玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*バンクーバー③

2018年09月27日 | 捨て猫の独り言

 第3回報告 「最終夜を迎えました。8日目の明日は10時過ぎにバンクーバー空港へ向かい14時15分発のJALに乗ります。今回の宿はどちらもいわゆる民泊でした。自宅にいると全く同じようにリラックス出来ました。ただ“戸建て”は民泊免許取得済みでしたが前半の“マンション”は無免許民泊でした。

 さて6日目はグランビルアイランドの公設市場に行きました。市場の中はラッシュアワー並の混雑  山積みされた野菜果物肉類他の間を迷子にならぬよう歩く。市場の外にあるレストランでロブスター目当ての食事。(左はスタンレー公園入り口付近からの眺め、右はイングリッシュ・ベイ・ビーチの流木ベンチ)

 

 7日目は大陸横断鉄道の始発駅パシフィック・セントラル駅を見学し、ついでスタンレーパークの西海岸イングリッシュベイ・ビーチを散策しました。家を出る時は小雨、陽射しの後に小雨をくりかえしてギリシャ料理レストランでの夕食後はすっかり止んだ。バンクーバーはカナダの中でも温暖な地域で住みやすいと日本寿司屋の若いオーナ―が言っていた通り」(カモメ、カナダガン、バンクーバー美術館の裏口)

 

 ここまで友人の3回にわたる報告を一部カットして借用してきた。許してくれると思う。さて8日間は長距離を移動することもなく、時間に追われることもない異国の都市での生活だった。バンクーバーは穏やかな海に囲まれた都会、そしてトーテムポール(祖先として崇拝する動物を彫り込んだ柱)が何かをゆったりと語りかけてくるような都会だった。カナダ西海岸の先住民の伝統文化と自然へのリスペクトを表現した2大巨匠がエミリー・カーとビル・リードだ。どちらもバンクーバーの対岸のバンクーバー島にある州都ビクトリアの生まれである。ロブソン通りのバンクーバー美術館はエミリー・カーが死後に寄贈した数多くの作品を随時入れ替えながら展示しているという。しかし運悪く入れ替えの日だったので、私たちは入場せずに彼女の作品を鑑賞することはなかった。心残りの一つである。(完)

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*バンクーバー②

2018年09月24日 | 捨て猫の独り言

 第2回報告 「毎日5人で生活し動き廻っています。三泊したダウンタウンの33F建てマンションから一昨日、郊外の戸建てに移ってきました。時間に振り回されず我々のペースで過ごして寝るのは気付くといつも12時位です。そういうことで報告が遅れてしまいました。まとめてのリポートです。

 2日目も海沿い散策(Stnley Park方向)をゆっくり楽しんだ。日本の若者がやっている寿司屋“哲”で昼食(食べたのは「稲庭うどん」「魚定食」)、3日目は昼下がりのビジネスセンタ―街を歩きBill Reid Galleryに入る。そしてスターバックスでコーヒーでくつろぐ。スターバックスが街角あちこちにあるのには驚いた。発祥の地シアトルが隣のせいか?    

 4日目の晩飯は「肉を食おう!」に決まり“THE KEG”に行った。ステーキNO.1の店。分厚いStake Rib10オンス(283.5g)medium rareとgarlic何とかというポテト。どちらも今まで食べたことのない絶品!それに上質の赤ワインに酔う。(左からビル・リード、新渡戸、MOA)

 

 5日目はUBCキャンパスへ行った。広大な構内の一画の新渡戸稲造記念庭園に入った。こじんまりした庭園。綺麗に手入れされた苔、木々  違うのは直立した大杉が数本あること。これは造園前から存在していたものだろう。その後近くのMOA(人類学博物館)へ向かった。6日目の今日はグランビル・アイランドの公設市場で食事する。天候にも恵まれいる。毎日ささやかな事件が起こるが力強いリーダーがテキパキ解決してくれる」

