玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

きれいなお姉さんになる

2012年06月30日 | アトランタ便り

 日没迄の長い夕食後をどう過ごすかは大きい。娘の仕事帰りにスーパーに行くと、空腹のせもあって孫がアレコレ欲し煩いので、夕食後に行くことにしている。その時間帯沿道のサイクルロードには、犬の散歩、ウオーキング、ジョッキングしている姿を多く見かける。大抵そういった人達はスマートである。日本でも同様だが、洋を問わず太めの人はその度を増すごとに運動から遠ざかると言う道理と重なろう。広い国だから車がなければ用は足せず、歩く機会は少なくなる。その分敢えて何らかの運動をして埋め合わせをしなければ、人体の仕組みから言って辻褄があわなくなるだろう。未だ日差しの強い時間でも、木陰を縫い手足に重りをつけてウオーキングしている人すら見かける。

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 駅やスーパー、モール等人の集まる所に行くと必ず男女を問わず重量級の人々に出会う。レベルは様々だが、関取クラスはザラで中には小錦級の人すら見かける。移動の度にプヨプヨと揺れる皮膚。それはもう私の癖になっている事だが、その度にその方々の内臓の負担を想像してしまう。これだけの体を支えるに基礎代謝量はいかばかりか。心臓、肺、肝臓、腎臓の負担はいかばかりかと。全力を挙げてその人を支えているに違いないと。人として人は皆自分の外見は気にするだろう。ある地点でソレを放棄してしまった結果だろうかと。日本でも肥満の人は少なくない。しかしそれなんぞ可愛いものだ。何たってケタが違うのだから。

 末孫は今反抗期の真っ只中にある。娘には甘え、その分私には逆らい、NOが先行し勝だ。私にはこの際「彼女らの味覚を少しでも広げたい」という日本に居る時からの願望(魂胆)があった。肉食は食慣れているが、食慣れない物に対しては私が思うほど手を延ばさない。そこで姉の真似をいつもしたがっている妹に、「きれいなお姉さんになりたければ、お野菜を一杯食べないと、ブクブクのお姉さんになるしかないわ!」と小声で呟いた。すると私の顔を見い見い食べ出した。何時まで彼女の頭の中に残っているか知らないケレド。

 

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お手伝い丈からの解放

2012年06月29日 | アトランタ便り

 事足りないながらも少しづづ落ち着き、オサンドンとベビーシッタだけの生活から今は解放されている。初めて一人で街へ出た日、娘と時を同じくして日本からコチラに家族で引っ越してこられた方(日本でもお邪魔し、帰日中もお会いした)から、夕食のパーティに招待されていた。第二子出産予定の共通の友人親子さんを含め、12人が集い賑やかなパーティをご家族をあげて催して下さったのだ。私の訪米を歓迎する夕食会は、当のご家族様の更なるトルコへの御栄転と、友人の出産を祝うパーティでもあった。大人もそうであったが、子供達も(皆同保育園で日本語を獲得)久しぶりの再会とご馳走に興奮していた。

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 メニューは日、米、中華取り混ぜた豊富さで、久しぶりの日本食は私への配慮に溢れていた。それまでの私の日々は混乱と困難を極めていたので、皆さんに話すと異口同音に「それは違うと思います」と娘に向け言い、私に同調して下さった。前にも記したが丁度その日は、朝孫の食べ残しのオレンジ3切を食しただけで、日中水すらも求められず切らしていたせいもあり、「私は今日は久しぶりに動かないで食べさせてもらいます」と気安く宣言させて貰い、先方様の言葉に甘えパクパクとご馳走になった。父君はそんなパーティの様子を動画に撮り、お子さんのブログに載せて下さった様で、夫のメールで知らされて、コチラでも同画面を更に楽しめたのだった。

 その御一家は海外移転に対して、種々の書類を要求されており、合間を縫っての作業も大変だろうと容易に理解される。孫たちの転校手続きにしても学事面だけではなく、健康診断書や歯科検診の結果まで要求されていたのだから。私は訪米の度に会えるとか、一人娘さんの延長で私の娘も気に掛けておいてとお願いしていただけに、残念な気もするがトルコ発のブログを読む楽しみも増えたことになる。昨夕は米リーグのナイターに行き、今日の午後は末孫のお遊戯会にお呼ばれだ。

