玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

27:68~20:80へ

2012年11月30日 | ねったぼのつぶやき

 修復しつつも28本揃っていた自前の奥歯一本を抜き27本になった。咬みあわせに一番負担が懸る歯のぐらつきに気付いて以来数年よくもった。歯科検診の度にもう少しとモタセテ来たが、痛みを発するようになって来ていた。私は学齢期の頃から良く歯医者に通い、そのせいで「自分は生来歯が弱い」と決め込んでいる所があった。病院勤務が長く、院内の歯科にかかった際そう言い訳した所言下に歯科衛生士が否定した。「要はケアの問題で、これからの方が肝腎ですヨ」と。私はその瞬間ハッとしたのを鮮明に覚えている。以来衛生士の指導を請い、時間をかけて丁寧に口腔ケアをするようになって20年が過ぎた。

003  いつもの様に衛生士が歯をチェックし、手鏡を渡してココが不十分だから歯ブラシをこの角度にするとよく届く筈と示す。その衛生士に懸って以来新たな虫歯は発生していないが、加齢のせいで歯茎が下がり治療済みの歯茎周辺は一層の手入れが必要になっている。歯科医に変わりいよいよ抜歯。麻酔が効くと、ガリガリと歯肉と歯を離す音がし割と簡単に抜けた。歯根部の清掃を受け、ガーゼを噛んだまま30分置いた。奥歯だから放置でよく隣りへの影響は出ないらしい。たった一本抜いた丈なのに、その欠落感は大きくベロは常にそこをまさぐる。

 我家には私の長らくの不在中に電動歯ブラシが用意されていた。かって電池式を試してみたのだが、私の好みには合わなかった。充電式のそれは、常に机の一角で発光しているのだが、私の手は通常の歯ブラシに向かう。その方が心ゆくまで磨けるし、なんたって満足感が桁違いなのだ。(写真はネリネウンズラータ)

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*沖縄への旅(三)

2012年11月29日 | 沖縄のこと

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 民宿に2泊したがどこも1泊2食で五千円である。温水シャワーで汗を流す。浴槽にお湯が張られていることはまずない。衣服の着脱の場所が見当たらず各自で工夫する必要がある。食事は皆が満足で、こんな安い料金でいいのかと思わず口にする人もいた。旅行中に昼食に飛び込んだどの食堂でも気前のいい盛り付けには感心する。このように感じてしまう原因は東京の物価がいかに高いかの裏返しだろう。

 伊江島の民宿「さんご荘」に宿泊予約した時に「できれば親父さんの三線を聴きたい」と要望した。その願いが叶い「今夜は近くに住んでいる親父が夕食時に駆けつける」と半袖半ズボン姿の日焼けした青年が教えてくれた。食堂に集まる前に私以外の3人が「謝礼あるべし」と言いだした。各自が千円ずつ出して急遽皺を伸ばした封筒に納めた。あの時お渡ししておいて良かったと思う。三線を弾いたのは親父さんだけではなかった。

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 ジーンズ姿の若い女性が隣りで三線を構えている。NHKテレビの「ごきげん歌謡笑劇団」に登場する、さすらいの歌姫・瀬口侑希といった風情である。あの晩あの女性がなぜそこに現れたのか今でも不思議な気分にさせられる。食堂には他の男性宿泊客2人が居合わせていた。配られた歌詞カードには6曲が印刷されている。沖縄古謡の「安里屋ユンタ」とわらべ歌「てぃんさぐぬの花」の2曲の他によく知られている「涙そうそう」「島人ぬ宝」などである。

