玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*「鹿実」びいき

2011年01月31日 | 捨て猫の独り言

 東京地方に雨が降らない、雪も降らない。空気は乾燥し、畑道はほこりが舞う。近くの新堀用水では大量の落葉が流れをせき止め、その撤去作業で通水は一時中断されたが最近やっと再開された。これは多摩川からはるばる届けられる貴重な真水である。今週もまた週間天気予報のどこにも傘マークは見られない。室内では睡眠中も日中も加湿器を連日作動させている。朝の洗顔時には河童よろしく自分の頭に少量の水を播く。

 昨年の12月に週に一度のプール通いを思い立ち、装備も新調した。先月は3回ほど通ったがこの1月はまだ一度も泳いでいない。どこか旅に出かけたわけでもなく、何かに集中していたというわけでもない。強いて言えば碁に時間をかけていた。二日制で戦われる注目の棋聖戦のテレビ放送が2回もあった。また今年になって毎週金曜日の午後に公民館で碁を3局打つ機会を自ら設定した。実践を体験できるのは貴重である。都合で一回だけ欠席したが、今後は欠かさず出席の予定である。2月からはプール行きも再開するつもりだ。

 日本の政治の低迷ぶりをよそに、サッカーのアジアカップにおける日本代表の活躍ぶりに私達は勇気づけられている。在日イタリア人はザッケローニ監督を誇りに思い、在日韓国人はサンフレッチェ広島の李の決勝ゴールに快哉を叫んだであろう。好ましいことにスポーツもグローバル化している。私が応援しているのはミッドフィルダーの遠藤選手である。彼は代表チームでは最年長である。鹿児島の桜島で育ち鹿児島実業高等学校の出身である。3年後の2014年のワールドカップのブラジル大会における遠藤選手の後継者出現が待たれていると聞く。

 鹿児島実業高等学校はサッカーや野球でたびたび県代表となり「鹿実」の名で全国的に知られている。昨年の京都での高校駅伝男子では初優勝を果たした。最終ランナーによる西京極競技場トラックにおける劇的な逆転勝利だった。また野球では昨年秋の神宮大会において決勝で惜しくも日大三高に敗れている。この成績により32校が参加するこの春の選抜では九州代表に選ばれた。私は駅伝に続いて選抜での鹿実の優勝を期待している。組み合わせ抽選会は3月15日で大会は23日に始まる。3月は青春18きっぷでJR高山線を予定している。その足で大阪まで行き、甲子園球場での鹿実の試合を見学する機会を持てれば言うことなしである。

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鹿鳴館時代とこぼれ話

2011年01月27日 | ねったぼのつぶやき

 欧米では、夜会や舞踏会が大きな役割を果していた。列強の外交官は夫人同伴で食事や舞踏を楽しみ、時にその席で重要な外交上の駆け引きを行った。それは明治移行期の欧米視察者には衝撃だった。日本では女性が人前での立ち振る舞いに不慣れな時代で、時の少なからぬ高官が即戦力となる玄人の芸者・娼妓を妻として迎えた理由もここにある。不平等条約の改正を急いだ政府は、迎賓館すらなかた当時外務卿の井上薫を中心に宴席外交をも行える施設の必要性を唱え、恒常の官立社交場が新築されたのが鹿鳴館だった。

200pxprincess_sutematsu_oyama  鹿鳴館では連日夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官はもとより政府高官達も彼等とのパイプを構築する為夜な夜な加わった。そこには日本が文明国であることを示す涙ぐましい努力があったのだが、外交官達は上辺では宴を楽しみ、方や文書や日記には日本人の「滑稽な踊り」の様子を詳細に記して嘲笑していた。体格・体型に合わない燕尾服や夜会服に四苦八苦しながら、真剣な面持ちでぎごちなく踊る姿が可笑かったのも無理はない。

