玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*旅の名残り

2009年08月31日 | 捨て猫の独り言

 この夏の旅が終り、テレビの天気予報で表示されている日本地図が新鮮な気分で見えるようになりました。とくに北海道を中心とした地域です。樺太があれほど近く北海道に覆いかぶさって見えます。小樽から新潟までのフェリーのルートをいつの間にか目でなぞっています。天気予報そっちのけで、あれが奥尻島で小さな飛島や粟島は省略されているなといった具合です。

 「教科書にでてくる俳句の解釈」 という本が図書館にありました。芭蕉の 「象潟や雨に西施がねぶの花」 について見てみました。「雨の象潟では、まるで雨で憂え沈んでいる中国の美人西施のまつげのような、ねぶの花が可憐に咲いているよの意」 とありました。ネムノ花からまつげを連想することは自然なことかもしれません。

 ホテルは全てネットで予約して出かけました。旅行後に 「お客様の声」 という欄に投稿を促すメールが届きます。今回それにいくつか応じてみました。しばらくしてネットを覗いてみると自分の投稿とホテル側の返信がセットで掲載されていました。小さい宿だとお互いの顔が浮かぶ文面になります。中には辛口の文面も散見されましたが当然ながらそのまま掲載しているようです。ネットによって時代が大きく変化していることを感じます。

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 松本の女鳥羽川沿いに江戸風情のなわて通りという商店街があります。その中の店の一つでおもしろい木彫りの民芸品を見つけました。店の主人は 「泣きガエル」 だよと教えてくれました。つげの木かなにかで彫った黒光りするカエルです。口に通している棒で背中をなでるとけろけろとよく鳴くのです。その中の小さめのものを買いました。我が家にはカエルを見るとさむいぼのできる人がいますので、私はこれを遠くアメリカに暮らす小さな孫たちに贈ることを考えています。

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*松本一泊旅行

2009年08月28日 | 捨て猫の独り言

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 青春18切符が2日分残っていました。切符の効用は2つあるようです。旅に駆りたてる。より遠くに向かわせる。松本の美ヶ原温泉に1泊して松本市内見学だけでなく、黒部ダムまで足を延ばすことにしました。黒部ダムには大糸線の信濃大町で下車し、路線バスで40分ほどかけて扇沢まで行き、そこから関電トンネルトロリーバスに乗り換えて15分ほどで到着します。ダム建設の物資輸送のために信濃大町から掘り始めたトンネル工事が破砕帯にぶつかり、出水による難工事になったのは広く知られています。トロリーバスで往復する際にトンネル内では80mも続く破砕帯の現場を通過します。ダムは昭和38年に完成しました。

 黒部ダム見学を終えて松本駅前のバスターミナルビルで夕食をとっていると大学生らしき細身の男2人が入ってきてざるそばを注文しました。食べ放題でお願いしますという声に私は耳をそばだてました。食堂のメニューにも何処にも食べ放題の文字は見当たりません。平静を装いつつ2人はよく喋りよく食べました。1人は鼻声にさえなりながら。さすがに蕎麦どころです。さて美ヶ原温泉は駅から25分の郊外にあります。温泉名が美ヶ原になったのは昭和30年代に入ってからでそれ以前は束の間の湯とか白糸の湯とか山の辺の湯とか呼ばれていました。湯けむりが立つわけでもなく硫黄の臭いがするわけでもないアルカリ性単純温泉の古くからのどちらかと言うと地味な温泉郷です。

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 折口信夫の歌碑の所在を宿の主人に聞きましたが要領を得ません。なにやら最近こちらに来たばかりと釈明してました。調べてもらうと 「すぎもと」 という旅館の中庭に釈超空(折口信夫)の歌碑があることが分かり、明朝見せてもらえるように電話しておいたとのことでした。翌日の早朝私は勝手に玄関の鍵を開けていつも通り散歩に出かけました。薬師堂を見つけ石段を登ります。途中に山門があり薄暗い格子の中に奇妙なものを発見しました。巨大な男性のシンボルが3つ4つ鎮座してます。チエックアウトの時に 「金宇館」 にも何やらあるらしいから見せてもらうように電話で頼んでおいたと親切です。その近くに姫薬師もあるといいます。