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娘の離婚事情ーその1

2012年06月28日 | アトランタ便り

 6月7日付けで正式な離婚が成立した。後になって元夫から手渡された文書は分厚く、双方の弁護士同士が当事者の話し合いに基づいて作成したものだ。そこには子供の養育権や財産の分与、その他の懸案事項が仔細に記載されている。契約社会の国だから尚更の事。米国では離婚そのものは困難ではないが、そこに至る迄の、弁護士とのコンサルタント料や書類作成料が高額で長引く程高額になるらしい。チケットを予約していたとはいえ、当初私はそんな微妙な時期に訪米したくなかった。日本流に言えばどの顔して彼に会えばいいのとの思いが強かったのだ。「気遣いは全く不要。普通にしてればいいの。当事者以外は関係ない事だから」と娘はいともアッサリ言う。 

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 私と孫娘との対面は到着3日目だった。元夫が夏休み入りした子供達を実家(車で6時間)に連れ帰っていたからだ。その日私と娘はさる用があって出かけ帰りが遅くなってしまった。孫達は自宅(夫が残る)に連れ帰って寝せてあり、どの顔して会おうと思案する私に、彼も運転で疲れて寝ているからいいと言い置き、寝入っている2人を娘は2階のベッドから事も無げに抱っこして車に移した。孫達はなされるままに目覚めもせずアパートのベッドに移された。事の始終を見ながら私の心中は言い様もなかったことは察していただけよう。

 当然のこと乍私は離婚騒動の顛末を日々聞かされた。娘が万全でないことは承知の上でも、ここに至らざるを得なかったことは容易に予測できたし、むしろ私はより積極的に賛成してもいた。その話に引き戻されると終わった事はこれ以上モウ聞きたくない。今後に活かそうと私は遮った。久々に独身に戻り、大変な反面気楽になった娘は元来の楽天ぶりを発揮している。どちらかと言えばカナリ厳しい母親の前で見せるその姿を、私は半眼で見ることにしてキバレ(頑張れ)!と応援している

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娘の怒り心頭に達する

2012年06月27日 | アトランタ便り

 11時前にバス停に立った。前回待呆中に犬を散歩させてるご婦人に会い、挨拶とバス便についてもどかしながらの会話をした。バスは通るけれど行き先は知らないと気の毒そうな顔をされた方で再度出会った。「前回はやっとバスが来て何とかなりました。日に2回お散歩なさるんですね」と挨拶すると「老犬で退屈するので3回することもあるわ。今日は時間は大丈夫?」等々やりとりをした。娘にも「今日は上手く行けそう、逆向きのバス停にいるから」と、2ケ月レンタルの携帯で告げた。前回は都合のいい同行者を得たけれど、ランチも水すらも切らし、日照りの中を歩いたことを知っていたので、今日はLenoxに行った方がいいと教えてくれた。更に詳しく、一番前に乗り’降りるとすぐのエスカレーターを上がる。目前のホテルに入るとモールに繋がっていると。

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 30分近く待ってバスに乗った。次々乗客は降り私一人残された所で老婦人が乗って来てバスは止まった。不安になった私は黒人ドライバーに「駅に行きたいのだが」と聞くとウンと頷き、その老婦人が差し入れたクッキーを2人で頬張りながらお喋りをした後出発した。どうやらそのバスはUターンをしたようで、回り回って私が乗った場所を再度通り、マタマタ次なる駅に私を運んでくれた。モールは客で賑わい、四方を各種のファーストフードに囲まれ席で9弗の寿司(中国人経営)を求めた。ネタは酢でしめられ、袋入りは醤油かと思いきや塩だった。