 その中で、留学中も際立っていた捨松(頭脳明晰・長身・容姿端麗)は水を得た魚の様だった。英・仏・独語を駆使し、時に冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑した。12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップは堂に入り、ドレスの着こなしも光っていた。適齢期を過ぎなんとしていた捨松は19才年長の陸軍卿大山巌に請われて結婚したが、又日本初のチャリティバザー等開き、梅子を名実ともに絶えず支援した。

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*異色の棋士たち

2011年01月24日 | 捨て猫の独り言

 大学入試はどうあるべきかという話題になり、入試の必修科目として「次の一手を答えよ」という「詰め碁問題」が出題されるようになれば日本全国の受験生は必死に「詰め碁問題集」を解くようになるだろうと本気とも冗談ともつかない話になったことがある。ところが、それに近いようなことが現実に起きていた。東京大学の教養学部では単位の取れる囲碁の授業が2005年の10月に始まったというのである。その授業担当者は平易で明快な解説でアマチュアに定評のあるプロ棋士の石倉昇(のぼる)九段だ。昨年からは早稲田大学、慶応大学でもカリキュラムに囲碁が取り入れられているという。

 石倉九段は1954年生まれで、東大から日本興業銀行に入ったが、銀行を止めてプロ棋士に挑戦する。周囲の反対の中で父親だけは「好きな道でやってみろ」と見守ってくれた。プロ棋士となった石倉九段には対局のほかにもう一つの目標があった。それは囲碁を多くの人に広めるということ。1984年から渋谷のカルチャースクールで囲碁教室を担当し、以来「ラクに囲碁が強くなる方法」を考え、実践して28年目だ。70歳で囲碁を覚えて80歳でアマ3段になった女性もいれば、87歳から初めて99歳で3級になった男性もいるという。

 「琴棋書画」という言葉がある。現代の言葉に置き換えると「音楽・囲碁・書道・絵画」。これが、古くから君子のたしなみと考えられていたらしい。このうち、囲碁だけが学校の科目にない。東大の授業に囲碁が組み込まれたのは画期的なことだ。東大の初回のガイダンス(説明会)には100人以上が集まった。作文を書いてもらい、入門者であることと、囲碁への熱意を基準に定員の40人に絞った。試行錯誤の末、全くの入門者でも19路盤で最後まで打てるシステムをつくったという。石倉九段は2008年に東大の客員教授に就任した。

 もう一人の異色の棋士は1973年生まれの坂井秀至(ひでゆき)八段である。昨年の8月「碁聖戦5番勝負」の最終局で現役最強といわれる張棋聖に勝利した。大学卒業後にプロ入りした棋士として、初のタイトル挑戦者にして初の七大タイトル獲得者となった。関西棋院所属の棋士としては29年ぶりのタイトル獲得である。開業医の長男で、後を継ぐつもりで京大医学部に進み、医師免許を取得した。一方で、在学中に世界アマ囲碁選手権を制するなどしている。「血が沸き立つような勝負をしたい」との気持ちを抑えきれなくなり、研修医勤務を目前に転身を決意し28歳でプロ入りした。2007年に6才下の医師と結婚し1歳の長男がいる。

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生徒10人の女子英学塾

2011年01月19日 | ねったぼのつぶやき

 日本の女子教育の先駆けとなる」というのが3人(梅子・捨松・繁子)の留学時代の夢だった。しかし11年の空白は大きなカルチャーショックをもたらした。母国語は覚束なくなっており、日本語の学習(とりわけ漢字の読み書きが難)に励んだ。当時男性の帰国者には高位の職業が用意されたが、女子の場合皆無に等しく、辛うじて得た教職すらも、経済的自立を目指すというより、男性に従ってといった儒教色の濃いもので梅子の理念とは程遠かった。

250pxsutematsu2c_alice2c_ukeko2c_sh そんな中で一段と「日本の発展は女性の地位向上から」と学校設立の思いは高まった。そして自分達の手で、自分達が理想とする学校に拘り、実質的な運営をする為2度目の留学を終えて、1900年遂に関係者(捨松・繁子・親類縁者・米国からの寄付金等)の支援を得て、「女子英学塾」を創設した。「坂の上の雲」に見られるように、この時代、政府から外国に学ぶ機会を与えられた諸氏の胸中には、「学んだ知識を社会に還元したい」という強い願いが刻まれていた。梅子が開校式で語った建学の精神は、今も変わることなく、津田塾大学の教育理念として受け継がれ ている。(左から梅子、アンリ、繁子、捨松)

