「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」これは鴨長明(1155~1216)。「同じ河に君は二度と入ることはできない。なぜならば新しい水が絶えず君の足元を流れているから」これはヘラクレイトス(紀元前540年~480年)。前者は無常、後者は流転。
流転に比べ無常はどこか情緒的なコトバである。仏陀(紀元前5世紀)は悲哀感を止揚して、無常を宇宙の実相と考えるに至る。道元は無常を必然とした上で、刹那刹那の重要さを説くようになる。悲哀感を反転してプラス思考に結びつけようとした道元には意志の強さを感じる。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりける」には一片の我の匂いも感じられない。
生物学者で評論家の池田清彦氏(1947年生まれ)のつぎの考えはとても興味深い。「人の脳は自身は無常であり、かつ有限なのになぜか不変や無限を考える。脳が考える不変の中で最も強固なものは自我である。分子や原子のレベルでいえば三十年前の私は今の私とは全くの別物である。しかるに自我は私は常に私であると主張する。自我が脳の不動点であるからこそ、それとの比較で人は無常を感じるのだと私は思う」
自同律=わたしはわたしでないものではない=わたしはわたしであるほかない。他同律=わたしはわたしでないかもしれない=わたしは私である必要はない。「わたしとは他者です」これはランボー(1854~1891)。「自同律の不快」これは埴谷雄高(1909~1997)。自同律と他同律の二つながらもってこそいかにも真実の存在である。しかしそもそも存在とは、何がどのようにして生むのだろうか。「無のゆらぎが有をうむ」これは宇宙物理学者ホーキング。