 古い温泉街の中の旅館 「すぎもと」 にお邪魔してびっくりです。私が泊まった宿と格が違いました。そこで 「いにしえの つかのまの出で湯 ひなさびて 麦生にまじる 連翹の花」 の歌碑を見ることができました。つぎにお邪魔した 「金宇館」 も格式ある旅館です。そこのご主人が 「本でも出版するのですか」 と尋ねるので私は仰天しました。伝言ゲームで話がとんでもない方にそれることがあります。あれだなと思いました。この旅館には折口の礼状のはがき 「くずのはな ふみしだかれて いろあたらし この山道を ゆきし人あり」 ともう一首大きな額に折口の自筆の歌が保管されていました。それらが私のためにテーブルの上に並べられていました。

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 もう一方の姫薬師も当然お参りしました。毎年9月の第4土曜日つまり今年は9月26日に道祖神まつりが行われます。木彫りの男性シンボルのお神輿が姫薬師に輿入れするという奇祭です。折口は柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた国文学、国学の研究者です。この奇祭を見逃したはずはないだろうと考えました。私は4度目の松本訪問でやっと松本城公園を訪れることになりました。しかし天守閣には登らずにお堀の近くのベンチから松本城の全景をしばらく眺めていました。そして公園のほぼ入口のあたりに大きなネムノキが3本あることに気付きました。どうもこの夏はネムノキの存在に過剰に反応してしまうようです。

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今楽しまず何時楽しむ

2009年08月26日 | ねったぼのつぶやき

 去年に引き続き今年もお誘いをいただいた。船旅を共にした知人の別邸への招待である。3ケ月半に及ぶ船旅に寄せる思いは其々であったろうが、逃げ場のない海の上の生活を共にした仲間として運命共同体的に吸い寄せられるものがあり、又行動可能な残された時間をより楽しみたい思いも共通するのだった。

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 15~6年前に購入したそのセカンドハウスは、常時住まいではないせいでアチコチに少々の傷みが生じ、「皆で力を合わせて修復しよう」という体のいい大義名分を掲げて参集したのだった。招待者の暫しの滞在中に自己都合に合わせた数人が出入りを繰り返し、総勢10人近くでとりかかった。大工道具のある者は持ち寄り足りない資材は買い足して、男共は外仕事、女達は家事作業と賑わった。内数人はツーリングを繰り返しているのだが、今回もツーリング用自転車の持ち込みだった。

 夜毎飲み会になるのだが、更に驚かされたのは”キャンピングカーによる40日間アメリカ横断旅行”を9月に実行するという話だった。リーダー曰く「リーダーとしては今回がおそらく最初にして最後。”平均年齢68才だよ” 成功したら勿論次の計画もあるけど、僕としては真剣勝負なんだ」と。メンバーは7人。何よりコミュニケーションが大事と彼は語っていた。旅の途中でメールする余裕はあるのだろうか。可能だとしたら、その時期丁度ノースカロライナにいる私も是非受信したいと思う。

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*北への旅③

2009年08月22日 | 捨て猫の独り言

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 礼文の岸壁で不思議な光景を目撃しました。人目をひくほどに気持ちが高揚した若者集団がいて、岸壁で出迎えと見送りの儀式が盛大に行われています。ところが出迎え時と見送り時の顔ぶれが異なるのです。私は出港した船の中で、岸壁の見送りに呼応していた男女数人に聞きました。それによると礼文には港と反対側に桃岩荘という夏だけの宿があってそこで知り合った者同士が順次出迎えと見送りを繰り返すのだそうです。桃岩荘という場所では何かの作用によりこの不思議な連鎖に誰でも例外なく巻き込まれるのだそうです。これは奄美の与論島などでも見られる現象だと相棒は言います。

 稚内駅から路線バスで宗谷岬までは往復2430円で片道50分かかります。北緯45度の日本最北端の岬です。トロントやミラノとほぼ同じ緯度です。ここで夕暮れ前の2時間をのんびり過ごしました。稚内市民もわざわざ岬まで食べに出かけるというラーメン店があるという情報を得ていました。。それを目指してバスを降りるとすぐに岬と反対側の宗谷丘陵の高台に登りました。そこは宗谷岬公園として整備されていて、この日はたまたま芝刈り後のすがすがしい草の香りがあたり一面に立ち込めていました。その高台の見晴らし一番の場所に 「元祖帆立ラーメン間宮堂」 はありました。店のカウンター越しにオホーツク海を眺めながら食べた塩味の帆立ラーメンを忘れることはできません。海に突き出た突端には日本最北端の碑が立ち写真撮影の順番待ちの列ができます。また近づくとセンサーにより 「宗谷岬」 が流れる歌碑もあります。ダ・カーポでなく千葉紘子による歌唱の 「宗谷岬」 が繰り返し流れていました。