 昨年は開校110周年にあたり10回余に及ぶ市民講座が開催された。各回とも多くの市民が参加していた。徒然に卒業生をチェックしてみたら放送界のアナウンサーや小説家が多く、その他森山真弓・赤松良子・犬養道子・円より子・戸田奈津子・田嶋陽子と女性のリーダー達が並んでいた。そして今日も彼女らに続かんと全国から集う乙女達が、私達がディケアの皆さんと小休憩をとっている公園の傍らを通り抜けている。

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*囲碁三昧

2011年01月17日 | 捨て猫の独り言

 列島各地で大雪が降るなかで、ここしばらく関東南部は雨も雪も降らず空気はからからに乾燥している。舗装のない近くの緑道では、ときおり突風で土ぼこりが舞い目を開けておれない時もある。水仕事の後で手の甲がかさかさに荒れていることに気付くことが多くなった。砂糖壺の砂糖はカチンカチンに固まっている。今日は阪神淡路大震災から16年目にあたる日だ。

 旧式のビデオ内蔵型のテレビでかつて録画しておいたNHKの囲碁番組のビデオを見直している。録画してそのまま永年放置していたものだ。囲碁番組だけでなく他の目ぼしい番組なども見直した後は、これらのテープをテレビもろとも処分しようと考えている。たまたま録画してあったのは1989年度の毎週20分の囲碁講座で、講師が石倉昇でアシスタントが島田広美の「これならわかる定石の生かし方」だった。偶然録画しておいたのだが、なかなかの名講義である。なんと20年以上も前のものだ。

 囲碁の棋聖戦七番勝負の第一局が13日に雪の会津若松で始まった。懸賞金が最高のタイトル戦である。今回も2日にわたり朝夕限られた時間にテレビの中継があった。もちろん見逃すわけにはいかない。テレビの他にパソコンではリアルタイムの進行状況を知ることができる。棋聖に挑戦するのは若手の井山祐太名人だ。第一局は挑戦者の井山名人が勝ちをおさめた。専門家は最終の第七局までもつれると予想しているが、私の予想は4勝2敗で井山名人がタイトル奪取して2冠に輝くと予想している。第六局の結果が出るのは3月11日だ。

 年が明けて公民館のある囲碁会に加入させてもらった。毎週金曜の午後1時から5時ぐらいまで開かれている。4か月の期間をかけてリーグ戦を行い、勝率による表彰を行うという。この1月から4月までは、この会にとって第13回目のリーグ戦だという。私は区切りよくリーグ戦の初日から参加したことになった。ルールらしきものは「同一人と2回対局する」ということぐらいである。各自持ち点があり、勝つとプラス1、負けるとマイナス1が持ち点に加算される。対局は持ち点差を計算してハンデが決まる。万年初段と自己申告した私の持ち点は100である。この会における記念すべき私の最初の対局で、私は5子を置いて打ち始めた。

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女子教育の祖「津田梅子」

2011年01月14日 | ねったぼのつぶやき

 暮、近くの図書館に出かけ借りたい本の検索をした。肝腎の本は貸し出し中や取り寄せの必要があり予約を入れた。何にしようと例によって書架の前を行きつ戻りつした。手に取った本の一つが津田梅子。幼少時留学し、津田塾大学を創設した程度の知識しかなかった。徒歩15分の津田塾市民講座に通った際、5人の女子留学生中最年少の梅子(6才)が、つま先立って船上から見送りの人に手を振っている後姿の壁面大の油絵が私の印象にも残っていた。