 「安里屋ユンタ」の「マタハーリヌツィンダラカヌシャマヨ」は「また逢いましょう、美しき人よ」という説が有力だ。「てぃんさぐぬ花」とはホウセンカのことで一番の歌詞の意味は「ホウセンカの花は爪先に染めなさい、親の言うことは心に染めなさい」だ。最後にカチャーシーが始まる。女性が踊り始めて誘われるように男達も踊り始めた。その様子が動画に撮られていて部屋に戻って見せられたが赤面するばかりだった。私のカチャーシーはやたら腰を振りすぎて品がない。本人が楽しければそれでいいと慰められた。沖縄ではほぼ一年を通して中高校生のホームスティが行われてる。それを最初に始めたのは伊江島だという。 

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*沖縄への旅(二)

2012年11月27日 | 沖縄のこと

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 旅の初日の夜にホテル一階のホールで観た琉球舞踊は私たちを厳粛な気分にさせた。30分という短い時間だったが舞台では録音の楽曲に合わせて一人での女踊りが入れ替わり立ち替わり続いた。はるか昔に中国皇帝の使者の歓待の宴において踊られていた踊りなのかもしれないなどと勝手に想像してみたりした。優雅な手の動きがとても印象的だった。演技が一通り終わると簡単なカチャーシーの指導があった。沖縄の人たちが宴の締めくくりとして全員で踊るのがカチャーシーである。あっさりとさりげない指導に好感がもてた。

 私の手もとに「あわごんしゅぎ」という84ページの写真集がある。今回同行の3人にぜひ目を通して欲しくて持参した。生涯を平和運動にささげ「沖縄のガンジー」と呼ばれたのが阿波根昌鴻氏である。写真集は阿波根氏が101歳で生涯を閉じた2002年に出版された。限定販売1000部の自費出版をしたのは大西忠保氏である。10年ほど前に私が担任をした男子生徒の父親が大西氏である。沖縄本島の本部(もとぶ)港からフェリーで30分のところに伊江島がある。伊江島は沖縄の縮図ともいわれ、地上戦を体験し、戦後は土地を奪われ米軍基地が建設された。阿波根氏は伊江島の人々と共に非暴力の抵抗運動を続け、1984年には共に働き学び合う場として「わびあいの里」を開設した。

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 2日目はまず普天間基地の代替施設に予定されている辺野古を訪ねた。現在では辺野古移設反対、県外移設が沖縄の主張になっている。名護市の辺野古には米軍海兵隊の基地であるキャンプシュワブがある。国道329号より西側内陸部には訓練地区があり、東側海岸部にはキャンプ地区がある。道に迷って大浦湾に出ると、対岸が予定地の辺野古崎だという。逆戻りしてなんとか辺野古川河口の浜にたどり着いた。立ち入り禁止を示す海中まで突き出たコンクリートの土台と金網はまだ新しい。金網には県外移設、オスプレイ配備撤回などと染め抜かれた布が貼り付けられていた。伊江島行きのフェリーの出発まで時間があったので今帰仁(なきじん)城跡を訪ねることができた。今帰仁城跡をはじめとして1月から2月にかけて咲く本部町の寒緋桜は全国に紹介されることが多い。

 伊江島行きのフェリーは中学生でにぎわっていた。聞くと兵庫県宝塚市から来た中学3年の男女約150人の一行である。これから伊江島で4、5人のグループに分かれて2泊のホームステイが始まる。長年続いている学校行事だという。民宿「さんご 荘」は海水浴場の「伊江ビーチ」と「わびあいの里」がすぐ近くにあった。わびあいの里の施設内の「ヌチドゥタカラの家・反戦平和資料館」を訪れると人の気配が全くない。照明のスイッチは見学者が押して入るようにと貼り紙があった。阿波根さんが収集した多くの記録、資料の一部が展示されている。見学が終わって言葉もない。阿波根さん亡きあとは訪れる人も少なくなったのであろう。宿に上がる前に周囲が22㎞の島を一周することにした。平坦な島に一つポツンとそびえる172mの城山(ぐすくやま)の周囲をぐるりと回った。

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*沖縄への旅(一)