 小樽駅すぐの 「灯りの湯・ドーミーイン小樽」 に5時にチェックインして汗を流したあと、黄昏の小樽運河の散策です。運河近くでは人力車も行き交い、中国からの観光客も目立ち、賑わっていました。翌朝5時には目覚めて人影少ない運河を再び散歩したのでした。小樽で相棒と別れ午前10時半の新日本海フェリーに乗船しました。20時間かけて翌日の午前6時に新潟港に到着です。この夏は初めて大阪~別府、宮崎~大阪、小樽~新潟の長距離フェリーを立て続けに経験することになりました。全長200mの 「らいらっく」 号の航海では2時間後に左に積丹岬、6時間後に右に奥尻島を確認することができました。ロビーでは現在の船の位置が刻々表示されます。本日の日没18:41、明日の日出04:55の掲示もありました。

 新潟港から新潟駅への交通手段の事前調査を怠っていました。駅へ行くためのバス停までかなりの距離があるのは想定外でした。早朝に港から歩き始めたのはたしか男3人しかいません。そのうちの一人、ボストンバッグと紙袋の関西弁の30代半ばの男性と道連れになりおおいに助かりました。彼は船中の地図で港から駅までを確認したといい、歩きながらの状況判断や決断力に優れていました。彼がいなければ私は道に迷っていたでしょう。結局バスに乗らず40分ほど歩き通しました。別れ際に彼が札幌競馬から新潟競馬への移動中であることを知りました。新潟を早い列車で出たので、つぎの長岡で90分の時間ができました。長岡駅前の大手通りを歩くと米百俵の碑があり、駅構内には良寛像があります。案内所で目にした 「山本五十六の覚悟」 という記念展のビラにある 「此身滅すべし 此志奪ふ可からず」 という文字には心が動きました。(完)

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夏は薬味が欠かせない

2009年08月20日 | ねったぼのつぶやき

 春先には元気だった小ネギやパセリが肝腎の夏には消滅した。シソの葉は虫食い状態だが次々新しい葉が生えるから間に合う。 その代りでもないが、この所茗荷がモコモコと芽吹き花迄咲き出し私を慌てさせる。少しで間に合う脇役が一斉に芽を出しても困るのだ。”少しづつにしてよ”。かって大事にしすぎて花が咲ききってダメにした。買うとなれば結構な値段なのだ。

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 お裾分けしても薬味の事とて知れている。そこで母亡き今はPCに聞く。レシピを参照しながらアレコレ挑戦してみる。一般的なのは、ヤッパリ薬味の本領を発揮させる手法で野菜もみやご飯に混込んだりが多い。天ぷらは美味しい。田楽もあり?。レパートリーを増やすチャンス到来だ。

 甘酢漬けや粕漬けをした。酢に漬け込むときれいなピンクになるが、らっきょうの様な歯ごたえはない。残ったら味噌漬けにしよう。水気が多いと味噌がゆるむから先に薄塩で水を出そう。変化の乏しい日々、目先の工夫は楽しくはあるが、ビールが美味しくなって嬉しくもあり悩ましい。用心!用心! 海の向こうの友人が昨年植えたら収穫できたと狂喜していた。コッソリの持ち帰りも不要になった・・・と。

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*北への旅②

2009年08月18日 | 捨て猫の独り言

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 それぞれ東京と大阪を出発した2人は8日の夜に札幌駅近くの 「東横イン」 で合流しました。私の相棒の旅の信条は胃袋でその土地を感受するというものです。目標の一つは太陽のもとでジンギスカンを心ゆくまで食すことでした。陽はとっくに沈んでいましたが、札幌駅から大通公園をこえてススキノまで歩き、ジンギスカンの食べかつ飲み放題の店に飛び込みました。薄暗い灯りと狭い空間のもとでしたが、たらふく食べられたことで満足でした。

 普通列車で稚内に到達するには10時間37分かかります。札幌を6:02に出て、やむなく旭川で2時間の途中下車をして、稚内には16:39に到着です。旭川では駅前大通りをやみくもに直進し、相棒はラーメンを私は寿し弁当を求めて別行動です。旅するラーメン党は他にも見かけました。列車の出発時間の関係で11時では無理で10時半開店を捜すのに必死です。ラーメン店 「蜂屋」 で望みを果たした相棒の感想は 「うまかった!」 ではなく 「食べた!」 でした。

