玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*そろばん塾

2019年06月24日 | 捨て猫の独り言

 新聞コラムは女子サッカーのアメリカ代表チームの中軸のアレックス・モーガンを取り上げていた。その前置きの中につぎのような部分があった。アメリカの人気スポーツと言えばフットボール、バスケットボール、野球が御三家だが4割近い人気を保つアメフットに対しかつてトップだった野球は過去最低の1割未満という。代わって人気急上昇なのがサッカーと続く。MLBが大谷選手の人気に頼るのも無理からぬことのようだ。(小平市あじさい公園)

 

 いまだ通学しない孫娘二人を抱えて、「そろばん塾」を開いた。私の本棚に「おじいちゃんの塾」尾崎護著(文芸春秋)というのがある。二人の男の子の孫に論語を教えたいと始めたもので、手製のテキストなどを収録してある。その尾崎氏に習ってそろばん初心者である私が「そろばん塾」を開いた。アマゾンで取り寄せたテキストは成美堂出版の「いちばんわかりやすい・そろばん入門」だ。すべての漢字にフリガナが打ってあるので助かる。(小平市にある公立昭和病院にて)

 幸いにも家には大、中、小3個のそろばんがあった。大きなものは私の子どもたち、つまり塾生の母親が学校の授業などで使っていたもの、中くらいのものは一番しっかりしていて、かなり高価と思われるもの。これは塾生の曽祖父つまり私の父が、終戦後に銀行に勤務していた時に使っていたものだ。小さなものはプラスチック製のもので玉が動きやすいのが欠点だ。これは塾生の祖母が家計簿をつけていた時代に使っていた。

 3人がテキストを囲んでテーブルに着く。テキストの漢字交じりの日本語を交代で声に出して読んでもらう。読み方は話し方よりもたどたどしい。そろばんの部分の名前、定位点(点)、1だま、5だま、けた、はり、わくを覚える。私はreed、a crossbeam、frameなどを調べる。正しい姿勢で、左手はかるくそろばんをおさえ、中指・薬指・小指で鉛筆を軽くにぎる。いつでも鉛筆を握って玉を置かせようと思う。Starting afresh・・・

 

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*登校拒否?

2019年06月20日 | 捨て猫の独り言

 ラジオの健康番組で、サツマイモ、ゴボウ、オオムギなどの植物繊維の多いものを便秘のときに摂取してはダメという注意があった。便が固くなっているときに、さらに繊維で固めるので状況は悪化に向かうという。イモはお通じが良くなると思いこんではいけないのだ。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という警句を思い出した。

 アトランタからやってきた下の孫娘が6年生として小学校に通うことを嫌がっていることがはっきりした。これまで5年間は毎年二カ月は通い続けていた。今年から姉は家にいて、一人で通わなければならない。高学年になるにつれて授業内容が分からない。そんなときは英語の読み物を読んでやり過ごしていた。休み時間には姉と二人で過ごすことができた。

 子供に選択させたら安易な方を選ぶに決まっている。母親に説得を任せたが、それは不可能だった。もう学校の方にはお願いしてあるんだよというと、自分が謝るからと答える。6月16日の日本到着の翌日に市役所で手続きをすませて母親と二人で学校に出かけた。そこで出された結論は、7月1日から終業式までの三週間だけ、しかも給食後は早退ということになったようだ。

 昨年もお世話になった担任の先生から、6月末の2泊3日の林間学校に行きませんかとお誘いがあった。クラスのみんなも楽しみにしていると言われて、参加か不参加は翌日に電話で返事するということで帰ってきた。結局参加しないことになったが、翌日の放課後に母親と二人で担任の先生に会い、本人は小声で「ごめんね!」と言ったという。 

 

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*鉛筆画

2019年06月17日 | 玉川上水の四季

 5月4日の午後に短時間のうちに降った激しい雹は庭木にかなりの打撃を与えている。松の葉が一部枯れて、その枯れた葉を摘み取る作業が続いている。これまでに経験したことのない事態だ。せっかく萌え出た金木犀の苗木の葉が傷んだ。柿もよく見ると半分ちぎれたままの葉が多い。親指の先ほどの青い小さな柿の実が毎日のように落下している。

