玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*冬至

2013年12月24日 | 玉川上水の四季

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 玉川上水の分水である新堀用水には多摩川の真水が流れていた。今年の8月に亀裂が見つかって以来その通水は止まったままだ。現在その川底には、かなりの落ち葉が吹き溜まって放置されている。年末を迎えて、つぎのような案内板が立てられた。「用水路の補修工事を来年2~3月ごろから2ヶ月程度かけて実施する予定になりました。つきましては現在休水中の新堀用水は遅くとも来年5月中に通水できると思いますのでご案内いたします」これまで亀裂が発見された現場付近は立ち入り禁止となっていた。これが解除されて、寸断されていた緑道はひとまず通れることになった。

 15日の日曜日に玉川上水の南側の水が流れていない分水の溝に沿って散歩した。柵を乗り越えて分水が暗渠になっている部分をどんどん歩いて行くと広い農家の庭先に出た。そこに梯子を片付けているお爺さんがいた。おそるおそる、ここを抜けて大通りに出たいのだがとお願いする。それには答えず「何個でもいいから柿を持って行かんか」とおっしゃる。簡易の小屋の中の重ねられた箱の中に傷みかけた柿がたくさん並べてある。入れ物がないので買い物帰りに立ち寄ることにした。帰りに立ち寄ると庭先に人影はない。大きな家の玄関のチャイムを押すとお婆さんが顔を出した。傷みの少ない柿を選んで30個近ほど持ち帰る。「来年はもっと早い時期においで」と言う。柿は近所の子供にも配った。あのご夫婦はきっと二人暮らしに違いないと思った。なんとも不思議なできごとだった。

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 二十四節気ごとの季節の移り変わりを実感している。これというのもオープンギャラリーの観察会のおかげである。私はこの観察会を「鈴木教室」と周囲に言い伝えている。教室ではたまに遠出することがある。8日の「大雪」の時は三鷹駅から風の道を歩き、井の頭公園を散策した。都市化によって井の頭の湧水が枯渇している現実に思いをいたしながら、池のほとりでおにぎりをほおばる。この池は神田川の源流である。解散後に希望者は「いせや公園店」で焼き鳥、しゅうまい、煮込みをいただいた。年が明けた5日の「小寒」の時はギャラリーから小金井公園までの歩きが予定されている。公園のテーブルを囲んでささやかな新年会である。公園内のロウバイがちょうど見頃の年もあった。

 冬木立になって緑道は明るくなった。ここのところ我家の近くの緑道で巨大なクレーン車が出てケヤキなどの大木の伐採作業が行われている。都水道局の玉川上水整備10カ年計画事業の一環である。ギャラリーの「冬至」の東展示は「夜明けと日の出」の12枚の写真が並ぶ。小平から見えたスカイツリーをとらえた写真もある。「東の空に広がる茜色は、寒いときほど、その色彩が鮮やかです。この景観を楽しめるのは日の出前、45分から35分前になります。つまり10分程度が最高の色彩を堪能できるのです」と鈴木さんは説明している。元旦の日の出は6時51分だから6時5分ごろから茜色になる。ついでに月の方も調べてみた。元旦は月が太陽の方向にある新月(大潮)で残念ながら月影は見えないようだ。そして1月の満月(大潮)は16日である。(写真は伐採されるケヤキ)

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突発性難聴に襲われる

2013年12月18日 | ねったぼのつぶやき

  今日ツレアイは偶数月に一度開催される囲碁会に出かけ不在である。明日は69才の誕生日を迎える。概ね健康で、右目が緑内障で視力のバランスが悪い他は特に問題はなかった。がこの1~2ケ月血圧上昇に引き続き右耳が聞こえなくなった。「突発性難聴」でステロイド剤の処方を受けた。救急受診に始まって内科・耳鼻科・通常の眼科と多岐にわたり、ようやく何れも安定化しつつある。最近、お互いの聴力が衰えているのは自覚させられていたので、気付くのに一週間を要した。

