玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*処暑

2010年08月30日 | 玉川上水の四季

 好天続きで玉川上水緑道は歩くと土ぼこりが舞い上がる。連日の暑さの中で庭のサルスベリの赤い花が咲き誇りそこだけは鮮烈な印象を与えている。ときおりシジュウカラの群れが他でもないサルスベリの枝を訪れてしばらくすると移動していく。8月23日から9月7日までは二十四節気の処暑だ。昨日は節気に一度のオープンギャラリー友の会の日だった。この会はいつでもだれでも自由に参加できる。

 友の会は節気の初めの日曜日の朝10時半からお昼ごろまで開かれる。雨天は中止である。私は連日の暑さから今回は参加を止めようと考えたが思い直して出かけた。主催者である鈴木さんがどんな趣向を凝らして楽しもうとしているのか興味があった。この会の継続を意思しそれを実践していることに多くの人が敬意を抱いているのは間違いない。私が比較的熱心に参加するのは毎回のように何らか得るものがあるからだ。

 萩の花・尾花(ススキ)・葛花・撫子の花・女郎花・藤袴・朝貌の花(キキョウ)を秋の七草という。今回の節気のテーマは秋の花である。今年は撫子と桔梗がこの時期すでに咲き終わったと鈴木さんの報告があった。ギャラリーの展示写真を見ながらその節気の特徴の説明があり、そのあとその時々のポイントの場所を目指して緑道を散策する。その道中に目に飛び込んでくる草花や昆虫などを鈴木さんをはじめ参加者の誰かが教えてくれる。私にはそれが聞き逃せない。今回の目的地は愛好の志が道路予定地を市から借り上げて野草を育てている「どんぐり公園」だった。

 翅を閉じている時は木肌とそっくりな色の「ルリタテハ」という蝶がクヌギの樹液にやってきているのを誰かが見つけた。しかも「つがい」である。翅を開くと輝くような瑠璃色の帯が走っている。また熟れかかった実をつけたゴンズイという名の低木をある人に教えてもらう。どんぐり公園ではこれは「ツマグロヒョウモン」という蝶だと他のある人が教えてくれた。ツマとは端のことだ。たしかに豹の紋様だった。公園ではかろうじて残っていた撫子、桔梗それぞれ最後の一輪の花を見つけて歓声が起きた。垂れ垂れに咲く萩や黄色に群がり咲く女郎花(おみなえし)は健在だった。辞典で男郎花(おとこえし)を知った。こちらは白色の細花が多数開くらしい。

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ポイントを使いこなす

2010年08月28日 | ねったぼのつぶやき

 今やカード時代到来である。私の財布には様々なカードが入り乱れている。健康保険証に始まり、本の貸出カード、クレジット、CO-OP、マーケット、ETC、ポイントカード、診察券等多種多様で増えるばかりだ。しかも有料・無料があり気をつけないと使ってないカードの代金引落しの憂き目にあう。

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 どうせ買物するならポイントの付く店に足が向く。家電販売店のポイントは、エコ家電ポイント制もあって大きく稼ぎ恩恵を被った。マーケットのはその店で即使える。JALのポイントも機会あるごとに貯めていたがチェックの目が甘かった。イヤ「使う算段」のPC操作が複雑で先延ばしにしていた間に、一定の期限(今月末にも4ケタの数字)で消滅してゆく宿命になっていた。そこで大慌てでPC、電話をしまくって2人分併せて4.2万円相当分の利用券に交換出来ることとなった。

 無知は恐ろしいとはこの事だ。漫然とポイントを貯めながらこの数年どれほどのポイントを無駄にしたことだろう。時代はどんどん進み多種多様のカードは益々氾濫してゆくだろう。賢いカードの使い方やポイントの稼ぎ方があって研究すれば活かされもしよう。しかしその算段は電気製品の仕様書を読むのと同じで気分の方が萎えてしまう。齢を重ねる毎に、そんな事が増えてゆくのが実感されるのは悲しいことだけれど・・・。 (山荘は木立に囲まれ涼しかった)

