玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*ギャラリー友の会

2010年03月29日 | 玉川上水の四季

 記念すべき玉川上水オープンギャラリー友の会の第1回は良く晴れた2月7日の日曜日だった。参加者は20名ほどだがさすがに若者はいなかった。初回ということもあって最初に1年前のギャラリーオープンの経緯について鈴木さん自身から話があった。そのあと参加者全員で上水沿いに上流の農家の畑地の福寿草の観察に出かけた。尾の長い白っぽい小鳥のエナガが群れで行動しているのに気づき見上げたり、過去の上水の景観についての話を聞きながら歩いた。

 友の会は当初毎週日曜日に開かれる予定だった。初回のあとしばらく不参加だった私は、真冬並みの寒さの昨日やっと参加することができた。なんと7週間ぶりである。たしかに冷たい雨の日曜日が続いた。言い訳をすれば日曜日はテレビで囲碁番組があり友の会の時間帯と重なっている。今回久しぶりに鈴木さんとお会いして、4月からの友の会開催についての変更を知らされた。毎週の開催は無理があるようだ。友の会は節気の最初の日曜日と定めたという。ほぼ隔週ということになるが、なるほど節気の最初の日曜日とすれば隔週ということにしても混乱はない。次回(清明)の定例会は4月11日でミニ観察予定はチゴユリだという。

 曜日はまちまちということになるが、節気の初日すなわち展示が入れ替わった日に鈴木さんはギャラリーに出るという。これは友の会々員とは別に一般の人との交流が狙いのようだ。開かれたいい考えだと思う。鈴木さんはギャラリーで屋台を出すようになった。自ら撮影した葉書大の小鳥の写真が一枚100円である。印刷代の足しにカンパをお願いするのだという。木製の代金箱の横には包装された季節の小鳥の写真がいつも3種類ほど並んでいる。私はこれまでにルリビタキ、トラツグミ、ウグイスの3枚を手に入れた。いまルリビタキが玄関を飾っている。

 寒さのせいもあって昨日の友の会の参加者は10人にも満たない。今回のミニ観察はアマナの群生を訪ねることであった。鈴木さんはアマナの写生に取り組んでいるところだという。ギャラリーの近くの橋から一つ上流の橋まで玉川上水の左岸と右岸を約1時間かけて歩いた。特に左岸はいつも私が通る道だが新しく知ることばかりだ。盗掘されて少なくなりつつある野生のシュンラン、昔は土手一面に咲いたというクサボケ、青木には雄株雌株の違いがあり、アマナは陽射しがないと花開かないなどのことを知る。興味深かったのはカワセミが上水の土の崖にくちばしを使って掘ったという古い巣穴の跡である。1m程の深さという。別な場所にはカワセミの糞の跡があり、そのうちこの近くでカワセミを見かけることができるだろうという。図鑑で見るとコバルト色の背と橙色の下面をもった、くちばしの大きな美しい小さな鳥だ。

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*虚の視座

2010年03月23日 | 無断転載

 懐かしい人たちと会って、それぞれの物語を聞き、おいしい酒を飲んだ。そのような時を過ごした後の朝の目覚めに、ときおり訪れる深い寂寥感を久しぶりに味わう。このような場合は何もしないでひたすら時が過ぎるのを待つしかない。ぼんやりした頭でなにげなく雑誌をめくっていた。ある短歌雑誌の特集に「私を変えたこの一首」があり、その中の一人若い歌人の記事が私をとらえた。

 さよならと いくたび振りし てのひらか 

 ひらひらとして 落葉となりぬ

 この何ともわかわかしい一首は前登志夫72歳の作である。ほぼ同時期に書かれたエッセイ「春の居眠り」に「老醜は人みなに避けがたい。それを美として生かせるのは虚心な芸の力であろう。賢(さか)しらでは駄目なのである」とあり、同じく「老深む年」では、老いの断念や諦念と引き換えに「虚の視座」つまり「無私の眼差し」を与えられる、ともあるのを読んで、この歌のもつ若さの謎が少し解けたように思えたものだ。

 

 木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように

 大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように

 木の葉は否定の身ぶりで落ちる

 