 「天北の湯・ドーミーイン稚内」 に2泊しました。稚内駅と港のすぐ近くです。新しい建物で最上階の露天風呂が自慢のホテルです。裸で風に吹かれて空を見上げ、さいはての街の夜景を見おろしていました。ホテル近くの居酒屋のカウンターには若くない母娘が忙しく立ち働き、壁には持ち帰りたくなるような利尻富士のポスターカレンダーが貼られています。明日についてカウンターの意見を受け入れ、午前は礼文・利尻の島を訪ね、午後はバスで宗谷岬と決めました。当初は礼文島内をめぐり、その結果宗谷岬は断念するつもりでした。

 新造船が多いハートランドフェリーは6:20に稚内を出港し、2時間で礼文に入港します。私達は100分後に別船で利尻に向かい、そこで新たな客が乗り込むと直ちに離岸して12:40に稚内に帰港しました。礼文の100分間は町役場への一方的表敬訪問やウニ専門店でバフンウニの加工現場を覗くことぐらいしかできません。利尻山はアイヌ語で 「リイ・シリ(高い山)」 です。海から標高1721mまで一気につきあげているので島全体が利尻山です。この日はいつまでもかすんで見えていましたが、言葉通り 「海上に浮かぶ富士」 の景観を堪能することができました。

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*北への旅①

2009年08月17日 | 捨て猫の独り言

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 東京からでき得る限り青春18切符で北海道の稚内を目指しました。その前に山形県の鶴岡です。鶴岡に行こうと考えたのは、いずれも今は亡き先輩教師や作家藤沢周平の故郷であると聞いていたからでした。国分寺から武蔵野線で武蔵浦和に出て、埼京線で大宮に、そして高崎からは上越線に乗り信越本線の長岡を経て新津からは羽越本線となります。上越線、信越本線、羽越本線の位置関係をほぼ理解できました。

 羽越本線はいつしか車窓から日本海が見え始め列車はいつまでも海岸線をひた走ります。あいにくのどんよりした曇り空です。日本海の日没は素晴らしいと誰かが紹介していたことを思い出しました。荘厳でさえあるとも。お天気ならばどのあたりに陽は沈むのか乗り合わせた高校生の男女に聞きました。あの粟島の右あたりと教えてくれました。旅に出る前には日本海の日没のことは考えていませんでしたが、思い出したせいでこの日の曇り空を恨めしく思い始めました。

 鶴岡駅前の 「ワシントンホテル」 で5時近くに目覚め、ホテルの朝食前に人通りの少ない市街地を2時間ほど散策しました。大浴場がないホテルはバイキングの朝食が付き、大浴場のあるホテルは朝食は別料金というのが相場のようです。午前中はバスで片道30分の湯田川温泉に行きそこで75分ほど過ごしました。藤沢周平は山形師範学校を卒業後昭和24年から2年間湯田川中学で国語と社会の先生でした。そして26歳の時に結核のため東京の武蔵村山の療養所に入ります。温泉往復のバスの窓からネムノ木の花が見えます。私が今年からしっかりと認識できるようになった花です。東京ではすでに散ってしまったネムノ花がここでは今が盛りです。

 空路北海道入りするためまず鶴岡から秋田に向かいました。酒田で1時間弱の乗り継ぎ時間があったのでさっそく駅周辺の散策です。こんな時間を持てるのが青春18切符の特徴です。さらに途中の象潟ではホームの案内板に芭蕉の 「象潟や雨に西施がねぶの花」 の句が見えました。ネムノキは夕方になると葉と葉をあわせて閉じ睡眠運動をします。このため日本語では眠(ねむ)または眠(ねぶ)の木といい、漢語では合歓といいその連想がもっと色っぽくなります。西施は中国古代の美女。西施が風邪などひいてうつむいた様子などは一段と見栄えがします。芭蕉が象潟で見た合歓の花も雨にぬれてうつむいていました。白に淡く紅をふくんだ花は薄命の美女を思わせるのでしょうか。この句の種々の解釈をどなたかご教授いただきたいものです。

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この所なんだか不気味

2009年08月13日 | ねったぼのつぶやき

 連日ゆらゆらガタガタみしみしと不気味に揺らいでいる。寛いでいる夕刻や、まどろんでいる早朝、食後の一服時に。一瞬身を固め心身を集中させ、次なる行動を思案しつつ収束を待つ。