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*甲子園余話

2010年08月26日 | 捨て猫の独り言

 高校野球のテレビ放送をよく観る方だ。ひいきチーム以外の試合でも初回の表裏の攻防はつい観てしまう。初回だけ観てテレビのスイッチを切り勝敗の行方を予想する。負けたら次のないトーナメント戦だからどの試合もその滑り出しの緊迫感はたまらない魅力だ。テレビ中継ではセンター方向からのカメラがバッターとキヤッチャーをとらえた画面が長時間写し出される。その画面で気付いた興味深いことがある。その画面の中では連日ほぼ同じ顔ぶれの人達がほぼ同じ席に座っているのである。テレビに写し出されるのはバックネット裏席の前から2列目までのしかも中央部分の席に限られる。

 今回甲子園球場の近くに宿をとり開場前の様子を目撃する機会があってその特異な高校野球愛好家の行動様式をはっきりと理解した。まず開会式前日までに中央特別自由席(バックネット裏席)の22400円の「15日間通し券」を購入する。そして毎日徹夜で並ぶのである。並ぶ権利はこのような何らかの前売り券を持つ者だけに限られている。その日の試合が終了したら彼らは球場を離れることなく明日のためにまた並ぶ。それも列の先頭であることが必要だ。こうなるとこれら愛好家同士の協力体制が自然とできあがるのは容易に想像できるというものだ。当日券組はこの人達にはとても太刀打ちできない。それにあの席は一日中直射日光を浴びる席だから頑健な体力の持ち主でなければならないのである。

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 今回の私が座った席は朝9時から午後4時まで一瞬たりとも直射日光を浴びることのない席だった。そのうえテレビに写る心配もなくバックネットに近いという願ってもない良い席だった。この日私は200円の「かちわり氷」を3回購入して氷嚢代わりに使った。事前に用意したなまかじり用のキュウリ、凍らせた牛乳パック、梅干し、おにぎり、ビールで十分に満足し、甲子園の500円カレーは食することなく終わった。私達の隣の席はNHK関係者の特別席で、この日の解説者の鍛冶舎巧氏や非番のアナウンサー小野塚康之氏の姿を見かけた。鍛冶舎氏は放送終了後に花束を手にしていた。数日後に鍛冶舎氏が25年間つとめた解説者を引退するのを知って花束の謎が解けたのだった。

 高校野球は春の選抜大会と夏の選手権大会が行われる。今年は春が82回で夏が92回目である。大会期間はそれぞれ12日と15日で、主催新聞社がそれぞれ毎日と朝日で両社は互いに後援の協力関係も結んでいる。紫紺の大旗に続いて深紅の大優勝旗が沖縄に渡るという記事を見た。たしかに興南高校の我如古(がねこ)主将が今回手にしたのは深紅の大優勝旗だった。私は帰りも来た時と同じ普通列車にした。豊橋から辰野までの飯田線にはじめて乗った。飯田線は天竜川に沿って93の駅がある。このことで中央アルプスと南アルプスの位置関係を明確に把握することになった。

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*18きっぷと甲子園

2010年08月23日 | 捨て猫の独り言

 夏の全国高校野球大会の試合を観戦することになった。日程が順調ならばその日は決勝戦である。前日は甲子園球場の近くに住む友人宅に泊めてもらうことにした。行くなら「青春18きっぷ」で行くのがふさわしいとなぜか思ってしまった。東京から大阪まで約9時間かかる。こんな贅沢な時間の使い方があるのだ。準決勝第一試合を甲子園に向かう普通列車の中で安物のラジオで雑音に悩まされながら聞いた。携帯電話の画面でテレビ放送を観ることができるという時代に携帯を持たぬ自分をいじらしいと思った。ともあれ沖縄の興南が報徳学園に逆転勝ちしたので私の気分は高まるばかりだった。決勝戦の相手は成田を破った東海大相模である。