 そして夜々には 重たい地球が

 あらゆる星の群れから 寂寥のなかへ落ちる

  

 われわれはみんな落ちる この手も落ちる

 ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

 

 けれども ただひとり この落下を

 かぎりなくやさしく その両手に支えている者がある

      

 リルケ詩集 「秋」 (富士川英郎訳)

 この記事の筆者は前登志夫のこの歌から、リルケのこの詩が浮ぶという。

 

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Skypeで従姉妹の交歓

2010年03月20日 | ねったぼのつぶやき

 ”ピーポー”といきなりPCの電子音が鳴った。娘から約束通りSkypeが来た。たった今息子夫婦にその話をしたばかりだった。しばしの後、PC画面に向こうの妹家族の画像が映り、右隅にはこちら画像が映っている。産れたばかりのベビーが2才になって首を傾げ「叔父さん」を見つめている。いつもはジジババしか映らないのだから面喰っているのだろう。

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 夕食後の風呂から急いで上がってきた11才の双生児の従姉妹達が、濡れた髪のままPCの前に陣取り動かなくなる。双方が画面を見つめあいしばし言葉がない。遠く太平洋を隔て、目覚まし時計ででゴット起きしたばかりの2才と4才の姉妹はますますキョトンとしてる。子供達はドギマギが行き来して会話は思うほどに弾まない。それもその筈。2年ぶりの対面なのだから。しかも息子達家族にとってはPC電話は初体験で、話し言葉自体も違うのだから。

 飛行機で往来すれば乗り継いで13~4時間はかかる距離。この文明の利器はそれを一瞬で繋ぐ。時差をクリアーすればいいだけ。しかも無料ときている。その辺の事情は理解不能だが有難い事この上ない。日本語を学びたい子と英語を学びたい子供達。お互いのニーズも一致する。長ずるにつれ祖父母参りは遠のきがちになっている。Skypeはも一つの強力な引力になってくれそうで嬉しい。

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*日帰りバスツアー

2010年03月15日 | 捨て猫の独り言

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 3月から始めて12月までのほぼ1年をかけて12回で富士山麓を歩いてぐるり一周する日帰りバスツアーの第1回目に参加した。私は全12回のツアーに続けて参加するつもりはない。第1回のコースに魅かれただけだ。その第1回のコースは山梨県側の富士吉田市から山中湖までだ。途中に湧水の里の忍野八海を訪ねるのも興味深い。ここから望む富士山は美しいことで名高い。私は忍野八海を前に一度だけ訪れている。

 戸外に出て行動することは大切だ。事前に頭の中で考えていたあれこれのことがものの見事に覆されることになった。この日富士山は5合目あたりから上は一日中雲の中だった。もっと空気の乾燥した季節でなければくっきりと富士山を望む機会は極めて少ない。このことにもっと早く気が付くべきであった。雨さえ降らなければ富士山に出会えると安易に考えていた自分が情けなかった。

 バスの中で胸板の厚いベテランのウオーキングリーダーから単なる観光気分では困ると注意を受ける。しかし約10キロ約4時間のウオークが主であるツアーにしては参加者はバスがほぼ満席の41人だ。これは明らかに多すぎる。都内では雪など見ることはなかったが、富士吉田市の北口本宮富士浅間神社でバスを降りるとそこは雪景色だった。まさかほぼ全行程を雪道の行軍とは考えていなかった。先頭はスパッツ装備のリーダーが足跡をしるし、最後尾を若い添乗員が付いた。私のスニーカーには水が浸みこんできた。 

 再びの忍野八海には幻滅した。富士山は裾野しか見せてくれない。そして観光客の混雑ぶりや、よもぎ餅売りなどのうるさい声が清らかな湧水を台なしにしていた。ツアーの参加者はやはり女性が多く、私より年長者が多いとお見受けしたが皆さんの健脚ぶりには驚かされた。これを機会に富士登山のコースを調べてみると主に6つのコースがあるという。そのうち山梨県側には人気の河口湖口・ルート、昔ながらの吉田口・ルート、精進湖口・ルートがある。今回私達が参拝した浅間神社は古くから富士講の人々が安全祈願をして富士山頂を目指したという由緒ある神社だった。(写真は忍野八海にて)

