玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*本格焼酎

2024年10月28日 | 捨て猫の独り言

 3泊4日の旅から帰ると、柿の葉が庭一面に敷き詰められていた。留守中に強風があったらしい。幸いなことに風向きの関係で柿の葉は公道側でなく、ほとんど庭の側に落ちていた。色づいた柿の実が姿を現し、熟するにつれてメジロやシジュウカラが柿の実を啄みにやって来る。それを観察するのは楽しい。しかしカラスが柿の木に飛来すると外へ飛び出して追い払う。

  

 故郷の鹿児島から贈り物が届いた。「南さつま市」の笠沙(かささ)町にある「杜氏の里笠沙」の「一(いっ)どん」という焼酎だ。これまで聞いたこともない名で、贈り主によると、まず注文しそして抽選の結果手に入るのだという。薩摩弁の「どん」は軽い敬意を表す接尾語で「~さん」を意味する呼称だ。西郷さんは「せごどん」という具合いだ。豪快なラベルには初代黒瀬杜氏片平一(はじめ)の愛称をそのまま名付けたとある。

  

 「黒瀬杜氏」は明治30年代から昭和中期にかけて、鹿児島県南部で活躍した焼酎造りの職人たちだ。その呼び名は発祥地である鹿児島県南さつま市笠沙町の地名である「黒瀬」に由来する。黒瀬杜氏が誕生したのは、焼酎が自家製だった時代が幕を閉じ、急速に産業化が進んだ時代。鹿児島には100社を超える焼酎蔵元がある。若き焼酎職人の中には、これまで焼酎業界を牽引してきた黒瀬杜氏に教えを請う人もいる。

 市町村合併で「南さつま市」と「南九州市」が誕生した。このことによって若くして県外に出た私のようなものには、合理化され抽象化された名称からは、悲しいことにその土地の自然の景色を思い浮かべることができなくなっている。加世田市、笠沙町、大浦町、坊津町、金峰町が合併して「南さつま市」となったと説明されてやっと、日本海に面した吹上浜や、野間半島の野間岳や、坊津町の海水浴場などの風景が浮かぶのだ。

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*安曇野への旅

2024年10月24日 | 捨て猫の独り言

 旅行社のキャッチコピー「北アルプスがそびえる信州が誇る景勝地~安曇野・穂高温泉郷で寛ぐさわやかステイ3連泊4日間」につられて旅に出た。宿泊ホテルは安曇野市穂高有明の「ガーデンあずみ野」とある。出発は新宿12:00発の「あずさ21」号で松本に14:35着、そこから迎えのバス70分でホテル到着である。

 松本城や上高地を訪れたことはあった。上高地を流れるのは梓川だ。狩人の曲の「あずさ2号」を思い出す。しらべてみた。「あす私は旅に出ます あなたの知らないひとと二人で いつかあなたと行くはずだった 春まだ浅い信濃地へ」そして「8時ちょうどのあずさ2号で 私は私はあなたから旅立ちます」がくりかえされる。

 2005年に、豊科町、穂高町、堀金村、三郷村、明科町が合併して広域名称である安曇野が市名に採用された。振り仮名を「あづみの」「あずみの」のいずれにするかは合併協議会において議論がなされ「あづみの」が採用されたという。なるほどガイドマップはほとんど「あづみの」だ。この旅はあらかじめの計画はなく、ひたすら安曇野のふところに飛び込んでいったようなものだった。

 

 宿は安曇野市の西側の有明山の麓の、日当たりのよいリンゴづくりが盛んな場所にあった。旅の2日めは、その宿の周辺の散策で終わる。「穂高郷土資料館」とんがり帽子の時計台の「鐘の鳴る丘集会所」「松尾寺」から、平地部に流れる水路に沿って山麓線と呼ばれる幹線道路を横切り斜面を下る。そこのリンゴ畑にはたくさんの落ちたリンゴが放置されていた。3日めの「ちひろ美術館」は見学が終わる頃小雨が降りだした。ちひろは20歳で不幸な結婚をして、二度と結婚はするまいと心に決めたことがあった、そのことを今回の旅で知った。

  

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*歎異抄読解

2024年10月21日 | 捨て猫の独り言

 ちくま新書「無宗教からの歎異抄読解」を読んだ。著者の阿満利麿(あまとしまろ)は1939年に京都の西本願寺の末寺に生まれた宗教学者である。これまでの歎異抄関連の中では、もっとも親しみやすい本だった。これからは日本各地の墓所で目にする「南無阿弥陀仏」や「俱会一処」の文字が、これまでとは違った印象で私に迫ってくるだろう。

 まず著者のつぎの表明に共感を覚えた。「歎異抄を読んでゆく際に、どこまでが日常的なものの考え方感じ方で十分に理解できるのか、どこから、あるいはどのような理由で常識とは異なる宗教的論理を受け入れなければならないのかをはっきりさせることだろう。いってみれば常識から宗教への飛躍のポイントを明らかにすることが必要になってくる。本書の力量が試される点でもある」

