「罪と罰」 を読まれた方は多いと思う。大学生ラスコーリニコフは非凡人の思想で金貸しの老婆を殺し、しかも殺人の現場に偶然来あわせた、つつましい忍従の女性であるその妹まで殺してしまう。ラスコーリニコフはついに大いなる苦悩のあとセンナヤ広場で大地に接吻する。自己犠牲の権化である聖なる娼婦ソーニャが物陰から真っ青な顔で彼を見つめる。この物語は時代の産物だと思えてくる。
レニングラードに八日間も滞在して、それぞれエルミタージュ美術館などに単独で出かけるようになる。そんなある日、私はこの街の大動脈と呼ばれるネフスキー大通りのはずれにあるアレクサンドル・ネフスキー修道院のドストエフスキーの墓地をたずねた。その墓地の奥にある寺院では礼拝がおごそかに行われていた。
人々は礼拝のときにローソクをささげる。中央の燭台に遠いときは、前の人の肩に合図して先に送ってもらう。ローソクがつぎからつぎへとリレーされる。片隅に異形のものを発見して息をのんだ。死んだ人を正装させ飾りつけて棺にいれて公開しているのである。しばらくすると棺が新たに運びこまれて三つになった。礼拝堂には聖歌が流れ続けていて、棺の蓋はとられたまま、旅行者である私もあいかわらずそこに立ち会っているのであった。革命後ロシア正教会は試練と迫害の時期を迎えた。しかし第二次大戦中に政策の転換があり、今では準国家宗教の地位を得て活動を行っている。
これは地方都市でよく経験したことだ。夕食のときシャンパンを注文するとまずはありませんとの返事である。すかさずS氏が袖の下をつかうと、悪びれることもなく極上シャンパンが運ばれてくる。寡黙なもう一人のイーラをまきこんだ5人はよく集まって行動した。閉店後の国営レストランのそこだけ明るい片隅で粋な店長のおどろおどろしい話をさかなに強い酒を飲んだことが一度ある。その後もたびたび4人はおいしいシャンパンを飲むことができた。これはS氏がいなければ不可能であった。(シャンパンのこの段落は今回加筆)
露文科の大学生と二人でラスコーリニコフの下宿をさがした。作家は小説の主人公をこの街の実在の家に住まわせたのである。迷い歩いたあげくさがし当てることができなかった。その翌日モスクワ駅から23時発の列車で最後の目的地の首都に向けて出発した。レニングラードにはモスクワ駅があり、モスクワにはレニングラード駅がある。8月中旬のモスクワは肌寒くすでに秋であった。(完)
そんな風にして彼女は一日の三分の一を私たちにつきあってくれた。彼女が自分の車室に帰ると私たちは彼女を 「おしゃべりイーラ」 とよぶことに決めた。この旅の全行程に付き添ってくれているガイド嬢もイリーナさんという名だった。ウラジオストク大学をでたばかりであった。二人のイーラを区別する必要があったのである。
「大変だ。おしゃべりイーラが猫になちゃった」 というS氏の声で目を覚ますと、目的地に近づきつつある列車の狭い通路に濃いアイシャドウをした別人のイーラが佇んでいて艶然と微笑むのであった。
島尾敏雄氏はロシア人についてつぎのように述べている。その観察眼はさすがだ。 『はなやいだ洗練は感じられないが、そぼくで鄙びたい田舎くささを漂わせながら、やわらかに語りかけてくるまなざしが私のこころをつかんでしまう。こうと思い定めたらわき目もふらず、度合いをこえてもやりとおすようなからだのしんにひびいてくるがまん強い親切』
専制君主ピョートル大帝がネヴァ川デルタ地帯の沼地に建設を命じたセント・ペテルグルブ、そしてドストエフスキーが住んだペトログラード、そして第二次大戦中のドイツ軍による悲劇的封鎖を体験したレニングラードとこの都市は時代と共にその名を変えている。この都市が経験した目まぐるしい変遷は他に類をみない。