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*バンクーバー①

2018年09月20日 | 捨て猫の独り言

 成田空港を10日夕刻に出て、バンクーバーの街で過ごして、18日夕刻に帰国した。日本との温度差は10度前後である。日本に帰国した翌日に外に出ると咲き誇る彼岸花に不在の日々を実感する。どこからか金木犀の甘い香りがしてくる。女性3名、男性2名の高校同級生の滞在型の旅だから、ユニークな旅と言えるだろう。長年トロントに住む女性が主導し、日本に住む四人がそれに呼応するという形で実現した。

 往復ともJALを利用したが、出発の日は偶然にも 「JAL東京=バンクーバー線就航50周年」記念の日で、まず出発ロビーで、つぎに搭乗ゲートでセレモニーがあり搭乗者には記念品が配られた。就航当初は週に2便のみで、東京からバンクーバーは当初から直行便、帰路はアンカレッジで給油して東京に到着するという航路だった。現在は週に7便運航している。

 東西への海外旅行では改めて地球が丸いことを意識する機会になる。人為的に設定する必要のある「子午線」を基準に東半球と西半球に分けられて「180°経線」辺りの海上に「日付変更線」が設けられている。日本と サマータイムのバンクーバとの時差は16時間だ。私でない、もう一人の男性が5名を代表して日本の同級生に3回の簡潔レポートを発信している。この記事はそれを転載しつつ進めることにした。

 

 第1回報告 「たっぷり寝て、5人は昼前にマンションの8Fを出た。天候曇り気温15℃無風、絶好の散策日和  碁盤目直線状道路は坂道 街路樹の中には赤く色付いたものも  その中を気分良く談笑しながら海の見える方へ向かった。ものの20分歩いてHarbour Green Parkに着いた。歩行者用サイクル用道が綺麗に海沿いにある。多くの人がゆったり歩きランナーもいる。アジア系が多い 時々日本語が聞こえる。穏やかな海には小型中型の水上機が10機程 次々と発着 観光用だ。途中で5人で写真撮影  依頼したのは台湾の若者三人連れ「1、2、3チーズ」と言ってシャッターを押した。そこからGas town へ。古い街並みのパブで食事」

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*講演「親鸞とドスト」

2018年09月10日 | 捨て猫の独り言

 半月以上のロシア旅行から一昨日ようやく帰国したという、当時51歳の桶谷秀昭は「親鸞とドストエフスキイ」と題して講演した。初めは明恵と法然あるいは親鸞ということを考えていたという。国も時代も遠く隔たった思想家と文学者の二人の共通するところについて考察する。「浄土真宗の廻向発願心=キリスト教の回心」と「善悪」と「生命」の三つの問題が取り上げられた。

 「大学の頃に歎異抄を読んで廻向発願という観念にひきつけられました。廻向というのは回転の意味です。人間の心をぐるっと回すのだ。人間を超えた何ものかが人間に南無阿弥陀仏という祈る言葉を発せしめる。これを廻向という」そして「人間の変化というもの、それは上っ面の変化でなく、魂のどん底からの変化というものがあるんだということをドストエフスキイによって知りました」と語る。

 桶谷氏のつぎの指摘にはあらためて考えさせられた。「浄土真宗は三代目の覚如にいたって教団の基礎を確立する。念仏をとなえることが地獄へ落つる因か極楽へ往生する因かそんなことは知らぬという親鸞の実存的自覚は、親鸞死後ゆくえ不明になっていた。その予兆は親鸞晩年にすでにあった。親鸞はそのことをむろん知っていて、どうにもならぬ深い断絶を感じていた」(玉川上水のほとり・いろりの里)

 

 1983年の8月の二日間に行われた三氏の講演録「親鸞・不知火よりのことづて」は時を経た今でも読みごたえがあった。あとがきに「差し出した色紙に書いて頂いた言葉が講演録ともどもそれぞれの個性をほうふつとさせるので次に記す」として紹介されている。吉本隆明「ほんとうの考へと うその考へを分けることができたら その実験の 方法さえ決まれば」これは宮沢賢治の言葉とのちに知る。桶谷秀昭「わが心のよくて 殺さぬにあらず ー親鸞―」石牟礼道子「椿落ちて 狂女がつくる 泥仏」 (次回投稿は20日ごろの予定)