2012年11月23日 | 沖縄のこと

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 もとの職場の同僚4人との沖縄の旅は羽田空港でのスリリングな状況で幕開けした。私をのぞく3人は安価な「当日シルバー割引券」を利用した経験がない。私がパソコンで予約状況を確認すると当初の予定の便は満席状態である。そこで3時間遅れの便に変更し、集合時間は2時間遅れにした。そのことを出発前日に連絡し、あわせて空港に到着したらただちに各自が11:00の便の航空券を購入するようにお願いした。その便が取れない人が出た場合は先発組は那覇空港で後発組を待つしかない。当日は最後の4人目が受付でうながされて千円増しの券を購入して通路中央のベンチに腰掛けた瞬間に掲示板の空席状況の欄に×印が点灯するのを目撃したという。

 5泊6日の旅行中の週間天気予報はあまりよくなかった。また個人的には5月に手術した眼に変調が起きて多少の不安を抱えていた。しかし4人が揃ったこの機会を逃すわけにはいかない。まず一緒の飛行機に乗り込むことができてこの旅がうまくいきそうな予感である。空港近くのレンタカーの営業所まで迎えのバスで移動して、これから5日間の移動を共にする車に乗り込んだ。カーナビは頼りになる。ときどき迷走することがあったがそのほとんどの原因はこちらの入力のミスだ。まずは読谷村の座喜味城(ぐすく)跡を目指した。沖縄戦でアメリカ軍が上陸したのが北谷(ちゃたん)、嘉手納、読谷(よみたん)である。これらの地域のすぐ北にあるのが断崖絶壁の残波岬だ。日本軍はこの岬の座喜味城跡に高射砲陣地を置いた。

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 沖縄本島の西海岸を南北に貫く国道58号線を北上する途中に嘉手納基地がある。嘉手納飛行場の滑走路は東西に伸びていて軍用機は西の東シナ海から侵入して着陸する。離陸する方向は東の太平洋側となる。58号からは小さく盛り上がり芝生で覆われたジェット燃料格納庫が見える。嘉手納基地を南北に分断して東の「うるま市」に抜ける道路の北側には、58号からは離れた内陸部に嘉手納弾薬庫がある。この東西の道路の途中に「安保の見える丘」がありそこでは頻繁に繰り返される軍用機の離発着を見学できる。飛行機は土日は飛ばないという。私たちは4日目にここを訪れることになる。旅の初日はフェンスで囲われた基地を横目に58号を北に向かい読谷を目指した。

 読谷村歴史民俗資料館は閉館の時間を過ぎていて見学出来なかったが、座喜味城跡を見学し初日の残波岬のホテルには明るいうちに到着した。東京とくらべて沖縄は日の出日の入りが1時間遅れである。初日だけは贅沢に高層のリゾートホテルに宿泊することにしていた。大浴場でゆっくり湯ぶねにつかれるのはこの日だけだ。一泊二食付き四人一室のプランである。ホテルの13階のレストランで夕食をすませた後は、1階のホールで琉球舞踊を見学できるという。ホテルの売店で泡盛を一割引で購入する。残波クース(古酒)43度、瑞泉熟成古酒40度、舞富名43度の720mlを3本である。踊りに感銘を受けて部屋に戻ると泡盛をオンザロックでいただく。この4人が共に旅することになったのは奇跡的なことだ。つい二月前まではだれも考えていなかった。まず残波43度からいただくことにしたが、泡盛がこれほど旨いとは知らなかったと4人は口を揃えた。(写真上は座喜味城跡、下は残波岬灯台を望む) 