 今日も駅で拾われる約束だったが、何ともバスが変で、フリー切符だから失敗してもトライを繰り返そうと4時前には帰ることにした。駅につ着くと4台のバスが並んでいた。どのバスのドライバーに尋ねてもそこには行かないと言う。確かにここで降ろされた事はないのだ。そう思い直し又電車に乗ってもう一つ前の駅に引き返し、再度停車中のドライバーに尋ねる。列の途中で長問答はどうかとの思いもあって、何度か時間をづらしなが試みたけれど、NOを繰り返されるのみ。困りに困って娘に電話すると、正確に調べてあって「132番なら間違いなく通る。通じなかったら、ドライバーと私が話すから変わって」と言う。これで解決とばかり安心して見ていたら、ドライバーは頭を振っている。変わった私に「話にならない!悪いけど元の駅に戻って!私が拾うから」と言う。そして子供の迎えた足で私を拾い。。。「本当に困った国!困った人達!悪いけどとりわけ黒人の人達は先ず先にNOを言うの!ここに来る途中その132番のバスとすれ違ったわよ!!馬鹿が威張って馬鹿を通シテンダカラ!英語を喋れているだけじゃないか!それがそんなに偉いのか!!」とプリプリに怒りまくっていた。確かに私の知る限り、空港や交通機関では圧倒的に黒人が多く、接客での日米差は大で否めない。(写真はモール街から市街地を望む)

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*市報のある生活

2012年06月26日 | 捨て猫の独り言

 この4月1日から南台病院の呼び名が「なんだい」から「みなみだい」に変更されたという記事を4月の市報でみた。隣り町にあるこの病院のことをネットで調べてみると昭和32年の設立だから50年以上の歴史がある。ついでに覗いた都の病院紹介のページは「なんだい」のふりがなのままになっている。これから先も病院の漢字表示は残るが、訪問看護ステーションの方は正式に「みなみだい」のひらがな表示に切り替えたようだ。最近そのひらがな表示をした白い車を街の中で見かけた。

 先週の金曜日に平成7年に開設されたお茶ノ水にある東京都水道歴史館を見学した。環境保全課が企画する環境学習講座の第1回を市報で知った。申込者はちょうど定員の20名だったので抽選は行われなかったという。市役所にて集合0:50解散5:30で、片道70分をマイクロバスで往復した。若い女性のアテンダントが2階の江戸上水、1階の近現代水道の順に館内の展示を解説してくれた。利根川水系の高度浄水処理水つまり家庭の蛇口から出る水がペットボトルに入れられ「東京水」のラベルが貼られていた。日ごろ私が飲んでいる水道水は多摩川水系である。私を含む見学者は「東京水」を紙コップで試飲した。この日は公民館囲碁と重なったためそれを休んでしまったのが心残りだった。

 津田塾大学の公開講座「総合2012」も市報で知ったことだった。6月21日の講師は35歳になるノンフィクション作家の石井光太氏だ。これから私が話すことは皆さんを不機嫌にさせることばかりですとの前置きで始まった。彼は講演の途中で話すべきつぎの言葉を捜しているのか、しきりにエ~を連発するので最初はそれがとても耳障りだった。スラム街に住む物乞い、ストリートチルドレン、売春婦など一日1ドル以下で暮らす「絶対貧困」の人たちが地球上に6人に1人の割合で存在する。インドでマフィアに手足を切られて物乞いをさせられている「レンタルチャイルド」にとって自分に関ってくれるマフィアこそがこの世で頼るべき人間なのだ。こんな小さな小さな真実もある。

 朝5時に目覚めると散歩に出るが、6時に目覚めて散歩をあきらめることが多くなった。しばらく独居生活を続けているが少しばかりの変化がある。テレビの時間が減った。ラジオで十分だ。夕食を食卓に並べると電灯を消してロウソクをともす。一人静かに飲む。パソコンが起動しているとそこはロウソクの灯りよりもまぶしい。手もとにあるロウソクが尽きるまでこのスタイルでいこうと思う。米は二合炊いて余りは冷凍にする、煮干しの粉末で実を入れない味噌汁を一度に800cc作って冷蔵庫に保存しておく。これらを温める電子レンジは欠かせない。つる性の雲南百薬という野菜が庭にある。手のひらサイズほどの葉が交互に縦に連なって上に伸びる葉菜である。今年になって初めて収穫した。10秒ほど熱湯をくぐらせて水でさらす。ワカメのような食感で味噌汁の実として絶品である。

