で夕食をとることにした。豚骨、枕崎の鰹のたたき、奄美の鶏飯、焼酎は黒小鶴お湯割りである。

 テーブルにA4版4ページの2枚のシートが届いた。お食事を待たれる間のミニミニ講座 「西郷さんてどんな人?」 とある。もっと詳しいく知りたい方は西郷研究家で滝の茶屋スタッフの梅田を呼んでくださいとサービス満点だ。

 西郷さんの名は隆永だが戸籍制度改正の際、友人が父親の名前と間違えてしまった。西郷さんは 「それでよか」 と隆盛を名乗り続けた。25歳で伊集院スガと1度目の結婚をするが単身赴任が理由で離婚。31歳のとき僧月照と共に錦江湾に入水するも西郷さんだけ蘇生。月照を匿った罪により奄美大島へ島送りとなる。奄美大島で愛加那と2度目の結婚をし男児と女児の二人を授かる。男児の菊次郎は後に京都市長となる。罪人は赦されて帰る際島で結婚した相手を連れて帰ることはできない。3年後に愛加那とは召還に伴い離縁する。さてさてその直後に島津久光の怒りを買い奄美大島より遠い沖永良部島へと再び一年半の遠島になる。私のもっと知りたいはこの頃の久光と西郷さんの確執だ。

 39歳のとき坂本竜馬と会い、薩長同盟を締結。この頃岩山イトと3度目の結婚をし3人の男児を授かる。孫の一人に法務大臣となった吉之助がいる。1877年2月西南戦争勃発。9月鹿児島城山の麓の岩崎谷で自刃。享年49。勝海舟は西郷さんの訃報を聞きたいへん悲しみ一首の歌を詠んだ。「ぬれぎぬを干さんともせず子供らのなすがままに果てしきみかな」 このミニミニ講座のコピー4枚を持ち帰る人は多いそうだ。

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宗教は楕円形

2006年04月04日 | 捨て猫の独り言

 隣の席の方丈さんは正法眼蔵は難解ですと言う。その翌日に私がいただいたのが、道元に師事しのちに永平2世の懐奘(えじょう)による 「正法眼蔵随聞記」 (ちくま学芸文庫)である。これをテキストに寺では勉強会を開くことがあるという。原文と口語訳がある。さっそく私は口語訳を読んでみた。

 道元は2つのことを説いている。 「さがし求めないでも、命をささえるだけのものは天然自然にそなわっている。ほかの事に心をとめないでひたすら道(仏法)を学ぶべきである」 「人の見ていない場合も、人の見ている時と同様にかくすべきところをかくし、恥ずべきところを恥じなければならない」

 驚きの断言(常識を絶した論理)がある。 「文章を作ったり、詩歌を詠んだりなどは結局役に立たない。これらを捨てるべき道理は言うまでもない」どうやらその理由は、多くのことを同時にして心やそのはたらきを静かにしないのはいけない。ひたすら座禅するのがいいということらしい。この本の最後に増谷文雄氏のつぎのような解説が付いている。 「宗教は楕円形に似ている。楕円形はその中に2つの中心をもっているが、宗教にも2つの中心がある。仏教の術語でいえば法(仏法)と機(人間)とがそれである。法然・親鸞は人間の側の吟味から出発する。道元はまず本当の仏教とはどのようなものであろうかとまっしぐらに考える」

 「無常は迅速である。気を許してはならない」 いかにもまっしぐらの道元さんらしい言葉だと思う。

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