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職人さん達の仕事ぶり

2010年03月11日 | ねったぼのつぶやき

 久しぶりの晴天に恵まれて外気温は12度。太陽に当たっていると心地良いが屋根の上でペンキを塗るには風はまだ冷たい。外壁の大まかな塗装だけはどうにか済んで、窓枠に張り巡らされていたビニールだけはヤット取れ見通しが良くなった。

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 ペンキ屋さんは若者2~3人を連れて朝8時過ぎやって来る。勝手口のガラス窓をノックして来訪を告げ作業を始める。打ち合わせの必要もない程に段取りに従って黙々と作業は進行してゆく。大工仕事はないせいか養生用の半透明のビニールが風に旗めく以外には何の物音もしない。私は職人さん達の働いている姿や作業の工程を見ているのが大好きだ。いつもそのプロぶりを堪能させて貰う。庭師さんの仕事も見ながら自然に覚えた。

 そういった原点は幼少時にあろうか。隣のお爺さんがいつも土間に座りこんで竹を割り、5~6Mはある長~い三角柱の形(骨組丈)をした田植え用の道具を作るのを見ていた。畳屋のおじさんは、作業台の上で太い畳針をブスリと刺し込んでは、右肘を立てグイと押し込んで一針一針締め込んでいた。終日見ていてもちっとも退屈なんてしなかった。私は長年対人的な仕事をしてきたが、ひょっとしたら職人的な仕事の方が向いていたのではないかと今フトそう思う。

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*湯布院温泉

2010年03月08日 | 捨て猫の独り言

 読者が決める「日本一」という他愛ないトラベル記事がある。今回の「美肌の湯」については1位が湯布院温泉(大分)だという。以下の順位は登別(北海道)白骨(長野)草津(群馬)と続く。記事内容は湯布院温泉のみだ。朝鮮戦争の特需などで戦後復興が始まったころ、湯布院町は深刻な財政危機に直面していた。そんな時代に湯布院温泉は「奇策」に打って出る。歓楽街反対を打ち出し、ゴルフ場の開発計画も頓挫させ、「自然との融合」を掲げた。文化・芸術にも挑戦し、ゆふいん音楽祭や湯布院映画祭を成功させた。辻馬車を運行しマイカー路線と一線を画した。

 日田英彦山線を経由して久大本線への鈍行列車の旅で私が初めて湯布院を訪れたのは08年の暮れである。昼間の入浴だけが目的で飛び込んだホテルの露天風呂からくっきりと由布岳が見えていた。冬とは思えぬ暖かい日で、由布岳の向かいの小高い山あたりではハンググライダーがいくつかのんびりと旋回し、風呂の近くの林からは小鳥のさえずりが聞こえていた。あのような瞬間に出会えたことは幸運としか言いようがない。思い起こせば湯布院駅の待合所は壁の写真に囲まれてまるで常設ギャラリーだった。街はベンチや甘味どころや小物の店が目立ち、何かほっとする雰囲気がある。

 小林秀雄(83年没)の晩年の友人の一人に政治漫画家の那須良輔(89年没)がいた。最近私はその那須の「好食随伴記」なるものを読んだ。それによると小林は晩年の約十年は、湯布院を訪れることが年中行事になっていた。宿は「玉の湯」でここの料理が特に気に入っていた。刺身なら刺身には自然の甘みが具わっているだろう。砂糖や味醂で煮物に味をつけるなら、その日に出す刺身の甘みと、甘味の系統を揃えられなければ職人じゃない。「玉の湯」はこれが出来てるよ。と毎年ご満悦で通いづめた。昭和50年5月5日の由布院行きは、わらび狩りで車が混むと運転手が言い、空港から別府への中間にある日出(ひじ)町の「的山荘」で一息入れた。名物の城下(しろした)カレイを肴に酒。