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千余点の陶板名画美術館

2012年11月18日 | ねったぼのつぶやき

 あれからひと月が経過した。私はグループ旅行で予備知識もなく鳴門海峡近くにある「大塚国際美術館」に入り圧倒(?)されたのだった。それは大塚製薬会社近くの鳴門海峡の白砂から始まっていた。近場にふんだんにある白砂を何とか生かせないかと、大塚グループは研究を始め試行錯誤を繰り返した。陶器会社を興し、先ずは小さなタイルとし、更に大きな陶板作りを成功させた。加えて特殊な技術や2000色を開発して、彩色を施しても退色・劣化しない陶板とした。その集大成として、世界の名画1000余点集めた美術館を平成10年に開館させたのだった。

027 抜粋によれば、「陶板名画美術館」は、大塚グループが創立75周年記念事業として徳島県鳴門市に設立し、日本 最大級の常設展示スペースを有している。館内には、6名の選定委員によ って厳選された古代壁画から、世界25ヶ国、190余の美術館が所蔵する現代絵画まで至宝の西洋名画1,000余点を、大塚オーミ陶業株式会社の特殊技術によって、オリジナル作品と同寸大の複製とした。原画と寸分違わぬそれらを事前に体験した上で、各国の原画に接すれば真に美術的価値が味わえるだろうとしています。

 限られた時間の中で、あり余る名画を見て回る内私はスッカリ疲れてしまった。どの部屋にもある世界の名画が、原寸大で私に迫って・・・来た。元来オリジナル作品は経年による退色・劣化や災害禍を免れ得ない。確かに陶板名画は約2,000年以上もそのままの色と姿で残り、文化財の記録保存には大いに貢献出来るだろう。しかし私の疲れは、テンコモリの名画の食傷・・・に相違なかった。

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Flat Stanley's Journal

2012年11月14日 | アトランタ便り

 過日アトランタの娘とSkypeした際あるお願いをされた。この種の依頼は2度目である。長女の学校の宿題のようなもので、そのまま近日中封書にして航空便で送るから、同封されているフォーマットに従って必要事項を記入し、なるべく早く学校宛返送してほしいというものだった。

002 数日後航空便が届いた。いずれも学校から持ち帰った英語で書かれた依頼文と、返信用のフォーマットと孫が描いたStnleyのカードが入っていた。内容は「私達は地図や地球について学んでいます。程なく地形や天候についても学びます。又Staleyの物語も読んでいます。彼はパンケーキのように薄く、手紙やメールでどこへでも行けます。休暇中の彼が遊びに行きますので、一緒に沢山遊び、彼が書く日記を手伝い、学校に送り返して下さい。そうすれば彼が貴方の国で何を見たか、したか知ることができます」とあった。

 フォーマットの方には、記入者の名前・月日・場所・送信者名を明記した上で、Stanleyの滞在中の気候とその他の季節について、地域の特色、地域の地形(山・川・台地)等々。その他面白い行事やイヴェントなど書いて下さいとあった。何せ届くまでに時間を要したので、夜読んで朝一番に返信した。局では行先を見て、サンデイ(ハリケーン)の影響で時間がかかるかもと言われた。昨年は「祖父母の日」のイヴェントで別種の依頼を受け、幼稚園宛に返送したのだが、それは壁に貼ってあったらしい。遠来の地に住む孫達ゆえ日常的に構ってやれない。その分少々困難なお願いでも、今後とも出来ることは目一杯やってやろうと思っている。

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*立冬の頃

2012年11月12日 | 玉川上水の四季

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 オープンギャラリーの掲示板に鈴木さんによる速報が出た。「玉川上水・野鳥情報=ソウシチョウの群れが来ています」とあり、鳥の姿の3枚の写真と「ヒマラヤ、ビルマ、ベトナムに分布し、古くから中国や日本で飼育されて1980年ごろ、飼い鳥が野生化したと言われている。玉川上水に姿を見せたのは2004年です」という簡単な説明文が添えてある。これまで私には全く馴染みのない鳥だった。スズメほどの大きさの鳥だという。