001  耳鼻科受診を終えて帰宅した彼に病名を尋ねた。聴力検査の結果片方の聴力が極端に悪く、「ステロイドを使いたいが緑内障を増悪させかねず、眼科医に相談する様」言われたが、病名は告げられなかったと言うのみ。「如何して聞かないの?自分自身のことでしょう?疑われる病名を継げない医師も変だが、問わない患者はもっとおかしい」と私は怒る。経過から判断すると「突発性難聴」と推定され、次回の診察日には必ず診断名を確認するように念を押すと、「そう言われたよ」と返ってきた。誰のものでもない自分の体なのに・・・病気になったら医者に丸ごと体を預ける積りなのカッ!!。

  定期検診など私はまめに受ける方でたまに抜けると気になる。検診事態の有効性に関しては議論のある所だが、それでも安心の相対的な目安にはなるだろう。彼は自発的には受ける方ではなく、私がうるさいから受けとくかといった程度である。万事なるようにしかならないという主義だ。確かに彼が病身になると私が困る。回復可能な病ならまだしも、回復不能の病だけは得たくない。私が気付かなかったばかりに・・・と後悔したくないから私は口うるさくなる。・・とはいえ今や2人に1人が癌になる時代。1人が罹患しても平均的な訳だが、自衛・予防策で防げるものは防ぎたい。

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*山頭火の妻

2013年12月16日 | 捨て猫の独り言

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 市立の図書館には中央館、地区館、分室とある。分室に足を運ぶことはほとんどないのだが、ある時めずらしく訪れた近くの分室の本棚で「山頭火の妻」という単行本に出会った。著者は35年生まれの女性で63年から92年まで熊本県警に勤務したという経歴の山田啓代(みちよ)である。読売新聞社から94年に出版されている。私が読後にネットで調べたこの本の紹介文に「放浪・弧高の俳人を陰で支えた妻・咲野をモデルに、酒乱で生活能力のない夫との人間的な葛藤を描いた」とあった。私はこの夫婦の行き違いが「葛藤」と呼べるのか疑問に思う。生前には必ずしも理解しあえたとは思えない夫と妻。夫の没後、妻はどんな思いで三十年近くを生きたのだろうか。

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 種田山頭火、本名は正一は1882年(明治15)山口県の現在の防府市に生まれる。大地主の長男である。父親が政治などに首をつっこみ家政が乱れ、父親の行状も乱れて、母親が33歳で自宅の井戸に身を投げる。20歳で上京、早稲田大学文学部に入るが、25歳の時強度の神経衰弱におちいり退学、帰郷する。28歳で結婚、その翌年ごろより大酒を飲むようになる。佐藤咲野は89年に生まれ20歳で隣町の種田正一と結婚した。山頭火の場合は「坊主になるから嫁はもらわぬ」と言っていた男が承知したほどの縁談だった。初々しい咲野を前にしては、それまでの言動がたわごとに思えたのではなかったろうか。

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 ところが咲野は新婚一週間目にして早くも夫の正体に出会うことになる。彼はなんのことわりもなく家を抜け出ては、はるかな街に友をたずね、酒を求めては徘徊するようになる。家を飛び出して何日も帰らないからといっても、咲野に対する愛情がないわけでもなさそうだった。咲野は次第に妻としての立場をのみこんでいく。一年後に咲野は母となった。長男健の誕生である。種田家が破産し長男健7歳の時一家は熊本に移り住み、古書籍店「雅楽多」を開店する。やがて咲野の才覚で額縁やアルバムを扱う店となる。夫婦の間を親戚によって裂かれたようだ。咲野31歳の時に離婚届に押印したが、その後も別れているような繋がっているような関係が続いていく。息子の健は就職してから父親に仕送りを続けている。そのとき咲野は寛大に息子の親孝行をよしとしたのか、それともわが子の生活までおびやかしている山頭火を許せずにいたのか。

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 私たちに妻・佐藤咲野自身の言葉は残されていない。山頭火の句や日記や書簡と、母親のことを快く話してくれた長男の種田健氏の言葉から咲野の心の内を推測するしかない。健氏の言葉の一部をつぎに記す。「山頭火がああなったのは、母のせいだと悪く言う人もいますが、息子の私にとっては、母は大恩人でした。私を育てるために、母はだんだん強くなっていったのです。強くさせられた女だったのですが、それが山頭火にはうとましかったんでしょうな」「山頭火が生涯堅気になりきらなかったのは、親の躾が悪かったからです」「母は感情が死んでいましたね。私の結婚にしても、別にこれといった感慨はなかったようです。山頭火は私の結婚のことは聞いていた筈ですが、式に出席もせず、電報も来ませんでした。母の実家の佐藤家の伯母と、山頭火の妹の町田シズが出席してくれました」