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初めて一人で街に出る

2012年06月25日 | アトランタ便り

 アパートの近くにバス停があると前もって聞かされていた。今回初めてアトランタ空港から地下鉄を利用したが、未だかって一人でバス等を使い移動した経験はなかった。訪米4回目になる今回「初めて交通機関を使い一人で街に出てみたい」と念願していた。滞米20目。やっと保育から解放され勇を決して街へ出た。それも一悶着があって後実現したのだった。

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 サテその一悶着とは。ある日車中から「停留所はあそこよ」と娘が言う。夜になって交わした会話はこうだ。「何というバス停?」「知らないわ乗ったことがないケド、駅に向かうバスに乗ればいいの」「その駅がどちらかが解らないわ」「小学校の前から乗り、運転手に聞けばいい。2、5弗らしいよ」「本当に現金でいいの?コインの見分けもつかないのに」「そう これが2、5弗」と手渡された。耐え続けていた私は娘を詰った。「自分で乗ったこともないバスに、言葉も通じない私を乗せるなんて無謀じゃない?私は必死の思いでやって来て、当初から大事な手帳を既に失っているの。本来なら自分の経験のためにも私を連れて手本を示すべきじゃない?」と言って初めて娘は私の困窮に気づいたか。翌日駅迄私を車に乗せプリペイド式のカードを求め、こうするんだとケロリという。当日になって言われたとおり何とか迷いつつも出かけたが、着いた先はもう一つ先の駅でマタマタそこで私はウロツイタ。事の顛末を臨時の携帯で報告すると、帰りは最寄の駅でピックアップしてくれその日は無事終了した。

 肝腎の街に繰り出す記はここから展開したのでもあった。兎も角駅に辿り着き、上記の報告を勤務先の娘にしおいた。それが黒人の女子学生の耳に届いていた様で、車内で日本語ですねと話しかけて来た。「私は大学で2年日本語を学びました。日本語を話せるハーフの友達が卒業して話せなくなりました。私はこれから街に行きます」と英語、日本語半々で話し掛けて来たので、私もその更に半々でどうやら問答して幸運にも同行相成ったのだった。目のキラキラと輝いた女子学生と広ーい公園(前回一回来たことがあっ)を大股で歩いた。今日本語に加えて韓国語も学んでいる。韓国語の方が難しいと言っていた。朝、孫の食べ残しのオレンジを3切れ食べだけで、ランチ処ではなかった私は喉は乾いたが、ろくに聞き取れない英語で聞いた上で、今度は日本語で話してと言う風にヤリトリして時間一杯過ごしたのだった。チケットは一週間有効で最終日が今日である。幸いに今日はベビーシッター役を免れたので、もう一回出かけてみようか。今日こそランチにありつけるといいケレド。

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*蝶のスタジオ

2012年06月24日 | 玉川上水の四季

 夏至を過ぎてこれからは少しづつ少しづつ日の出が遅くなっていく。いつの間にか公園で虹色のねむの花が咲いた。庭では萩も咲いている。花の咲き始めを自分で気付いたときはなぜか嬉しい。オープンギャラリーの夏至の展示は「海岸寺の六地蔵」だ。鈴木忠司さんの6枚の鉛筆画が展示されている。いずれも黒の単一色による作品で、それぞれの余白にはオカトラノオ、ホタルブクロ、ドクダミなどの夏の花が描きこまれている。六地蔵シリーズは4回企画で春は小川寺だった。

 鈴木さんの現在の関心事は蝶の羽化である。産卵から羽化までに蝶が必要とするような草木を集中した「蝶のスタジオ」が自宅近くに作ってあるという。以前に自宅の庭先でシジュウカラを巣立ちさせたと伺った。今度は蝶のスタジオで蝶を羽化させるというのである。自分でやってみないと気が済まないこの実証主義精神と行動力には脱帽である。カプセル状の「さなぎ」から脱皮して縮んでいた羽根が伸びる「羽化」の瞬間を多くの人に見せたいと考えているようだ。

 次回の観察会は2週間後だが、蝶のスタジオではあと一週間もすると羽化が始まりそうだ。そのときは緊急に連絡することがあるかもしれないという。ナミアゲハ、キアゲハ、ジャコウアゲハのいずれかの羽化が見られるかもしれない。羽化したあとの蜜としてヤブガラシとブットレアなどが用意されているという。私は決定的瞬間に立ち会えなくても、いずれ蝶のスタジオは見せてもらいたいと思った。今日の夏至の観察会は小さな公園の草むらに咲く小さなネジバナと野草保護区の桔梗だった。その途中に思いがけなくルリタテハどうしがクヌギの樹液を奪い合う場面に遭遇した。