155pxtsuda_umeko  1871年、時の政府高官(大久保・木戸・伊藤博文)や留学生の100余名からなる岩倉具視使節団に、随行員という形で同行しアメリカへ留学した。5名の女子中2名は病気その他あって11年後帰国したのは3名だった。梅子は6才で出立し、多感な時期をアメリカのランマン家で実子同様に養育され、18才で希望に満ちて勇気リンリン帰国した。

 この本は、30年に亘る梅子とランマン夫人との数百通の往復私信(’84大学本館3階の物置で発見された)を中心に構成されている。内容的には近代思想の中で育った梅子と、貴重な官費で教育を受けてきた彼女等を活かそうしなかった日本の現状への落胆と、雇われた学校の方針と自分等が理想とする理念の乖離から、自ら私学を起こし女子教育をしようと決意し、実行した過程が記されている。朝日新聞社経由で同校卒の大庭みち子氏にシリーズ化を依頼し’90年には製本された。私信というだけあって、思いの丈が息遣いと共に聞こえて来て興味深かった。他2名のその後や、奔走する梅子への多数の支援者等、次回もう少し触れてみたい。

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*謎解き

2011年01月11日 | 捨て猫の独り言

 この小寒の時期には、数は少ないが道路沿いにロウバイが咲いているのを見かける。ほとんどが変種のソシンロウバイというものだそうだ。小枝いっぱいに黄色の花が開花して、鼻を近づけると芳香に気付く。また師走から咲いている庭のネリネがいまだにその容色を保っていることは驚きだ。うっすらと霜の降りた庭の中に日の光を浴びて氷の結晶か何かのようにネリネが輝いて見える。また、あちらこちらの柿の木では、小鳥たちの貴重な食料である柿の実はほぼ食べつくされてしまっている。

 まことに静かな年末年始だった。今後ともこうありたいものだ。そのうちどこか海辺の温泉あたりで年越しを迎えられたらどんなにいいかと思う。いつもと異なり今年は初日の出を拝みに出かけた。日の出よりもその一時間近く前の時間帯のかすかに赤みがさしてくる曙がなんとも清々しいことかと思った。日の出の瞬間は人々のあいだにざわめきが起こり、ぽつりと「毎日のことなのにねえ」と老女がつぶやくのを聞くと私は神妙に同意する。昨年11月に年賀欠礼の葉書を少ない数だが出した。そして12月には福島山中の独居人から返信があった。謎とはその葉書のことである。

 「北もゆるせる尖閣もへのこもくなしりも竹しまもゆるせるゆるせぬのは少女を自死におひやるこの国この社会その大人たちこのおれ」とあって「石も泣け少女の自死が虎落笛」と自作の俳句で終わっている。ゆるせぬの中に「このおれ」と「おれ」が含まれているのが目を引く。この一蓮托生の精神は正しいと思う。昨年10月群馬県桐生市で小学6年の村上明子(12歳)さんが自宅で自死した。私の謎は「虎落笛」である。日本語辞典を引いても埒があかない。漢和辞典を引くと「虎落」が「こらく」または「もがり」とある。そこで再度日本語辞典で「もがりぶえ」にたどり着いた。「冬の強い季節風が柵や竹垣に吹きあたって発する笛のような音」とあった。

 葉書の前文には「辻邦生の西行花伝を読味しておる。いわく、身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」とあった。鳥羽院に出家のいとまごいに詠んだ歌は「惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ」である。だから身を捨てるとは出家のことだ。「捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」が私の謎である。これは西行が生涯歌を手放さず半僧半俗の人だったということを指しているのかなどと想像してみた。西行は旅に出ることが修行であった。この謎を解くために近く図書館で「西行花伝」を借りて読まねばならない。元旦の夜に福島山中から電話があった。山羊を飼うことにした。そのうちチーズを創るという。3カ国語を勉強しているという。