19世紀のロシアの病める知性の代表者ドストエフスキーはロシア国民の最大の独自性を 「無性格」 と呼ぶ。これはロシアの共同体の中ではぐくまれ、自分を無にして人類の中に消え去ろうとするナロードの思想である。僧ゾシマは言う。ロシアのナロードは貧しいがゆえに、その滅私、その信仰心と兄弟愛ゆえに、四海兄弟の理想を実現する資格と使命を負うていると。要は個人と社会とをいかに調和させるかにかかっている。その理想を西欧にみるか、古代ロシアにみるかで西欧派とスラブ派にわかれた。
私たちの車室には年の若い順に、露文科の大学生、私立大の講師、社会科教諭、それに私の四人が乗り合わせていた。その中で教育学専門の大学講師のS氏はロシア語がとても上手であった。独学で習得した。まず耳に入れ、それから書き上げる訓練を重ねた。わずか2年でロシア人と話せるようになった。これまでに三回ソ連邦を訪れてぃる。誰もがその若々しい才能をうらやんだ。
彼はいつもそうなのだが 「お客様をお連れしました」 といって我々を喜ばせてくれた。このとき23歳のイリーナさんを車室に案内してきた。ロシア女性の中ではむしろ小柄な方であった。茶褐色の髪を巻いてうしろにたばね、そばかすのまじった色白の細長い顔立ちだった。化粧を全くしていないせいか、まるで少女のようだ。彼女はチェルノブイリの近くの立ち入り禁止区域での特別な用を終えての帰りだという。瞳を輝かせ、頬を紅潮させてほとんど一人で早口で喋っている。講師のS氏も急ぎ通訳するがそれが終らぬうちに彼女は別の話に移ってしまう。他の四人が日本人であることを全く忘れてしまっているかのようだ。すこし黙ってもらうために飲み物を勧める。ところがちょっと口をつけただけで寸暇を惜しんでまた話はじめる。そんな一方的な交流であった。そのうちに彼女が真剣に話していることのすべてを理解できたかのような気分になったのは不思議だ。
話しつかれてわずかな沈黙がうまれるとあなた方はなぜ黙っているのかと詰問する。日本の話になるとパチュムー (どうして?) を連発してくる。まるで学校に上がる前の子供のようだ。日本語をならいたいとまで言いはじめた。私もどれほどロシア語をならいたいと思ったか。白樺林の向こうに陽が沈みかけていた。彼女は組んだ両足を両手で抱え、遠くを眺めながら 「夕陽をごらんなさい」 と言うのであった。
《 00年の夏3週間ゴルバチョフ率いるソ連邦を旅行した。そのときの駄文を職場の広報紙が掲載してくれた。よほど紙面作りに困ったらしい。チェルノブイリ原子力発電所事故のあと、ソ連邦解体の前年である。日本では人気のゴルバチョフがソ連邦では全く支持されていなかった。いまでも不思議である。その後は酔っ払いのエリツェンだけになおさらだ。焼き直しもので恐縮です。タイトルは「レニングラードにて」 》
しばらくまえにテレビで二年間ほど中国語講座をきいたことがあった。中国語の美しい声調にひかれた。その直前の番組はロシア語講座であった。その番組に登場しているロシア人の言動がとても華やいで見えた。中国語番組のきまじめで抑制のきいた話ぶりとちがい、ロシア語番組はどことなく開放的な雰囲気である。旅行まえにいつもは身につけないジーパンを買ってしまったのもその印象が後押ししたのだろう。
旅の五日目私たちはキエフからレニングラードに向かっていた。まる一日の汽車の旅である。軍用列車さながらに高々とがっしりした車体を連ねた急行寝台である。駅にとまると客は低いプラットホームに降りたち、風景をたのしんだり、たばこをすったり、りんごや洋なしやすももなどの買い物をした。くだものを売り歩いているのは近くの農家のバブーシカ(おばあさん)である。かわの白いりんごはとても小さく、赤ん坊のにぎりこぶしくらいだ。日本のりんごとはくらぶべきもない。それにきずものが多いが、ここではそんなことを気に病んではいけない。
地球の陸地の六分の一を占める広大な国と小さなりんごのとりあわせをどことなくほほえましい。果物といえばそのほかにすいか、桃、うり、ぶどうなどを食べた。どれも充分な甘みがある。旅行中は野菜不足になりがちだから安く手に入る果物は貴重であった。