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*講演「親鸞論」

2018年09月07日 | 捨て猫の独り言

 吉本隆明の出水市での講演記録を読んだ。講演は1976年の「最後の親鸞」の上梓から7年後である。「じぶんとしては親鸞についてなにか書いたり語ったりするたびごとに、いくらかずつ新しい理解みたいなものがひらかれるような気がしました」と冒頭で述べているように、親鸞は吉本の関心の的で在り続けたようだ。講演では親鸞の生涯の三回の転機、師である法然と親鸞とのニュアンスの違い、親鸞の到達点が語られている。のちに吉本は死に対する親鸞の考え方を「自然に死ぬべきときがきたら死ねばいいんだ無理して浄土に行こうとすることはない、現世のほうが執着が多いから死にたくないのも本当だよというふうに悟っている」と紹介している。(湯島聖堂と神田明神)

 

 講演の内容にもどります。肉体を痛めつけたり、精神を痛めつけたりして修練を重ねた挙句に、幻覚状態で浄土の光景を思い浮かべられるようになったり、仏様の姿が目の前に思い浮かべるようになるということはただの幻覚で何の意味もないことだと比叡山を出ます。そして専修念仏を主張していた法然のところへ行きます。「法然とか弟子たちは、ただ言葉だけで名号を唱えればいいと言っている。仏教としては堕落以外のなにものでもない」という批判が出ます。しかし法然とくに親鸞は口先だけで名号を唱えればいいと言いきっていると思います。

 なぜなら、じぶんに念仏を唱えようという心があって念仏が出てくること自体が、自力を意味します。法然の場合には少なくとも念仏の方が唱えやすいからこちらの方がいいんだという言い方があります。しかし 親鸞はむしろ逆で、すぐれていようが劣っていようがじぶんで善行を行い浄土へ行こうなんて考えている人間はほんとの浄土へは行けなくて、かならず化土に行くことになるとみなしています。化土にひとたび行って、なおそのうえでつとめなければほんとの浄土に行けないと言っています。

 人間の自力でできることはそれほど大きな規模のものじゃない。何かわかりませんが浄土の宿主である阿弥陀如来の持っている規模の方がはるかに大きい。親鸞の最後の信は人間の自力でできることに見切りをつけ放棄することを意味していると思います。戦乱は絶え間なくあるし、疫病ははやる、飢饉がおこってものをたべることをできないで死んでゆく人がたくさんいます。仏教はどうそれに答えたらいいのかという問題に対して、法然や親鸞は何とかして答えようと考えていたと思います。そこが当時のえらい坊さんである明恵上人などとちがうところだと思います。

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*講演「名残りの世」

2018年09月03日 | 捨て猫の独り言

  石牟礼道子の苦海浄土が世に出たのが1969年で、出水市西照寺での「名残りの世」と題した講演は1983年だ。「わたしはお婆ちゃん方の、その日その日のお暮らし向きのさまざま、お心のありようを、少しはお察しすることができると思います。なぜならば、お婆ちゃん方のそこに座っていらっしゃるお姿は、わたしの母や、大叔母たちや、日常接している親類のお婆ちゃんや近所の方々にそっくりでいらっしゃるからです」とあるから、会場の様子が眼に浮かぶようだ。

 「ここの出水の地続きの、つい隣りの水俣の育ちでもありますし、水俣では、向こうの天草島、鹿児島県出水郡になる獅子島、長島、伊唐島などとはしょっちゅう嫁入り、婿取りががありますし、漁業の方々のゆききが日常ありますし、私のご近所や親戚にも薩摩の人方がたくさんいらっしゃいます」と続く。「阿弥陀如来というものを人格化せずにはやまなかった先人たちの欲求というものは、やはり一つの到達点でして後世はこの到達点を後追いするだけでも大変だという気がします」に私は深くうなずく。

 「薩摩には議を言うなという言葉がありますけれども浄土真宗に言う、義なきを義とす、と申すあの義でしょうか。いくらか近いようにも考えられます。知というものは、存在のいちばん底を見透せた時に、その頂をも仰ぐことができるのではないかとわたしは思うのですが、親鸞という人は知性だけでなく、並はずれて情感の濃い人だったようで」の知についての件には石牟礼さんの凄さを感じた。先々隣には女郎屋さんがあった自分の生い立ちや、チッソの患者さんの死、島原の乱のあとに、江戸の自邸に戻り、最後の嘆願をしたためて、島民たちのために腹を切った鈴木重成の話などをされている。