 道徳の尊重は善悪をわきまえた、しっかりした自己の確立を前提とする。それに比べると、宗教は自己の危うさや自己の矛盾から出発する。道徳に敗れ道徳で立ち行かなくなったところから宗教ははじまる。法然の仏教を受け入れるうえで立ちはだかる壁は、まず第一に自分が「凡夫」だという認識をどこまで認めることができるか。第二はなぜ阿弥陀仏の誓いが絶対的な救済の道となるのかを、心底から納得できるかどうかという点にあろう。

 子どもは「お母さん」というだけで母を実感できる。言葉には存在を呼び起こす機能がある。阿弥陀仏とは無数の人々が願い続けてきた人類の願いの結晶であり、そのシンボルなのである。本願念仏は自らの救済を願う心から出発する。人は自らの成仏を求めて阿弥陀仏の名を称するのである。凡夫成仏という事業を完成するためには、凡夫にわが名を称するという行為を実践してもらわねばならない。「我にまかせよ。かならずあなたを救う」

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*戦間期と現在④

2024年10月15日 | 捨て猫の独り言

 つぎは9月24日の朝日新聞から。早稲田大学の篠原初枝教授が国際連盟の教訓について語る。「ロシアのウクライナ侵攻が始まった時、私はすぐに満州事変を思い浮かべた。国際連盟は何とか妥協へ導こうとするが、連盟へのコミットを捨て満州を選んだ日本の決意の前には無力だった。結局国際組織というのは加盟国がその目的を理解してどれだけコミットできるかにかかっている。近年の安全保障理事会は機能不全で、建て直しは難しいだろう。しかし国際連盟の失敗を繰り返すべきでない。ロシアや中国、米国といった大国が国際連合を抜けるような事態は防ぐべきだろう。異なる考えを持った国が組織の中にいることは重要だ」

 東京大学の遠藤乾教授は今の情勢と戦間期の類似点と相違点を語る。「類似点①現状変更を求める勢力の武力による実力行使②民主主義国が自滅・自壊し自由から逃走してゆく③国際社会のブロック化が広がる。相違点①超大国アメリカの民主主義が傷つき右傾化が見られる(戦間期の大国イギリスは極右化には至らなかった)②ブロック化にしても、中国の経済力は並外れており封じ込めの対象とならない(戦間期には日本に石油や鉄の輸出規制・禁輸したABCD包囲網があった)そして輝かしい歴史を持つ穏健保守が、票欲しさに極右におもねる動きが顕著になるなど、政治が不安定になっている」

 米国の政治学者ハル・ブランズ氏はアジアで戦争が起きれば米中が互いに対抗し大惨事になる。この悪夢のようなシナリオを避けるには我々はどう対応すべきかについて語る。「中国が経済停滞の時代に入り、攻撃的な状況を乗り切るには〈決意〉と〈自制〉の両方が必要だ。決意とは、侵略には非常に厳しい制裁を加え、迅速に行動し、台湾進攻や海上封鎖は成功しないと説得することだ。同時に米国や他の国々が中国の政権を転覆させたり、台湾独立を支援したり、限界を迎えつつある中国が直面する課題を利用したりしないという、一定の保証を中国に与えなければならない」

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*新首相誕生

2024年10月10日 | 捨て猫の独り言

 石破新首相に関する、二者のコメントを記録しておきたいと思う。まず保守の立場から様々な事象を論じる佐伯啓思氏の10月2日の「異論のススメ」より。『今回の総裁選は安倍派内部の不適切な政治資金処理からはじまり、やがて「政治とカネ」および「派閥」という自民党の体質が問われ、党改革や政治改革がひとつの論点となった。その意味では、従来の派閥に属さずに自民党のなかで「異端」の立場にあった石破氏の当選もこの流れに乗ったものだろう。石破氏が知られるようになったのは、1993年に政治改革法案に賛同して、自民党を離党したあたりからである。中略。しかし政治の中心的な場所で「改革」が叫ばれて30年というのはいささか異常であろう。

 他方で、今回の自民党総裁選では、当初、多くの候補者が「保守」という言葉を使った。確かに「自民党とは何か」と問えば、まずは「保守政党」である。では「保守とは何か」と問えばどうか。答えは決して容易ではない。しかも、平成に入って以降、「改革」の旗振り役が自民党であったとなれば、果たして自民党にとって保守とは何なのだろう。中略。もしも自民党が「保守政党」たらんとするなら、なすべきは、今日の急激な「変化」のさなかにあって、この打ち寄せる荒波から「守るべきものは何か」と問うことでなければならない』

 つぎは、編集委員の高橋純子氏の10月5日の「多事奏論」より。『「軍事オタク」タカ派として存在感は示していたけれど、あくまでサブ&変人キャラ。それが、世の中および、自民党がぐっと右ブレするなかでいつしか「穏健保守」くらいの位置づけとなり「一強」の安倍氏と距離をおいて野にあり続けたからこそ、5回目の挑戦で今回、自民党総裁=首相の座を射止めた。推薦人20人のうち13人が「裏金議員」だった高市早苗氏が、党員票で1位になったことにはうなった。そして高市氏の敗戦の弁、「今日が安倍総理の国葬儀から2年目の日だ。いいご報告ができなかったことを申し訳なく思っている」にはうめいた。

