玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*八重山三日間(三)

2015年01月29日 | 沖縄のこと

 西表島のほとんどは山岳で、その90%以上が原生林におおわれている。北岸の道路が完成し、海岸沿いに東部と西部がつながったのは昭和52年である。高速船は石垣から東部の大原港と西部の上原港の2ルートがあり、外洋を回る上原港ルートは冬は欠航が多いという。八重山は猛烈な台風に見舞われ続けてきている。そのため一部だが電線を地下に埋設した区間が見られた。また団体専用に昼食を出すレストランが整備されていることに感心した。

 由布島は周囲2.15㎞、海抜1.5メートルの小さな島で島全体が亜熱帯植物園になっている。昭和44年の台風で島のほとんどの人は移住したのを、正治おじい夫妻は島に残り手造りの楽園を作り上げたという。由布島には水牛が40頭余りいて、それぞれに名前が付いている。私たちが訪れた時は、干潮で陸続きになっていたが、水牛車にゆられて往復した。蝶蝶園ではオオゴマダラがゆったりと飛ぶ姿を見た。なんとそのオオゴマダラの蛹(さなぎ)は黄金色だった。

 石垣島には火力発電所があり、石垣島から西表島に海底電線で送られている。それとは逆に水資源豊富な西表からは海底パイプラインで石垣に水が送られている。西表島内に信号は2か所しかなく、小学校の前に設けられた信号の設置目的は交通安全教育のためだという。「最南端の波照間島(竹富町)には信号がないので、この信号が日本最南端の信号になります」と説明したら、さっそく撮影していたお客さんがいたという。どこから見てもただの信号ですと、船長から早変わりした多宇さんが笑いながら話した。

 その日の見学を終えて、石垣島に戻る高速船のほとんどの乗客は目を閉じて時が過ぎ去るのを待っていた。雲が低く垂れこめて、窓には波しぶきが打ちつけ、その窓からは遠くに島影がぼんやりと見えている。そのあと石垣鍾乳洞を見学し、隣接するレストランの夕食とあわただしい。7時半をすぎて文化会館の「八重山の夕べ」に号車別に集結して、若さあふれる郷土芸能の歓迎を受ける。そのため翌朝の石垣島めぐりは10時すぎの遅いスタートになった。昨年の沖縄各地は選挙が続いた。尖閣諸島が属する石垣市の市長選挙は3月に行われ、46歳の現職が当選したという。南の島の選挙はいつも異常なほどの盛り上がりをみせることが多い。

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*八重山三日間(二)

2015年01月26日 | 沖縄のこと

 那覇から石垣への便は日に20便もある。35年前からジェット旅客機が就航していて所要時間は1時間である。本日は石垣島と西表島の間を通り着陸しますので右手に西表島をご覧になれますという機長のアナウンスがあった。八重山では日の登る方角から東を「アガリ」、同様に西を「イリ」と読む。さらに南は「パイ」北は「ニシ」となる。新空港の愛称は「南ぬ島(パイヌシマ)石垣空港」である。

 2日目、いよいよ高速船で離島へ渡る。あいにくの曇り空で波も少しある。この日は石垣島には大型バス5台の団体客がいた。バス毎のスケジュールは、離島ターミナルにあるトラベルセンターがすべてを決定する。高速船は波をたたきながら10分ほどで竹富港に到着した。マイクロバスの年輩の男性運転手の手なれた案内で、ビーチや歴史的建造物群保存地区を訪れる。船の出発時間の制約があり竹富島の滞在は短時間で終わる。

 竹富港から西表島の大原港までは30分である。すぐに遊覧船に乗り移り60分の仲間川のマングローブの見学が始まった。中年の船長の案内で仲間橋の下を抜けて上流に向う。マングローブとは海水と淡水とが混ざり合う浅い水域に生きる植物の総称である。タコの足状に地表より上から斜めに根が伸び、幹を支えているのがヤエヤマヒルギでである。台風による倒木でも勝手に処理できない天然保護地域だ。

 ユーモアあふれる船長だった。まもなく到着して皆さんはあのバスで移動いたします。出発地点とは違う船着き場だ。しかしまだ運転手の姿が見えないようですと言う。バスの座席で待っていると、別の帽子を被って「運転手の多宇です」と自己紹介したのはあの船長である。「船での説明は満足いただけたでしょうか」に大きな拍手が起こる。「ありがとうございます。後ほど彼に伝えておきます」と言ってバスは仲間橋を渡った。

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*八重山三日間(一)

2015年01月20日 | 沖縄のこと

 羽田を出発し二泊三日で5万円の阪急交通社のパック旅行はどう考えても格安だ。石垣島のホテル日航八重山に連泊して竹富島、西表島に高速船で渡る。また八重山キャンペーン期間ということで、二日目の夜は特別に文化会館で高校生の若さあふれる郷土芸能を一時間にわたり鑑賞することができた。宮古列島と八重山列島をあわせて先島諸島と呼ぶ。