 昨日の土曜日は中央公民館の「小平のうどんづくり」講座に参加した。鈴木さんの花のアトリエスタッフが主催者側として2人も関っていたので私の前日申し込みが許された。うどん粉500g、水250cc、塩20gを、こねる、足で踏む、ねかせる、のばす、切るまでを2人1組で実習する。昔の四国旅行のときの讃岐うどん作りを思い出した。切り終わったうどんは持ち帰るためのものだった。隣りの部屋にはすでにゆでられたうどんが用意されていた。私たちが食べたうどんはこの日には姿を見せない鈴木さんが作ったものだと知った。鈴木さんはうどんの指導を後継者に委ねたようだ。

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車のドアガラスが壊れた

2012年06月23日 | アトランタ便り

 今恐らく夏時間のせいで、夕方暗くなるのが遅く8時半頃までは明るい。先日何故だったかはもう忘れてしまったけれど、夕刻の未だ明るい内に娘が子供達を寝かしつけようとして一向に成功しなかった。其れもその筈。未だ明るいんだもの。寝付けたものではない。小時間たってヤット暗くなりスッタモンダの末に寝入ったのだった。その分朝は6時ごろ明るんで来る。私がフリーな時間を獲得出来る迄、この早朝の小一時間は貴重な時間だった。

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天候は東京より暑い方だろう。緯度的には福岡と同じだ。朝方雨が降り午後になって天気が回復した日が2日あった。日中いい天気だったのにいきなり天気が崩れ、出先で雨になった日もあった。車中で雨にあった時の恐怖をお伝えしよう。そう、私には本当に身に迫る恐怖と感じられた。夕食後、おいしいパンの店があるから連れて行くねと気軽に出かけた。韓国経営者が営む店とかで、喫茶室もある店内は、若い人達であふれカップルだったり、多くはpcを開いて見入っている学生風だった。数十種類のパンは味見用に一部はかなり大きなピースで解放されていた。カプチーノを飲み終え外へ出るとにわか雨。止む気配もなく車に乗り込んだ。そう遠くもない距離(すぐ着く筈)。いよいよ雨は激しさを増し雷鳴さえ加わった、ウインカーを目一杯回しても追つかない程になりスピードをダウンさせた。其れでも私の感覚ではかなりのスピードで私はフロンドガラスに目を凝らし、身を硬くするばかりだった。後席にいたチビッコらも静かになり、「マーマ。ガンバレッ!」とアパートに着く迄声を合わせて唱和し続けていた。アパートの地下駐車場に入るため、セキュリティのカード差し込むのもヤットだった。車が駐車場に滑り込んで暫し後私の体は和らいだ。車のライトに照らされて濡れて歩行している数人を見かけたが、こんな際は傘も畳まなければいけないのだと言う。 

 その数日後、車の運転席横のガラスが壊れ、見積もりしてもらった所想定外の額だったという。其れを聞いた知人が自分の知り合いの所に連れてゆくからと約束してくれたらしい。以来2日間ガラスははずされたまま土曜日迄トランクの中に仕舞われている。日本でも良くあることだが、外国人とか女性にとってどうやら辺の事情は同様らしい。

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スピードに付いていけない

2012年06月21日 | アトランタ便り

 わからない。分らない。今まで私は何をやってきていたのだろう?。この解らなさは何だ?。断続的ながら、細々ながら何年も私は「英語(会話を含め)学習をやって来た筈の積り」であった。日本では発語には困難を覚えたけれど、聞く方は何とか聞ける筈であった。。。のにそれがこの始末。孫達が家庭内で交わす2人間の会話(娘が言ってた通り、ほぼ全部英語)すらたまにヤット耳に留まる程度なのだ。自ら選び取った道とはいえ困難な状況にある娘が、私の思う程私の困窮をおもんばかれれないのは、私の英語能力に対する過信があるに違いない。