 私は立冬のミニ観察会を最初の鈴木さんの挨拶を聴いて、そのあとの散策を都合により取り止めた。この日はソウシチョウの群れ、キチジョウソウ、キヅタを目指して下流に向かって歩くという。残念な思いで皆さんを送り出した。今年は発行されていないが、昨年一年間作成され続けた節気ごとのパンフレットはかなりの力作だったと今にして思う。今でもそれを愛読している。昨年の立冬の「呼びかけの詩」には「ヤツデ、チャノキ、アオジ、シメ、ツグミ、コゲラ、ツタ」が登場していた。

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 今年は「キヅタ 黄緑色の花が咲いた グリーンロードを歩こうよ キチジョウソウ満開だ コゲラ マユミの実に来たね シメ ムクの実に来たよ イカルと出会ったか ツグミ もう来るね 歩こうよ ゆっくり歩こうよ」とある。鈴木さんは去年の詩をそのまま使用することはしていない。東側展示は「初冬に舞う蝶と蛾、成虫で越冬する蝶、フユシャクの不思議」でルリタテハ、アカタテハ、ヒメアカタテハ、キタテハ、キタキチョウ、ウラギンシジミ、フユシャク(蛾)の写真が3段に展示されて並ぶ。目立たない位置の右端の最下段の「シロオビフユシャクの交尾」には圧倒される。

 フユシャクの雌は翅が退化して飛ぶことができない。雄に位置を知らせるための手段としてフェロモンを使うという。ソウシチョウと声に出して言えば、なにかせつなく懐かしい響きがする。調べてみると、つがいのオスとメスを分けてしまうとお互いに鳴き交わしをするため相思鳥の名がついたという。キヅタはウコギ科の蔓性の植物でブドウ科のツタとは異なり冬でも葉が枯れないため冬蔦との別名があるという。「相思鳥」「木蔦」も漢字だとすぐ覚えることができる。今週末は沖縄旅行に出かける。那覇市における二晩の食事の店は、安里にある栄町市場近くの「うりずん」と泊小学校近くの「糸ぐるま」と決めた。下見なしの机上の計画に対して現実はどう展開して、どんなことが起きるか楽しみだ。(写真は昭和記念公園にて)

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何年耐えられるだろう

2012年11月08日 | ねったぼのつぶやき

 春・秋は検診の時期である。ウッカリがないよう市報やMy手帳を確認する。一般検診は過日終えたのだが、結果報告はいつにするかと医師が問う。インフルエンザの予防注射もする必要があり、同日にと希望したのだが、なんだかよく分からない説明をされ、別の日が設定された。効率を旨とする私の意向に反し、医院の都合が先行したようで少々不快だった。

032  そして昨日は胃・大腸癌(検便)検診を終えた。「天井を向いたまま柵をつかまって体を2回転して・・」「腰を少し引いて体を斜めにして・・」「頭を低くしますからシッカリ柵に捕まって・・」「大きく息を吸って・吐いてそこで止めて・・」と、検診車の中に設えられた狭い透視(斜面)台の上で、暗くて分厚い防護壁とガラスの向こうから指示されるままに、私は傾く体を支えながら必死に従う。150ccのバリウムを飲むのも下手でグイグイとはいかない。それに今日のⅩ線技師は、上体を倒す時間と角度が強く、柵を握る手に力が要った。胃・大腸・肺・乳・子宮等ガン検診は欠かさないのだが、果してこの胃透視はあと何年耐えられるだろう。遠からず胃カメラの検討も必要になるのだろうか。

 先日は高校の同期会に参加した。経過報告では決まって1~2名から闘病報告がなされる。というより、幹事さんが張本人に報告を強いるのだが、その話になるとざわめいていた皆も等しく真剣に聞く。~あたかも人ごとではないといった風に~。一通り皆の報告が終わると、参集出来ていることを喜び合って再度乾杯する。再びざわめいた後、最後には次回の変わらぬ参加を願いながら賑わう街を駅に急いだ。(写真は中心がずれてしまった鳴門海峡の渦潮)