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何の楽しみを加えようか

2011年01月06日 | ねったぼのつぶやき

 TVでは豪雪による停電や身動きの取れない高速道路事情を報じ、空港や駅では帰省や帰京客の賑わいも伝えていたが、我家の正月は静かに過ぎた。元旦はささやかに雑煮を作り、前日作り置いた数の子、柿(頂いた干し柿)なます、きびなごのゴマメ、栗の甘露煮、買った昆布巻きで祝杯を上げた。それから恒例の近場の神社とお寺に初詣をして甘酒を戴いた。

001_2   昨年は義父との別れがあった。93才の義父は常に礼儀正しく、私が帰省するといつも丁寧にお茶を入れ茶菓子を勧めてくれた。正直で律儀な嘘のつけない人だった。病に倒れるその瞬間まで自分の事は自分でしていた。人様を悪く言うのを一切聞いたことがなく、義父を悪く言う人も誰一人いなかった。身体・気力は年なりの衰えはあったけれど、精神の衰えはなく、私が手本にしたい確かな一人であった。亡き今は、お盆上に仕立てた簡易仏壇に毎朝お茶を上げ手を合わせている。

 さて今年はどんな年になるだろうか。先ずは家族の健康が一番だ。健康でさえあれば何とでもなる。その意味では身体が発する危険信号には注意を払わなくてはならない。定期健診は洩らすまい。加齢を重ねる毎に下り坂のスピードは加速もしよう。ならば今やっているトレ(脳・身体)はさしずめ継続しよう。次に楽しみながらやれる事は・・・ハテサテ・・・これに何を加えようか。

 

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*テレビ放送大学

2011年01月03日 | 捨て猫の独り言

 昨年の秋からテレビ放送大学の番組を録画して見るようになった。数学関係だけでも「解析入門」「初歩数学」「空間とベクトル」「微分と積分」「入門線形代数」「数学再入門」と6つの講座がある。それらの録画を適当に取捨選択して視聴している。講師は自分の手で書きながら数学を学習するようにと忠告する。恥ずかしいことに、私は不良大学生だったから、不勉強のせいで今になって新鮮な思いで見る講義が多い。コンピューター画像などは以前は示されることは無かった。現代の学生は幸せだと思う。それにしても私の中高教師の現役時代は、放送大学など見ることもなく毎日の生活に追われていたということだ。

 私にとって興味深い講義がもう一つある。それは15回シリーズの「和歌の心と情景」というものだ。和歌は日本の歴史とともに続いてきたという長い歴史を持っている。その歩みがわかるように味わい、そして解説するという。年末年始は再放送があって第1回「万葉集の風景と抒情」から見ることができた。その中では、柿本人麻呂の「東(ひんがし)の 野に炎(かぎろひ)の立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ」が取り上げられていた。「かぎろひ」とは「夜明け前の曙光」のことだ。これから天皇となりこの世を照らしていく軽皇子(かるのみこ)を予祝する思いを風景への感動を通して解き放つ歌なのだという。

 万葉時代の和歌は漢字表記されていた。困ったことにこの表記はどのように訓読するかは一通りに定まらない。それから時がくだり平安時代になって、安→あ、似→い、阿→ア、伊→イ などのように、漢字を源にして「ひらがな」「カタカナ」が考案された。たとえば「新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家余其騰」 という万葉仮名=漢字表記を、ひらがな表記にすると「あたらしき としのはしめの はつはるの けふゝる雪の いやけしよこと」となるのだ。このように一字一音のひらがなの発明により万葉仮名の限界が克服されたという。

 さて夜明け前の曙光が見たくて、大晦日に歩いて15分ほどの大ケヤキのある畑地に出かけた。翌日の元旦に備えてのことだ。しかし厚い雲にさえぎられて、期待していた夜明け前の茜色の空を見ることはできなかった。ところが自然現象は霊妙なものだ。元旦に同じ場所に出かけると茜色に染まって刻々に変化する空に出会えたのだ。日の出の1時間前がとても神秘的だ。東南の方向の天空高く下弦の月が出ている。東に太陽で西に月ではなかった。先の人麻呂の歌も単に風景に感動しているのではなく、歌がある政治的な意味を持つことがあることを知った。4月から始まる放送大学という楽しみが増えた。

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