 先日の朝8時過ぎ、平櫛田中館のあたり玉川上水の右岸にある野草観察ゾーンで鈴木さんの姿を見かけた。まずは大きなイーゼルが目に入り、こちらは五日市街道を自転車で下流に向かっていた。すれ違いざまイーゼルの向こうに鈴木さんの姿を見た。写生に集中している鈴木さんには通行人などは眼中にない。私は時間が決められていたので、すれちがいざま声もかけずにそのまま目的地に向かった。

 

 正午前に用をすませて戻ると、鈴木さんは 同じ場所で写生を続けていた。陽射しも弱く写生に適した日だった。鈴木さんの後姿を撮影したりして写生のようすを拝見する。色鉛筆でたんねんに描いているのはノカンゾウだった。一区切ついたころを見計らい背後から声をかけた。話し込むといつも30分ほどは作業が中断してしまうのが常である。(タチアオイとムラサキシキブ)

 

 安定した椅子にどっかり腰をおろし、右足を左足の上にのせて鈴木さんは話し始めた。朝早く下見し朝食をすませて7時半に来てみるともう花が開いていたという。一枚の絵の中に蕾から花開き枯れるまでを描きたいのだという。しっかり観察することを具体的に熱心に説明する。明日は陽射しが強いからクヌギの樹液に集まるヒカゲチョウなどの観察だという。私は孫娘の日本での滞在期間などをお知らせした。 

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*佐喜眞美術館

2019年06月10日 | 捨て猫の独り言

 ほとんどの子どもは雨降りが大きらいだろう。梅雨が本格化して長雨が続いている。色とりどりのアジサイが生き生きと咲き誇っている。天からの恵みの雨だ。日照りが続いたら耐えられない。宇宙船地球号の大気圏内における水の循環を思い浮かべて神妙な気もちになる。まもなく16日には、孫娘とその母親の三人がアトランタから成田に到着する。

 6月9日の毎日新聞(その他は東京・琉球新報・沖縄タイムス)の朝刊に、意見広告が掲載された。「沖縄の民意を力で押さえつける安倍政権。安倍政権を退陣に追い込み、日本政府が沖縄の自己決定権を奪い植民地扱いしてきた差別政策を終わりにし、この国の民主主義と住民自治を取り戻す時」などを主張している。また、この日は国分寺の労政会館で「沖縄・佐喜眞美術館館長の佐喜眞道夫 講演会」が開かれた。

 自宅から会場までは自転車で30分もかからない。今にも降り出しそうな空模様の中を出かけた。沖縄の宜野湾市にある普天間基地に隣接して佐喜眞美術館は1994年に開館した。佐喜眞氏が粘り強く交渉して先祖代々の土地の一部を返還させたのである。そこだけ美術館が基地に食い込んだ形になっている。「原爆の図」の丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」が常設展示されている。私は少人数の高校生を引率して1999、2000、2005年の3回この美術館を訪れた。

 席に着いてすぐに、補聴器がこの会場の音響設備では役立たないことが判明した。津田塾大学の講座で大丈夫だったが設備環境によるということだ。印刷物を頼りに辛抱するしかなかった。また、あごひげ束ね髪の青年が沖縄戦における米軍の艦砲射撃がテーマという沖縄口の歌を三線で朗詠した。これはよく聞こえた。いつもながら、ネット検索でいろいろ知ることになる。佐喜眞氏は疎開先の熊本で1946年に生まれ、立正大学を卒業して鍼灸師をしていた頃に埼玉県東松山市の丸木夫妻と出会う。

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*気づき

2019年06月06日 | 捨て猫の独り言

 玉川上水の緑道では何度もコゲラを見たことがある。コゲラは「市の鳥」になっている。先日、庭の梅に飛来してアブラムシをひとなめふたなめして、すぐに飛び去った。ここは緑道から100mも離れていないからコゲラが飛来しても不思議はない。しかし家の庭で目撃したのは初めてだ。これまで気付かなかっただけのことだろうか。