 甲子園球場に足を踏み入れてみて高校野球を愛する人の数やその熱意は大変なものだということをあらためて認識することになった。バックネット裏席、内野席、アルプス席、外野席の料金はそれぞれ1600円、1200円、500円、0円である。1600円の入場券を求めて友人は5時起きして並んだ。10時開門が8時35分に早められた。8時頃には徹夜組94人を含む5650人が並んだための大会本部の処置だという。4年前に4000人が並び開門が8時50分というのがこれまでの記録だという。それでも首尾よくバックネット裏のNHK放送席の真横という絶好の席を確保することができた。

 試合開始まで4時間もあったが退屈はしなかった。興南の一塁側アルプス席はオレンジのスクールカラーで早めに埋まってゆく。選手のベンチ入りは約1時間前だがこれも興南の18人の方がかなり早かった。気付くと球場は満員の観客で埋め尽くされていた。いつの間にやら潮が満ちていることに気付いた時の驚きと同じである。試合は3回まで堂々たるプレーの応酬で両チームに風格さえ感じたものだが、東海大相模は4回裏にスクイズを見破りながら送球ミスが出たのを契機に大量失点をしてしまう。興南の春夏連覇の偉業が達成された。作新学院、中京商、簑島、PL学園、横浜についで6校目である。

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 閉会式前に一塁側アルプス席あたりからウエーブが始まった。そこからバックネット側へ、そして敗れた三塁側アルプス席の観客も立ち上がりウエーブが続くとそれを見た一塁側からは大きな拍手歓声が起きる。そして外野席側を巻き込み球場内を一巡する。それはいつ止むともなく続き三巡目が終わりかける頃に鼓笛隊の入場でやっとウエーブが終った。閉会式の最後に両チームが場内を一周し、大会歌「栄冠は君に輝く」の歌詞がバックスクリーンに表示され、それを見ながら観客も唱和する。その歌詞の2番は「風を打ち大地を蹴りて くゆるなき白熱の力ぞ技ぞ 若人よいざ一球に一打にかけて 青春の賛歌を綴れ ああ栄冠は君に輝く」である。閉会式で聞く大会歌はまた格別である。

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Skypeで長話が出来る

2010年08月18日 | ねったぼのつぶやき

 成田で見送ってからそろそろ2週間になる。以前なら折角Skypeしても孫達はカメラの前からすぐ遠ざかっていたが、日本語が通じるようになって長らく対話出来るようになった。母親の仕事が決まり、彼女らも予定を早めて幼稚園に通うことになったという。8割方日本人というからすぐに順応出来てスキルアップも望めよう。

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 彼の国では日本人の夫婦であっても家庭内でも日本語を通し続けるのは本当に難しいと聞かされていた。娘の知人もわが子の日本語教育に頭を痛めているという。向こうで生まれたら当然として在米が長引くほど困難らしい。今回の初帰国は2ケ月半の滞在とあって言語習得には大きな効果を認めたので今後の訪日も期待できそう。(お別れ前夜に花火を楽しむ)

 今知人の知り合いがこの5月に出版した「日本人の国際結婚」ーカナダからの報告ーという本を読んでいる。カナダ全土でアンケート調査をし、インタビュー、考察を加え、更に今までの推移、文化の相違、同性婚、国際児、国際離婚、移住者のコミュニティの将来等270頁に及んでいる。その中に、言語の習得が如何にその後の生活に大きく影響するか述べられていたが当然の事といえよう。孫らも少なくとも2ケ国語欲をいえば3ケ国語位は操って欲しい。

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*八ヶ岳南麓

2010年08月16日 | 捨て猫の独り言

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 お招きに甘えて高原の山荘に2泊した。ほぼ同年代の3組の夫婦が集まる予定であったが1組だけは男だけの参加となり総勢5人となった。結果として1台の車で移動することが可能な人数になった。山荘の持ち主は私達の到着前に東京から車で先着している。お世話になる3人はお盆の直前の時期で高速道路の混雑は明らかなので電車で出かけた。最寄りの駅は小海線(八ヶ岳高原線)の甲斐大泉駅である。