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  これまでも訪米の度に異なる空港に着陸する必要があり、しかもそこには必ず彼女らが待ち構えおり、以後私は従っていれば良かった。それが今回は今までと違う。彼女はシングルマザーという立場なのだ。自分のことで余計な負担を掛けてはいけないという私の覚悟もあった。だから駅から地下鉄直行で最終駅に着けば、会社から迎えに行くという彼女の言に従ったのだ。聞き返されながらの問い掛けに言葉を返されても私の耳には止まらず通過するのみ。スピードが早過ぎ、私の耳は置いてけぼりを食う。重量オーバーのタグを貼られた重いケースと共に移動が始まったばかりの私のアトランタ生活は、ショッパナで頼みとする手帳をチケット売り場の片隅に置き忘れて始まった。それでも空港職員に「空港に着いた。これから地下鉄に乗る」旨の電話を娘に入れてもらっていた後で良かった。パスポートでなくて良かったと胸をなでおろした。

 地下鉄の最終駅に降りた私は20分待って娘に拾われた。ヤットの思いで着いた私の胸中はそれはないだろうだった。そこでこそ私は待ち構えられていると勝手にアテにしていたのだから。それから15ー6分。アパートに着いた。引っ越したばかりとは聞かされていたけれど、食卓といくらかの食器類、子供の衣類以外はダンボールの中であった。今までと違い飛行機疲れは少なくホットしていた私は、これから娘とこれらの荷解きが始まるとその積りになっていた。すると娘曰く「これから会社へ戻るわ!休んどいて!」だった。一瞬ポカンとしながらそう!と言い、ダンボールを除けて寝る気も起こらず、ボツボツと一人でソチラの荷解きを始めた。帰宅した娘曰く「日本人の上司に貴女も凄いけれど、お母さんも凄いのねと言われたわ」と必死の私と、楽天家だからこそこの国でやっていける娘とのしばしの道行きが始まった。 

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アトランタでお手伝い

2012年06月21日 | アトランタ便り

ある事情があってしばらく掲載を休止していた。未だ迷いはあるものの、自分の為に再開を試みようという心境にもなっている。私の訪米は昨年は多用でならず、一昨年は娘たちが帰日したから3年ぶりになる。今回の私の訪米は予定されていた事ではあったが、在米中の娘の状況の方は激変し「ほぼ離婚が成立する」という状況の只中にあった。従って私の役割も結果的に多様性が必要とされている。子供の夏休み入りと重なり、「母さんが来てくれなければどうなっていたか」なんて娘は言い一応の謝意は表明している。しかし言語は当然として、車無きアメリカ不自由生活の私の身を何処まで理解できているの?と思える事も多々あるが、寛容第一にと自分を諭すことにしている。

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「ここアトランタに到着してから20日経った。娘が新しく買い換えおいた新しいPCを一週間待ってヤット業者がやって来て昨日つないでくれた。引っ越してきたばかりの新しいアパート。娘は仕事に出て不在のまま彼女と電話でうちあわせた作業内容でするのだという。しかも午前午後と違う作業員がやってきて夫々が違う作業をやって行った。2LDKの部屋を眺め回し、回線が限定されているようで、取り合えずと食卓の上にTVとPCを乗せたままコンセントとあれこれ接続して10本ものワイヤー(日本でも私が一番煩く思えていた)が巡らされた。回路がやっとつながり、その後自分でヤットコサットコの操作を経てこの編集画面に辿り着いたばかりだ。印字だけでも大ごとで、画面が拡大したり、消失したりの上、マウス操作ではなくキーボード画面での操作なので、この上なく時間を要してしまう。写真のアップなど、今の段階ではとても出来ない。

引越し荷物の中に置いてけぼりを食わされて始まった今回の凡そ「2ケ月に及ぶの私のアメリカ滞在記」。次々と話の種は尽きそうにもないけれど、これまた何処迄レポートすべきか、今回はその辺の按配もせねばならない。PCの新機種は東芝で日本製ならと信じている私だが、たったこれだけ書くのに活字がとんでもない所にチン入したりして、修正にも同時間かかったと言えば少々オーバーだろうか?次回の発信までにPCがもう少し安定してくれることを願っている。

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