 地域の暮らしを知るための入門編としてはパック旅行は最適だ。また現地へ旅することで、鮮明に島の位置関係などが頭に入る。バスガイドさんの案内でその土地の歴史のポイントを知ることができる。私の旅は今回も予習よりも復習が主である。石垣島一つが石垣市だけれども、竹富町は西表島、竹富島、由布島など大小16の島々からなり、変則的だが竹富町役場は石垣市内にある。

 

 石垣島は沖縄本島から南西の方向に、東京と大阪間の距離ぐらいの位置にある。「ようこそいらっしゃいました」というのを那覇では「めんそーれ」で石垣では「おーりとーり」というほどに言葉が違う。1979年に新石垣空港を海上空港として、白保の沖合に建設の案が出たがサンゴ礁保護の反対運動で10年後に撤回された。それから長い年月を経て白保の北部のカラ岳陸上案で決着し、やっと2年前に新空港がスタートした。

 日本最南端の高校の八重山商工は大峰祐太(現千葉ロッテ)投手を擁して2006年にセンバツに出場し一回戦で富山の高岡商に勝ち、全国の離島勢の甲子園初勝利を挙げた。さらにこの年の夏の選手権ではベスト16まで進む。その縁でロッテの春季キャンプは石垣市の中央運動公園野球場で行われる。そのほかに地元の誇りとして「元ライトフライ級王者」の具志堅用高と「涙そうそう」の夏川りみなどがいる。

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*元旦のお言葉

2015年01月15日 | 捨て猫の独り言

 今朝の新聞の投書欄を見てあわてた。「陛下の平和への思いに共感」と題した下関の71歳の僧侶の方の投書を読んだ時のことだ。戦後70年の今年、天皇陛下が新年のご感想で「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが今極めて大切なことだと思っています」と述べられましたとある。

 3日の新聞には皇居での一般参賀の記事があったはずである。その記事を読んだかすかな記憶がある。その内容をいまいちど確認したかった。小さなスペースながら「皇居で一般参賀、佳子さま初参加」という記事はすぐに見つかった。そこには陛下のあいさつとして「本年が国民一人一人にとり少しでも良い年になるように願っています」という結びの部分しか書かれていない。(写真は左からメタセコイア・イチョウとケヤキ・クヌギとコナラ)

 3日の記事では「満州事変の歴史に学び」のくだりこそ書くべきではなかったか。そのことが疑問として残った。そう書かれてあったならどんなによかったことだろう。投書はさらに陛下の誕生日での「日本が平和で健全な国として、近隣諸国はもとより、多くの国々と共に支え合って歩んでいけるよう願っています」という言葉も引用している。

 この国の一部の政治家の言葉の軽さにくらべて陛下の言葉には想いがこもっている。美智子皇后の存在がそれを支えているのだろう。よき伴侶を得られた。年が明けて沖縄の動向を見逃さないようにしている。お気に入りに「琉球新報」「沖縄タイムズ」を登録してチェックする。今日の未明に辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前で資材搬入に抗議の市民約100人と県警120人以上が激しく衝突とあった。明日、私は観光で石垣島へ向う。

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*桜島

2015年01月12日 | 捨て猫の独り言

 9日の朝刊に桜島を背景にした全面広告が出ていた。「平成30年 明治維新から150年 今、薩摩が熱い」と桜島の噴火口の上に大きな縦書きの文字が並んでいる。小さなロゴマークは日の丸の中に白ぬきの150年が目立ち、維新のふるさと鹿児島市とある。このロゴマークは鹿児島銀行のポスターにも登場していた。

 今年は3年後を見すえて世界文化遺産登録をめざすという。「明治日本の産業革命遺産」として旧鹿児島紡績所技師館(異人館)、関吉の疎水溝、寺山炭窯跡、旧集成館(反射炉跡)、旧集成館機械工場(現・尚古集成館)などの写真が横に並ぶ。機械工場は1865年の竣工で今話題の富岡製糸場の1872年より古い。機械工場はすでに2009年に世界遺産の暫定リストに記載されたという。(写真は小平市からの富士9日)

 登録が実現するかどうか興味深い。さらに広告の最下段は「よかとこかごんま」のことばが丸の中におさまって、その横に、きびなご、黒豚のしゃぶしゃぶ、さつまあげの食、そして温泉、そして薩摩切子の伝統工芸品の写真がある。写真よりも何よりも「よかとこかごんま」の土地の言葉に揺さぶられる。