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*岩波茂雄の伝記

2013年12月10日 | 捨て猫の独り言

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 庭ではカキの木がすべての葉を落した。ニシキギとツツジの紅葉はいまだに健在だ。サザンカが咲いているが、いま一番いきいきと咲いているのは淡紅色のネリネだろう。最近の早朝5時のラジオでは「誕生日の花」にヒイラギと茶ノ木の花が続けて登場していた。ところで6日の新聞につぎのような記事が出た。日展において「書」部門で本審査前に入選者の会派別の割り当てが行われていたと第三者委員会が報告した。これまで公然の秘密だったことだ。そこで「書」部門には何らかの改善策が求められているのだが難しい問題だ。11月1日に始まった日展の東京開催は12月8日で終了した。

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 図書館の新刊コーナーで出会った「岩波茂雄」を読んだ。昭和の膨張主義的ナショナリズムに抗った岩波の風貌がよく伝わる作品だ。この本の著者は1975年生まれの中島岳志で、副題に「リベラル・ナショナリストの肖像」とある。岩波茂雄は1881年(明治14年)に生まれ1946年(昭和21年)に65歳で死去している。50年以上も前に、哲学者で漱石門下の四天王と呼ばれた安倍能成(よししげ1883~1966)が「岩波茂雄伝」を書いている。その安倍から返却された10個ほどの段ボールの資料が岩波書店の書庫で眠り続けていた。中島による今回の再びの伝記執筆の作業は、その資料の一つ一つを年代順に整理し直し、分類することだったという。

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 中島はこの本の「あとがき」でつぎのように書いている。「資料の読み解きは、岩波との格闘であるとともに、安倍との闘いでもあった。『岩波茂雄伝』は岩波の正史であり、一高時代から歩みをともにしてきた親友の作品である。安倍が目を通し、執筆に使用した岩波文書の紐解きは、安倍の技法を追体験する作業でもあった。そのプロセスで分かったことは、安倍の突出した力量と共に、彼が避けて通った資料の存在だった。安倍が描いた岩波像と、私の描こうとした岩波像が衝突した。時間を越えた無言の討論はスリングだった」とある。こう書かれるといつか安倍の著作も読もうという気になってしまう。

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 岩波書店の創業は大正2年で、32歳の時である。第一章は創業以前の岩波で「煩悶と愛国」というタイトルが付いている。第一章から印象に残った記述を一つだけ取り上げておこう。岩波が16歳の時のことである。父は前年の正月に急死している。「当時、村には伊勢講があった。母を説得し許可を得る。この年はほかに希望者がなかったため人生初めての一人旅が実現する。12月30日に諏訪から歩いて甲府に出て、鰍沢(かじかざわ)から富士川を船で下り、身延山久遠寺を参拝した。そして名古屋を経由し、山田で一泊した後、1月2日に目的の伊勢神宮を参拝した。ここで旅を止めず、京都に向かった。目的は妙心寺にある佐久間象山の墓参りだった。象山は吉田松陰の師であり、岩波にとっては憧憬の対象だった。その後、岩波は神戸から船に乗り鹿児島を目指した。その目的は憧れの西郷隆盛の墓参りだった。西郷隆盛関係の旧跡を訪ね歩いた。そして、琉球へ渡ろうと思いつき、波止場まで行った。しかし、船は出たばかりだったため断念した」(写真は日展の作品)

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家庭新聞を発行していた

2013年12月09日 | ねったぼのつぶやき

 今年も師走を迎え残された日も少なくなった。今は暮も正月も変わらない日々だが、子育てや仕事の現役中はいつも慌ただしく、とりわけ年末は大掃除と重なって大忙しだった。4人家族の動きを一覧するには、既成のカレンダーでは間にあわず、画用紙を12枚購入して例年一年分のカレンダーも作っていた。その頃家庭新聞を発行していたので、暮には我家の10大トピックスを選び出した年末号も恒例の作業になっていた。

