20年前のエッセイ集の中にノンフィクション作家の星野博美の、なぞなぞで始まるものがあった。X子はY男を「パパ」と呼びます~Y男はX子を「ママ」~X子はZ子を「おばあちゃん」~Z子はX子を「ママ」~Y男はZ子を「ばあさん」~Z子はY男を「にいちゃん」と呼びます。さて3人はどんな関係でしょうか?
星野は「日本の家庭ではしばしばその家族の最年少者の各メンバーを呼ぶ名称が、その家庭内で流通する共通呼称となる」という法則を発見した。例えば長男に弟ができて次男坊が長男を「にいちゃん」と呼んだために家族の皆が長男を「にいちゃん」と呼ぶようになる。Z子はY男の母だったが正解だ。なぞなぞでは最年少者は星野だったため、星野が家族を呼ぶ名称が採用されることになった。
星野はつぎの「視線の原点が構成員の最年少者にあるということは、家族の構成が変化するに従って呼称が変化する」という法則も発見した。例えば子供ができると私は「おとうさん」になり、孫ができると「おじいさん」になる。余談の余談だが「桃太郎」の老夫婦には子ども孫はいなかったのだから、互いを「おじいさん」「おばあさん」と呼ぶのは不自然ではないか。
星野には、母の「しろ」とその娘の「ゆき」という2匹の飼い猫がいた。ある日気づいてみたら星野がしろのことを「おかあさん」と呼んでいた。まったくの日本語的感覚で最年少者であるゆきの視線に同化してしまったのだ。猫を「おかあさん」と呼ぶ。私は猫の腹から生まれたのか?どうしてこの呪縛から逃れられないのだろうという嘆きがオチだった。