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 雨や台風は集中豪雨をもたらし、死傷者を含む被災の報は後を絶たない。緩みにゆるんだ地盤を地震が襲う。終戦記念日を迎え、TVでは勝つ筈のない戦争であった事や、日本に落とされた原子爆弾の威力の詳細や、いつ終わるとも知れぬ核実験(地下を含む)の恐怖を重ねて教える。先日映像で体験した(若い頃私自身も体験したが)日蝕中の白昼に迫ってきた薄闇の世界。それやこれを時を移さず体験すると、そんな「奇妙な薄闇の時代」が程なくやっ来やすまいかと不気味になる。オバマ演説に微かな希望を見出しはしても理念の域を出るのは難しい。良識が勝つとは言えないことは隣の国を見れば明らかだ。

 そんな折、ヤット彼の地とビデオ通信が復活した。久しぶりに対面した姉妹は確かな成長を見せ、こちらの手拍子を食い入るように見つめて笑顔を返す。何にも増して無垢な幼子の笑顔は萎えそうな大人に元気をくれる。それだけは奪ってはならない。

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*再び旅に出る

2009年08月11日 | 捨て猫の独り言

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 2週間南の方に出かけたのち4日休養し、今度は北の方へ1週間出かけることにしました。私にしてはかなりの強行軍です。どうしてこうまでも永く続く旅の身なのか自分でも分かりません。もののはずみという他ないでしょう。しかしこの程度で永いなんていうと先人に笑われますね。今年は雨の日が多い夏でした。さて青春18切符を使ったのんびり旅は思いのほかなかなか出費が多いのです。

 青春18切符の旅では、ある土地に2泊するとおぼろげながらもその土地のことを感受できる気がします。今回2泊する土地は北海道の中では初めて訪れる稚内です。これまで3回の北海道のバス旅行はいずれも北海道東部地域でした。今回はバスでなく普通列車の旅です。稚内2泊ですから利尻・礼文島にフェリーで渡ることになるでしょう。

 どのようなルートで北海道にたどり着くべきか悩みました。初日の宿泊地は山形県庄内平野にある鶴岡にしました。翌日の午前中は鶴岡から30分ほどにあるという湯田川温泉を往復します。藤沢周平ゆかりの土地だといいます。私の計画は手探りの机上の計画ですからつぼを外していることが多いかもしれません。これはこれで先行き不安を楽しむという楽しみ方だと自らを慰めています。午後は秋田に移動し秋田空港から千歳空港へと空路北海道入りします。

 夜遅く札幌駅近くのビジネスホテルでフェリーで北海道入りした友人と合流します。ここからは二人旅となります。彼が望んでいることはただただ土地の名物料理をたらふく喰らうことです。私の望みはただただかけ流しの温泉に入ることです。稚内からの帰りは札幌を通り越して小樽に宿をとりました。小樽から新潟行きのフェリーが出ています。20時間近く日本海を航海します。当初は空路で千歳から羽田へ帰ることを考えていましたが変更しました。この変更がよかったということになるかどうか、フェリーからどんな景色を見ることになるのか楽しみです。先にフェリーで北海道入りした友人が帰りもフェリーにするかどうかは不明です。

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自家製ソーメン流し祭

2009年08月08日 | ねったぼのつぶやき

 「ソーメン流しにいらっしゃいませんか」とお誘いを受けた。ご招待主はマンション住まい。ベランダでとある。どんな風に流れるソーメン? 綿あめを作る機械のように、卓上で回転する器の中にソーメンを放り込みながら食べるのだろうか? だとしたらベランダではムリだし?

Soumennagashi

 ベランダに見たのは本式。「青竹半割・ソーメン通過穴明け・傾斜水流式・自家製ソーメン流し台」であった。先ずはリビィングで乾杯しアレやコレやの御馳走を頂いた後、総勢がソーメン流し台前に陣取った。眺望が気に入り一発で購入を決めたマンションだけあって、眼下にこの所の雨天で増水した一級河川や、霞を帯びた山並みや街並みが臨め開放的だった。そしてイヨイヨ本番のソーメン流しが始まった。

 その騒がしさったら。「穴に詰まった。詰まったら押し込め。イヤ戻した方がほぐれる。押してもダメなら引いてミナ。もっと流して。途切れんように流せ。ここは貯まりやすい。水の勢いが足らん。もっと傾斜をつけた方が良い」等々ワイワイガヤガヤ。まるで子供帰りした大人が製作者の苦労も顧みず好き勝手を言う。 ”自ら竹狩りに出かけ切り出し、エレベーターに入り切れず高層階まで担ぎ上げ作製したのだと言う。” 美味しかった。楽しかった。子供心に返してくれてありがとう。

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