 「わたしどもの心の内部のいちばん根本のところで、ひとりひとりを苦しめております煩悩、天下国家の心配よりは、社会問題よりは、一人の人間のいちばん内側にあっておのおのを苦しめている煩悩ということを、否定しているのではなく、とうぜんあるものとして把握していう言い方があります」「浄土真宗も悟れとは言ってないみたいですし、人間の中に本来ある煩悩を全うすることなく、途中で中断されなきゃならない者たちは、水俣病患者だけではありません。近松さんが「曽根崎心中」が書こうとした世界も、そういう煩悩を断ち切られる人間たちが、せめてこの世を去る時に視る花の色を描こうとしたのではないでしょうか」

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もう少しでバイバイ

2018年09月01日 | アトランタ便り

 新学年がスタートし一ヶ月近く過ぎようとしている。学業(中国語は2年目の生徒と同じクラスは変わらないが、補習時間が始業前週2回加わる)もスポーツも軌道に乗りつつある。私に期待されていた大まかな用事はほぼ果たした。この10年近く、引越しの度に荷物もそっくり移動し、捨てたら?と問えば誰かに回すとか寄付するからと言いつつ、その形跡もなく古びていった電気機器や物品。それらが今もそう広くもない倉庫・アチコチの物入れ・クローゼットに幾つか未だ残っている。今回は倉庫内の数品は廃棄してから報告した。私にはその心理が不明なのだが、単に片づけないのは言訳に過ぎないだけ?娘は来米当初2人目の乳児も抱えており、元・夫は仕事の都合で先に帰国していた為、私は自分でも使ったことのない「自動パン焼き器」を購入し、子守り兼で訪米した。その後も、共働きを始めたので子守りもあって年に1~2回訪米した時もあり、その間4~5回アパートを変わった。パン焼き器は梱包されたまま冷蔵庫の上に鎮座しており、「捨てるよ」と断り即ゴミ置き場に投入した事もあった。今も学用品を始め、靴、鞄、バッグ、水筒等私には目一杯見えるが当然ながら私の知ったこっちゃナイ。

 さてさて私の残り時間は手料理の保存食を冷凍するだけ。買い物は週一回でのヤリクリ。たまに帰路スーパーへの寄り道を頼む。食材と食品庫や調味料の残り具合を見ながら、使える物の使い切り、古くなるのが予想される物は新品に入れ替えたりコッソリ廃棄したり。「余計なお世話」と承知はしてるが、一々指摘するのも疲れるし、コチラも根負けしたりついには感情的にもなる。冷蔵庫内の物でも時に「捨ててもいいよ」とアッサリ言う。下手に相談すると要るものだと宣うのでコッソリ捨てる。実情は気づきもしない。帰国後少々体重が減るのは「貴女が遣り過ぎるから」と連れ合いは常にそう言う。その辺が父親と母親の相違ではあるまいか。

 

 昨年の手伝いは、一応最終的な引っ越しとなり片づけの為1~3階を何度も往復し、初の事だったが動悸を自覚した。今回は最初にそれを伝え自分でも自衛している。その為かいつになく娘は私の体調を問う。最後の5週目に入り、これ迄の様に食料の作り置きをした方がいいのかな?とワザと聞いた。出来れば沢山と即答あり。娘のメキシコ出張中、孫達は元気よく食べはするものの娘の言う様に美味し~いとは言わない。娘は毎晩「美味し~い・美味し~い」と笑顔をこぼし食べてくれる。朝に夕に忙しい娘は共働きをして来た私と重なる。気遣いの足りなさや片づけの苦手意識には苛立つが、時に腹立さえ覚える率直さやその楽天性は決して私は真似出来ない。なればこその異国でのシングルマザーに「頑張ってるよね!」とエールと一種の敬意すら抱いている。

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