 1月8日(木)の毎日新聞夕刊の近藤勝重氏のコラムは、「つまるところ肉体も精神も、言葉の作品ではないのか。最近、よく思うことだ」で始まっていた。「標準語は広く通用するという目的で作られたもので、土地の人の生活を写した言葉ではない」「方言を話す若者が<おめどご、好きだ>とか<やっぱ好っきゃねん>とか<好いとっと>どの土地の言葉も<愛しているよ>よりぎっしり詰まった思いが感じられる」「地方創生、何とも上から目線で、中央ありきの役所言葉だ」とあった。

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*正月四日のこと

2015年01月05日 | 捨て猫の独り言

 聞き手は作家の五木寛之である。サッカーの岡田武史との対談を読んだ。興味深いことが多かった。「ゾーンに入る」という言葉は私には新しい。ある状況下において、潜在的に持っているパワーが最大限に発揮される超集中状態のことで、岡田は選手時代に自身が体験したという。つぎに伝統的に日本人の骨盤は後傾しているという。逆に西洋人の方は前傾している。外国人の女性が着物を着るとおしりがぽこっと出て似合わない。

 「体幹」に着目して後傾をグッと締める筋肉を鍛えてみたところかなり変わったという。聞き手の五木はゲストよりも饒舌である。甲子園の野球の入場行進を見ていると、日本で稲作文化がはじまって泥の中にズブズブッと水田の中を歩いていた名残りを感じる。日本人がひねりを利かせて手を振って歩くようになったのは明治以降だ。それまでは右手と右足を一緒に出して歩くいわゆる「ナンバ歩き」で歩いていた。

  

 多くの刺激を受けて読み終えると、陽光に誘われて昨日は標高599mの高尾山に出かけた。登りはセメントで舗装された幅ひろい道が続くコースにする。子どたちがまだ幼い時に一緒に登った時のことが思い出された。久しぶりの高尾山は、さまざまな童子像が点在し、六根清浄の置きものなどで整備されていた。薬王院の境内を通り越して山頂まで行く。風もなく暖かい中でコンビニのおにぎりで昼食だ。山頂から白く高く輝く富士山を望むことができた。帰りは細くて石ころむき出しの琵琶滝コースを下りる。

 家に帰りつくと心待ちしていた賀状が届いていた。筋力が衰えて起立も歩行も困難ですが、お陰様でほかは元気です。外出が難しいので各位各方面にごぶさた致しております。筆圧は衰えましたが筆ペンでご覧のような字を書くことができるし、パソコンのキーを人差し指で叩けるので助かりますとハガキの宛先面にびっしりと書き込まれている。本文はこれまで通りの月毎の回顧川柳38首が印刷されている。【ヘイトスピーチ】戦争をしたくてわざわざ敵創る【閑居】コンビニの稲荷で一人喜寿祝い(私のこと)【笑えない】特売へ燃費忘れて駆け付ける【派遣法】そのうちロボットだけが正社員。困難な状況だと思われるが前向きな心に励まされる。さてこのブログの更新を以前の週一回のペースに戻します。

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*元旦

2015年01月01日 | 捨て猫の独り言

 鹿児島銀行の一枚カレンダーの2015年版は「姶良市・金山橋」であることが判明した。思いがけなく大晦日の午前中に届いて、さっそく居間の壁のカレンダーを入れ替えた。両岸が森の清流の上にアーチ式の石橋が懸り、その橋の半円の中の向こうに上流の滝を望むという図柄である。私には未知の風景だ。さっそくその場所を調べてみると、姶良市加治木町小山田となっている。

 「藩政時代、旧道は竜門司坂を越えて小山田に通じていたが、明治12年頃島津家が当時の加治木港を起点として山ヶ野金山に通じる道を開いた。このとき石橋の金山橋が築かれた。川床から高さ10mあり上流の板井手の滝との組み合わせが美しい」とある。カレンダーには10月に経営統合予定の肥後銀行の文字はなく、明治維新150年の文字が小さく加えられているだけだ。(写真は小平市の小川寺)

 

 今年は藤沢里菜という16歳の女流プロ棋士の才能に注目したい。所沢で生まれて出身地は埼玉となっている。藤沢秀行名誉棋聖門下とあるが藤沢秀行の孫である。高尾紳治二冠はブログでつぎのように書いている。「妹弟子の藤沢里菜二段が先日女流本因坊を獲得し、先の会津中央病院杯とあわせて二冠に。妹弟子といってもあまり会う機会もないので、どんな子?と周りの若手に取材してみると

 「碁盤を離れるとフツー」「ちょっと天然入っている」と、どうでもいい話は置いといて、努力家そして強靭な体力はお祖父ちゃん譲りですね。近い将来対局する機会もありそう。楽しみではなく、戦々恐々としている38歳になったばかりのオジサンです」と祝福している。藤沢一蹴八段は実父である。今期のNHK杯で棋譜読み上げを担当しているので、日曜のEテレに登場している。

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