 

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*身辺雑事

2012年11月05日 | 捨て猫の独り言

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 人の暮らしは常ならず。久しくやっていなかったことを始めた。この夏の終わりごろから夕方になると走り始めたのだ。汗をかきたくて1.5㎞をハイピッチで走っていたが、アドバイスもあって今は3.0㎞をスロージョギングにしている。近くの公園の1周600メートルを4分のペースだから20分かかる。そのせいだろう体重が3kgほど減少した。ここのところ体重測定と血圧測定がにわかブームになっている。

 津田塾大学の公開講座で「清潔はビョーキだ」「腸内革命」「子どもをアレルギーから守る本」などの著書をもつ藤田紘一郎氏の講演を聴く機会があった。免疫力の70%は腸内細菌が作り、のこりの30%は「こころ」が作ると主張する。笑うことや楽しいことをイメージすると免疫力は増す。「病は気から」は科学的に実証されている。五木寛之などは風呂で石鹸を使わないから肌はツヤツヤ、髪はフサフサしている。年をとったら石鹸での洗顔はせめて1日置きでよい。

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 指紋のない男とはなにやらサスペンスめくが、ほんとうに指紋が消えたのではないかと思うことがある。指先がのっぺりテカテカ光っている。とくに右手人差し指の摩耗が激しい。まだ秋というのにその指がぱっくり割れをして絆創膏を使った。これから冬を迎え、水仕事などにより寒さで血行不良になり肌は荒れるばかりになる。ビニール手袋を買った。格安の198円で製造元は兵庫県姫路市にある会社だ。

 自転車のタイヤがパンクしたという。先日パンパンに空気を入れたばかりだ。まずタイヤの表面を素手で一回り点検して画鋲などの金属片が刺さっていないことを確認する。虫ゴム6本組を買った。格安の48円で製造元は新潟県三条市にある会社だ。説明書きに英式バルブのノーマルタイプ用だという。さては自転車発祥の地はイギリスだったのかと思う。パンクではなく虫ゴムの消耗が原因であった。慌てず処理して得意だった。(写真は昭和記念公園の日本庭園にて)

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”塩麹”に惚れ込み過ぎた

2012年11月03日 | ねったぼのつぶやき

 塩麹という調味料が今年クローズアップされたのは、一体なにがキッカケだったのだろう。少なくとも我家に登場したのは、夫がさるご家庭で酒の肴に振る舞われた「アボガドの塩麹和え」が美味だった・・に始まっている。シンプルなレシピゆえ早速試し、直に我家の定番ともなった。以来何かと塩麹が目につき、レシピ通りに作ったり、用法を変えて試してみたりの途上にある。発酵食品の活用が日本食の良さと言われて久しい。塩麹は生粋の発酵食品なのだから正に万能調味料と言われる訳だ。

029 「豆腐の塩麹漬」はくり返し作っている。普通の綿豆腐を厚手の布巾で一晩包み水気を切った後、まんべんなく薄く塩麹を塗りジッパーに入れておくだけ。3日目位から食べられ、日を置くほどにチーズ風味が増す。一週間前後で食べきった方が良さそうだ。もし麹が多すぎて塩分が強かったら、白和えにすればいい。「イカのげそく」の麹漬も美味しい。1~2番漬け込んで直火で焼くだけ。こちらも塩分が強すぎたら、大根などと煮つけたら更に美味しい。

 出来合いの塩麹は結構高い。ある日スーパーで手作りセットを見つけ勇んで求め、熟成させるのに少々時間はかかった。その内年一回の定例健康診断の日を迎えた。 ”血圧がちょっと高めですよ” と警告を受けた。エッ!初警告である。むしろ低めの方で無防備だった。その日以来塩分を少々抑えながら毎朝血圧測定をし、数値も戻っている。今後も適度の塩麹を使いながら、内服と縁のない生活を続けたいと念願している。

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