001  その家庭新聞は私の思いつきで始めた。心身に健康上の問題を抱えている方々と接していた私には、日毎に育ちゆく子等の成長は目覚ましく記録を残したいと考えた。B5サイズの用紙一枚を4分割し、各自がその月の行事や出来事をイラストを含めて手書きし、学期末には通知表の「あゆみ」も公表していた。そして毎月5部コピーして、各祖父母に手紙代わりに郵送していたので電話での話題も弾んでいた。残り3部は子供らが世帯を分かつ際持たせたいと取り置いていた。本棚の隅にある表紙に和紙を張った手作りの「2分冊の本」は我家用の一組だ。引き出して繰ってみると、長男が小4~高3年を迎える迄育ち盛りの8年間続けたことになる。

 今は水が低きに流れるように、音もなく静かに日々は流れてゆく。今回久しぶりに引ぱり出しパラパラとめくったら即あの頃に立帰った。私達も未だ雑用に紛れているが、いずれ足元も覚束無くなり、外に出るのが億劫な年令になったら、整理し直したアルバムや和紙本を、飽きもせず何度も何度も読み返す時が来る事だろう。子供等も当時の私達のように働き盛りで子育てに忙しく、それはどこかに突っ込んでいる事だろう。そしていつかヒョッコリ見つけて懐かしく眼を通してくれる日が来ることを願っている。

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*縦書きと横書き

2013年12月03日 | 捨て猫の独り言

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 玉川上水の緑道はクヌギやコナラなどの落葉であつく敷きつめられている。しかし見上げると梢にはまだまだ黄葉や紅葉が十分に残っていて楽しめる。今回初めて気付いたのは黄葉の時期のマユミの美しさである。マユミはニシキギ科の落葉低木でその実をコゲラが好むという。マユミが黄葉し、マユミの桃色に熟した無数の四角い実は四つに裂け、それぞれに鮮烈な赤い種子が顔を出している。柔らかな陽射しの中に黄色、桃色、赤色をしたマユミが輝いている。そのまわりの木々の間を小鳥たちが飛び交っている。そこだけはまるで春のようである。

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 先週のこと半年ぶりぐらいに津田塾の公開講座「総合」に参加した。この日の講師は翻訳家で法政大学教授の金原瑞人氏だった。テーマは「ジョン万次郎、横書きの誕生」とある。漂流中にアメリカの捕鯨船に救助された万次郎は、ハワイからアメリカ東海岸へに行き、そこで読み書きそろばんの教育を受ける。その後ゴールドラッシュの西海岸へ、そしてハワイから琉球、薩摩、長崎、土佐へと驚くべき旅を経験する。この日の講演の本題はここからだった。アメリカを知る男である万次郎が英語を日本語に翻訳せねばならない。しかし英語は横書き日本語は縦書きなので翻訳併記するのに苦労したようだ。

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 かくて異文化との出会いによって日本に横書きの表記が誕生した。縦書きの漢字文化圏において革命中国では簡体字が採用されたこともあり、すでに横書きが主流になっている。縦書きが残るのは世界中で日本と台湾ぐらいのようだ。パソコンの普及でますます日本でも横書きが多くなっている。日本の新聞を観察してみると大部分は縦書きだが想像以上に横書きが混在している。縦横が混在する表記を持つ日本文化も貴重だと思わざるを得ない。教科書はどの教科も横書きだが、国語の教科書だけは縦書きだ。小説も縦書きを堅持している。ネット上の電子図書館の「青空文庫」の存在を今回初めて知った。源氏物語、カラマーゾフの兄弟、西郷南州遺訓などがここでは横書きである。

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 小説が縦書きなのに、幼児のための絵本は横書きが主流である。当然のように当初は国語学者の反対があったという。絵本が横書きなのは理由がある。横書きの流れの方向は左から右への方向である。縦書きの流れはその逆である。例えばある人物が立ち去る場面の絵を考えてみる。横書きならば絵では立ち去る方向は右でなくてはならない。翻訳した外国の絵本を縦書きにすれば絵の流れの方向に不都合が生じる。ならば裏返しの絵にすると今度は右手が左手になるという左右が逆転するという不都合が生じる。(写真上はオープンギャラリーにてマユミとコゲラ、他は小平アートサイトの作品)

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