 実は14年前の夏にも私達2人はお招きいただいている。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件のあった翌年の1996年である。私達が訪れたその直後にその山荘は売却され、きわめて近くに建っていた山荘に買い替えたと聞いていたので今度はどんな山荘なのか楽しみでもあった。変化は他にもあった。山荘は大泉村にあったが大泉村は04年に7町村が合併して今では北杜市となっている。06年には小淵沢町も北杜市に合併された。南アルプス市などのように合併による新しい市町村名には馴染めないものが多いのは困ったものだ。

 お昼前に甲斐大泉駅に到着しご夫婦のにこやかな出迎えを受ける。駅前は鄙びていて一つ先の清里駅前とは好対照である。高原のリゾート地ではこんな森陰にこんな素敵なレストランがと驚ろかされることが多い。20年も住んで知り得た選りすぐりのお蕎麦屋さんやコーヒー店などに案内してもらう。初日は一つ手前の甲斐小泉駅前にある04年開設の平山郁夫シルクロード美術館を訪ねた。絵画作品の他にシルクロードの美術品のコレクションも充実している。平山郁夫は昨年12月に亡くなっている。山荘は駅から徒歩で15分の近さだ。これなら車の運転ができなくなるような身体になっても東京から電車で通うことが可能だ。

 2日目の午前中は山道を3キロ半ほど歩いて吐竜の滝を見学する。滝のしぶきを浴びて崖に咲くツワブキの花が印象的だった。午後は柳生博・真吾親子が経営する八ヶ岳倶楽部を見学する。ここは1989年に生まれ、手入れの行き届いた雑木林は素敵だ。木工、ガラス、陶器や野草、園芸道具、鉢などの販売スタッフはなかなか商売熱心だ。山荘の北側に小海線の線路が隣接していて一階の居間の窓から20メートル先に通過する車両を一瞬だけでも見ることができるのも楽しい。山荘の近くにはカラマツ林が散在し朝もやの中の散歩はすがすがしい。おもてなしの心に深い感謝の気持ちが湧いてくるのは14年前と同じであった。(写真は吐竜の滝)

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*2ヶ月半の一時帰国

2010年08月09日 | 捨て猫の独り言

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 親子3人がアメリカからの一時帰国で5月19日の午後3時にエア・カナダ便で成田空港に到着するという。長距離ドライブの経験が少ないので多少の不安を感じながらも車で空港まで迎えに行くことにした。初めて車にETCカードを装着する。助手席専門の私はこれもまた初めてのカーナビの研究を始める。ところが調布から高速道路に入り箱崎あたりでカーナビの読み違いで目標の湾岸線と異なる向島に出てしまい、ひとまず高速を降りるという事態が起きた。こんなこともあろうかと早めに家を出ていたのでなんとか出迎えに間に合った。スカイプのせいで驚きの対面とはならない。

 その後早い時期に3人は市役所に出向き住民登録をし、国民健康保険に加入して安心して医療機関にかかれるようにした。もちろん滞在期間に相当する住民税、健康保険料は支払わねばならない。この一連の手続きは私の念頭にはまるでなかったことだった。さらに乳幼児の医療費は無料である。滞在の早い時期に親子で歯の治療もちゃっかり済ませた。2才の子は鹿児島で後頭部をぶつけて出血、また帰国間際に2人の子は同時に風邪気味で治療を受けた。これは想定外だったが、この滞在で3カ月分の子供手当が支給されるという。