 庭でヒヨドリ、ムクドリ、シジュウカラ、スズメ、メジロ、キジバトなどはよく見かける。ところが、最近コゲラに続いてオナガを初めて庭で目撃した。これまで気付いてなかっただけなのか。小鳥たちを室内から見るのと、屋外で見るのとはどこか気分が違うものだ。また5月中旬には、ふと思いついて庭のハクチョウゲとウメモドキの花を初めて拡大鏡で観察した。ともに5mm前後の小さな花である。(白丁花と梅擬)

  

 偶発的に始めた「カラマーゾフの兄弟」を時間をかけて、読み返す作業をひとまず終了した。この小説の冒頭の「著者より」という一文の存在を、今回あらためて気付いた。それによると、この小説は構想された全体の前半部分であり、後半部分はしばらく間をおいて書き継がれると予告されている。しかし作家はこの翌年に生涯を終えている。それでもなお一つの完結した作品として私たちを圧倒し続けている。

 かつて聖書をパラパラとめくってみたが、なんと退屈な読み物かと途中で投げ出した経験がある。その聖書の代わりにカラマーゾフの兄弟を手元に置くのもいいかもしれないと考えた。それに歎異抄が加わればロシア正教と親鸞の二刀流だ。残念だが、私の場合は信仰(信心)というレベルにほど遠いという自覚だけは確実にある。その後、作田啓一と桶谷秀昭のカラマーゾフの兄弟に関する評論を読んで作品の理解がすこし深まった気がした。

 

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*津田梅子

2019年06月03日 | 捨て猫の独り言

 木曜日の津田塾の公開講座を2週連続して聴講した。この日は学長の高橋裕子氏の「大海をわたった、津田梅子のあゆみ」である。1871年(明治4)12月、日本初の女子留学生の5人のうち最年少7歳の津田梅子は欧米視察の「岩倉使節団」と共に横浜を出港する。サンフランシスコからシカゴを経由してワシントン近郊のランマン夫妻に預けられたのは日本をたって70日後だった。

 「家庭生活」を学ぶという目的で選ばれた5人が維新政府に敗北した側の出であることは興味深い。5人のうち年長の2名はすぐに帰国する。残る3名の山川捨松(のちに大山捨松)と永井繁子(のちに瓜生繁子)と津田梅子は成長して11年後に帰国する。津田梅子はランマン夫妻のたった一人の子供としてだいじに育てられた。そのあと3名は生涯にわたる付き合いが続き、梅子の女子英学塾の開校に協力することになる。

 さて帰国した梅子は逆カルチャーショックに見舞われる。日本語を失っていた梅子は母と話ができず、父とは英語で話した。1889年に再度アメリカのブリンマー大学に留学して生物学を専攻する。在学中から、自分のあとに続く日本女性のための奨学金制度を設立し、のちに25名がこの制度を利用した。そのうちの一人である星野愛は津田塾大学の初代学長となる。再度の留学から帰国して華族女学校などで教鞭をとるかたわら、ついに1900年女子英学塾を創設する。このように梅子らの留学は、家庭生活を学ぶという当初の目的をはるかに超えたものだった。(津田塾大学のキャラボクと松)

 

 1984年に校舎の屋根裏部屋で古いトランクに入った大量の文書が発見された。梅子直筆のブライアン・ランマン宛の私信である。これは当時の日本とアメリカを知る貴重な資料として、五千円札に梅子の肖像が採用された時と同じぐらい大きな話題になったという。卒業生で作家の大庭みな子の「津田梅子」はこの資料をもとに書かれた。山川捨松については横浜港から旅立つとき、母が「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたという。大山巌陸軍大将夫人で、「鹿鳴館の花」と呼ばれた捨松は大河ドラマの主人公になってもおかしくない人物だ。 

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