 新首相としてやるべきは、「自由」「真実」「公平公正」「謙虚」をないがしろにし、政治の荒廃をもたらした安倍政治との真の意味での決別だ。その初手として、裏金問題で処分された議員は次の選挙で公認しない。当初は前向きな姿を見せていたからこそのイシバシガマシだったのに、早をくも腰抜けぶりを露呈させている。予算委員会を開いてから解散総選挙という従来の言も翻し、それで「納得と共感内閣」だなんて・・・寝言?イシバシガダマシ。野花を摘んで花瓶に挿したら即しおれてしまいましたとさ。さあいやがおうでも総選挙だ。主権者こそこの国のあるじ。ゆめゆめ忘れることなかれ』

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*ポストシーズン

2024年10月07日 | 捨て猫の独り言

 巨人軍の長嶋茂雄選手が17年間の選手生活に別れを告げたのは1974年だから、ちょうど50年前のことになる。その頃に、長嶋氏があの甲高い声でレギュラーシーズンとかポストシーズンとか話すのを聞いた。それが今でも耳に残っている。大リーグのことだなと気づいたが、その詳細は知る由もなかった。

 そのうち衛星放送が始まり、日本からも大リーグで活躍する選手が数多く出て、日本の野球ファンにもMLBが身近になってゆく。このところのOHTANIの活躍でそれはピークに達した感がある。今後このような選手が出てくるとは想像できないほどだ。彼の夢が叶いポストシーズンに臨むことになり、その影響を受けて私も学習し、ポストシーズンの仕組みを明確に知ることになった。

 まずレギュラーシーズンについて、MLBとNPBとの違いを見てみる。球団数は30と12、アメリカンリーグ(東中西・各5)とナショナルリーグ(東中西・各5)、セリーグ(6)とパリーグ(6)、試合数は162試合と143試合、延長戦は前者は10回から無死2塁からのタイブレーク制(2023年から恒久化)、後者は12回までに決着つかない場合は引き分けとなる。

 ポストシーズンの組み合わせは強いチームには特権を与えるシード制だ。まず地区優勝したチームから勝率によって第1~3のシードが決まる。つぎに地区優勝チーム以外(ワイルドカード)から勝率によって第4~6のシードが決まる。まずシード1位と2位を除いた4チームによるワイルドカードシリーズは3試合制、ここで2チームが敗退し残り4チ―ムによる地区シリーズは5試合制(3勝)、そのつぎのリーグチャンピオンシリーズは7試合制(4勝)、そして最後のワールドシリーズも7試合制(4勝)となる。ドジャースの監督が、地区優勝後にあと11試合を勝ちにゆこうといったのは、3+4+4のことだった。

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*気がかりなこと

2024年10月03日 | 捨て猫の独り言

 体を張って辺野古新基建設に反対している目取真俊さんのブログ「海鳴りの島から」が、8月22日を最後に更新されずにいる。中断がこのように一カ月以上になることはこれまで無かったことだ。体調を崩されたのではないか。あり得ないことだが警察権力の何らかの介入があったのか。海外旅行中か、それとも作家としての創作活動に没頭しているのか。

 何の情報も得られないので不安は増すばかりだ。8月22日以降で目取真俊さんに関することとしては、9月3日に「銃撃によって安倍首相が亡くなってから2年。安倍氏はいま、どのように人々の記憶に刻まれ、その存在はどう位置づけられているのか。安倍氏の記憶の現在地を考える」というテーマのインタビュー記事を読んだきりである。

 その紙面では、他にノンフィクション作家の梯(かけはし)久美子さん、政治学者の具裕珍(クユジン)さんが答えている。目取真俊さんにインタビューしたのは高橋純子・編集委員だ。「安倍晋三氏の記憶?とくにありませんね。あれほど権勢をふるい、沖縄にむち打った人でも、亡くなれば忘れ去られる。それが政治のリアルでしょう。憲政史上最も長く首相を務めたとはいえ、安倍氏は役者としては凡庸だったということでは。賞賛する側も批判する側も、過大評価の印象が拭えません」と努めて冷静に答えている。

 「ただ、第1次安倍政権下の2007年3月、高校生が使う日本史教科書の検定で、沖縄戦の集団自決が軒並み修正を求められました。日本軍に強いられた という趣旨の記述に対して、文部科学省が 軍が命令したかどうか明らかとは言えない と待ったをかけたのです。これは沖縄県民の記憶に対する一種の暴力です。ではなぜそのような記憶の書き換えが必要だったのか?《軍隊は住民を守らない》沖縄戦が残した教訓を無化するためでしょう」目取真俊さんは安倍の記憶を沖縄の記憶に巧妙にすり替えたようだ。ブログ再開の日が一日でも早いことを願っています。

 

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