 近所に同じ年頃の子がいる2つの家庭があって、親子で良くつきあってくれた。これには大いに勇気づけられた。毎日のように朝は玉川上水い沿いの公園や、どこか近くに車で買い物に出かけたり、夕方は家の前で遊び路上保育園が出現した。夕方は蚊が多く、虫よけスプレーや蚊取り線香を用意したにもかかわらずよく刺されていた。いつの間にやら2人の子は日本語で意思を伝えるようになり英語は影をひそめた。子供の躾けはこれまでアメリカにいる若い父親が担当していたようである。わが娘の母親としての食事献立や子供の躾の様子を想像して不安になり、娘に干渉して衝突することもあった。こんな娘に育てたのもその親の責任だとすれば黙するしかない。

 今回撮った幼子とその曾祖父の3人の写真がある。2人は曾祖父との面会の意味もその直後の急逝もよく理解できていないだろう。鹿児島入りの日に空港から高速道路を使わずに錦江湾沿いの旧道を市内に向かったが、いつまでも桜島がくっきりとその姿を見せていた。帰京して我家の壁の鹿児島銀行の一枚カレンダーを私が指差して「これな~に」と聞くと2才の子は「サクラジマ」とはっきりと答えた。その母親である娘は日本の運転免許証を紛失していて、ちょうど滞在期間中に更新の連絡の葉書が来た。更新の手続きが終わり、8月4日の帰国の際は成田空港まで娘が運転した。私は空港で運転免許証と3人の健康保険証を預かった。最後の日に4才の子が「また来るね」と挨拶したとき、私は曖昧な返事しかしなかった。今でも複雑な思いだ。私はこの夏2度目の風邪をひき、体重は3キロ減った。(写真は生見海水浴場にて)

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*親父逝く

2010年08月06日 | 捨て猫の独り言

 7月25日に脳幹出血で倒れ南州神社の近く鹿児島市下竜尾町の今給黎病院の集中治療室で3日間の治療を受けた後に親父は逝った。8月5日の誕生日が来れば93歳であった。自宅で倒れた時から昏睡状態であったから苦痛もほとんどなかったようだ。「生死」は人の計り知れぬ出来事だが親父はこの時期に幕引きしたかったのではないかと、なんだか親父の意思が働いたかのような錯覚に落ち入ったものだ。

 両親は鹿児島市内で50年近く住み慣れた家からつい一月半ほど前の6月中旬に通院に便利なマンションに引っ越したばかりであった。古い家は坂の中腹にあり、敷地内の階段も急であったから一大決心をして転居に踏み切ったのだった。東京の私は5月中旬に娘が2才と4才の女の子を連れてアメリカから一時帰国していて子守に追われていた。私は7月20日に親父とひ孫の対面を実現すべく4泊5日の日程で鹿児島を訪れた。無事に対面を終えて東京に帰った翌日に親父倒るの知らせが入る。

 マンションでの生活を「なんだかホテルに来たみたいだね」と昔から耳の不自由な親父が感想を漏らしたそうだ。マンションの最上階のベランダからは桜島がよく見える。今年の正月に比べて親父は少し表情が乏しくなったという印象を私は抱いた。目の離せない曾孫たちも次第に親父に馴染んだ。親父はいつもそうするように朝食の人数分のヨーグルトやコーヒーの世話をする。私達は出かけていたが、高校野球の鹿児島の決勝戦にも大いなる興味を示し最後までテレビ観戦していたという。

 私は7月26日の一番の飛行機で再び鹿児島に飛んだ。親父がここまで考えて幕引きしたわけではなかろうが、私はちょうど今年から65歳以上のシルバー割引運賃の恩恵を受ける身である。家族葬という形の可能な限り簡素な葬儀をお願いしたが、私達の予想以上の会葬者があった。親父は日中戦争・太平洋戦争の15年戦争のうち、17歳で昭和9年陸軍士官学校予科に入学、29歳で昭和21年和歌山県田辺港に上陸復員するまで苛酷な時代を12年間軍人として生きた。自分の子供にもこんな詳しい軍歴を話したことがないという書き出しの、親父が私の娘に出した手紙がある。葬儀の最後に私はその手紙の一端を紹介して、遺族代表として会葬者に対してお礼の挨拶を申し述べた。

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