 牛を言うなら、豊後の黒牛も落とせない。湯布院旅行の目的の一つがこれだったと那須は書いている。小林が湯布院旅行を好んだのは食のためだけだったとは考えにくい。食に淡白な私でさえが魅了された湯布院なのだ。そうだ不思議な魅力をもつこの風土をいつの日かもう一度訪ねよう。ただし一泊3万円の「玉の湯」は敬遠することになるだろう。食に関して私にできることは旬な食材を手に入れるよう心がけることぐらいだ。しかし人は永年の年月で身についた生活の習性は簡単に変えられない。旬な食材を追い求める貪欲さを持ち続けることだけでも私には難しい。

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この所私はプリプリだ

2010年03月05日 | ねったぼのつぶやき

 寒も温み三月早々外装塗り直しの段取りをした。凡そ3週間かかるという。鉄パイプが組まれ、ビニールシートに覆われるのに外灯を点けて丸一日半要した。かくして天気次第による作業が始まった。途端に・・天気予報ときたら・・・優れない。3週間でキッカリ終わってしまわなければ事情が発生したというのに。

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 というのは、この20日に2組のご夫婦をお招きすることになったのだ。それも夫の同僚で相前後して定年を迎えた先輩、同輩達。先輩のお宅には、2人でお邪魔したこともお呼びしたことある仲。同輩は別荘にお呼ばれした事はあるが、お招きするのは初めて。しかも男たちは3人とも 「○○○○君」 という因縁つき。晴れて毎日が日曜日になった仲間同士。遠くない距離にあって意気投合し往来したい方々の集まりなのだから。

 以来私は天気予報と作業の進展具合にヤキモキの毎日となった。お招きの延期を夫に申し入れても、面倒なのか「在るが儘でいい」と工事中など意に介さない。そこで業者さんに事情を説明し何とか間に合わせて欲しいと懇願する。職人の投入は考慮するが・・天気はどうしようもないと。男たちのみの接客なら気は揉まない。女の私が来訪者なら「こんな最中に御呼ばれして・・」と気の毒に思うだろう。その辺を理解できない男に私はプリプリしている。そんな訳で居心地の悪さもあってか「今日は学校で採点してくるよ」とお出かけ遊ばした。そして私は更に追い打ちをかける「全く外面だけはいいんだから」

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*ある情報誌の廃刊

2010年03月01日 | 捨て猫の独り言

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 新聞は朝日、読売、毎日の3紙をこの順に6カ月おきに配達してもらっている。現在の朝日は4月までの契約だ。朝日にはタブロイド版の折り込み情報誌が2つある。多摩・武蔵野地域の情報誌として部数50万の「朝日タウンズ」は毎週一回木曜の発行である。もう一つは12年前にスタートした隔週月曜発行の「定年時代」だ。私は今年になってこれらの折り込み情報誌の存在をはっきりと意識し始めるようになっていた。

 朝日タウンズの方ではこの1月から児童文学作家とイラスト画家による文と写真とイラストの「多摩の野鳥たち」というシリーズが始まり、私はそれを切り抜き保存している。定年時代ではその中の広告を見て、3月中旬の日帰りバス旅行を申し込み、すでに振り込みも済ませた。立川駅を出発し富士浅間神社から忍野八海そして山中温泉(紅富士の湯で希望者は入浴)と約10キロを歩く。

 そんな折、2月最後の木曜の朝日タウンズ一面に「3月末に廃刊します」と社告が掲載された。これまで37年余り続けてきたが経営改善の見通しが立たず廃刊するという。主な収入は広告収入、親会社である朝日新聞からの補助金、販売店からの買い取り料である。新年度から補助金は廃止になり、買い取り料は引き下げになりいずれ無料になるという。

 朝日タウンズがスタートした時期は私が上京して今の仕事に就いた時期とほぼ同じである。今日までの約40年を共に過ごしていたわけだ。「紙の新聞」から「ネット・電子版」へは時代の流れだ。あわせてこの不況である。朝日タウンズは廃刊し、ちょうど時を同じにして私は退職する。これから愛読しようと思っていた矢先の廃刊は残念だ。本日配達された定年時代の編集室からという記事にも苦しい経営状況をうかがわせる文面があった。これまで私達の世代が経験したこともないきびしい時代が到来しているようだ。(写真はふきのとう)

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