玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*いつか夕日を

2010年12月27日 | 捨て猫の独り言

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 冬至のミニ観察会で「ロゼット」について知った。冬の雑草によく見かけるのだが、地上には茎がなく葉が放射状に地中から直接出ている状態の葉をロゼット葉というらしい。オープンギャラリーの展示の方は冬の日の「日の出」の風景写真だった。多摩湖、小平の大ケヤキ、国分寺崖線(はけ)の3か所から撮影したものだ。寒さに震えながら見る日の出前の空の色はいいですよと鈴木さんは皆をけしかける。鈴木さんは夕日には関心ないのか、そのうち尋ねてみよう思う。

 今年の年末年始はどこにも旅に出ることなく過ごす予定だ。そのように過ごしていたある日、古い本を開いていたら聖徳太子の一万円札が一枚出てきた。かつて万札を本の間に仕舞い込む癖があった。現在の福澤諭吉の一万円札より大きいサイズである。私は思いがけなくささやかなボーナスを手にすることになった。また「おやじのせなか」と題した、気象エッセイスト倉嶋厚さん(85歳)へのインタビュー記事を発見して再読する機会ができた。今年1月に切り抜いていたものだ。読んだ直後は、いつか日本海の夕日を見に佐渡島への旅に出ようと考えたのを覚えている。それはいまだに実現されていない。私が切り抜いていたのはつぎの記事である。

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 《私は15歳~17歳のころ、神経症にかかりました。学校の軍事教練や期末試験、数年後に迫る軍の入隊など様々な不安にさいなまれていました。すると父が「紙を一枚持っておいで」と言ったのです。鉛筆で1本縦の線を引き、「お前は心配事を横に並べておびえているだろう。縦一列に並べられないか」。差し迫ったものから順に並べろと。「こうすると当面の敵は一人だ。どうしても優先順位がつかない時は、お前か社会が病気の時だ」》

 《父には諦観が漂っていました。「戦え」と言わず「逃げる時は逃げろ」と。神経が弱くて病弱な私が生きていくにはどういう術があるか、教えようとしたのかもしれません。ある日、西の山にちょうど夕日が沈んで、ぱあっと真っ赤な光がこちらを照らしたんですね。「厚、死んだら向こうに世界があると思うか?」と父が聞きました。死だけは体験を他人に伝えられません。永遠の謎です。父は「おれが死んだら全力をあげてお前に通信する」と。50年たちますが、これが一向に通信がきません。でも、今も心配事を縦に並べている時、ふと「もしやこれは通信が届いたからかも」と思います》

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宴席での禁煙は酷か?

2010年12月23日 | ねったぼのつぶやき

 忘年会のシーズンも終わろうとしている。当然のこととはいえ、近年世の中の風潮は分・禁煙に傾きつつあり喜ばしい。かつては宴会を終え帰宅し、脱衣時服に浸み込んだ煙草の臭いは強烈であった。酒の席でガマンを強いられたのは煙草だけではなかったけれど・・。

Japan_fest_007 過日私の職場でも忘年会が催された。3階にある中華料理店の会場は筒形になっており、円卓3個に22~3名が座った。螺旋階段を運ばれてビールが整う迄時間を要し、その間にプ~ンと煙草の匂いが漂った。万事大雑把な私だがその匂いには極めて敏感に反応する。職場でも、会議でも禁煙がルールになっており、思わず「煙草はイヤだ」と私は言った。会場の作りで顔の見えない御仁が「じゃ~俺帰るわ!」という。次に出たセリフが「灰皿が出てるもん」であった。周りの喫煙者(結果的に皆同調していた?)がどう計らってくれたか見えなかったが険悪な空気にはならなかった。会の責任者は沈黙を通していた。

 私の煙草嫌いは徹底している。分煙してない喫茶店やレストランには入れない。表示のない店では必ず確認する。「分煙してますか?」と聞くと喫煙者と間違えて「大丈夫です」という返事が返ってきたりする。客商売の店では大きな問題だろうが、私も 次年から灰皿の確認もせねばなるまいか? ガマンや曖昧さが美徳とされる文化はこれからは長続きはしないだろう。

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*家庭内怪我

2010年12月20日 | 捨て猫の独り言

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 あ~あ、こんなこと始めなければよかったと思うことが起きた。しかし覆水盆に返らず、落花枝に返らず、破鏡再び照らさずだ。なのにいつまでも未練がましい自分が情けない。つい先日のことである。岩塩ブロックを菜っ切り包丁で削っていた時に左手の親指の腹の方を深くえぐってしまった。出血がなかなか止まらないので近くの医院で手当てを受けることにした。強く圧迫するのが良いそうだ。忠告に従って2日ほど酒を断った。

 怪我のあとネットで岩塩の削り方を調べると、火打石方式、ハンマー方式、おろしがねで削る方式と3通りほどある。事前に調べていたとしても自己流の菜っ切り包丁方式だったろうと思う。固いものを削るから力を入れなければならない。刃物を強く押すことはかなりの危険を伴うという認識が不足していた。ケガは怪我と書く。我が怪しいとケガに至るということか。怪我の初日に親指を使わないでいるとその不便さが骨身に染みた。人体の巧妙な創りに感じ入るのはこんな時しかない。家の中での怪我に気をつけようと思った。

 あ~あ、やっちゃったということで思い出すことがある。自動車での事故だ。思い返せばあの瞬間は、あるもめごとの直後で精神が不安定な状態だった。狭いT字路で右折しようとしてなぜか一時停止も左右確認もせず、うつろな心のままにハンドルを切っていた。そして左側から直進してくる車の後部に接触した。非は明らかに我にありだった。幸いどちらにも怪我はなくて済んだ。だいぶ前に車通勤をしていた時期がある。その頃私は車をあちこちぶつけることがよくあった。車の運転は不向きであることを自覚して最近はほとんど運転することはない。

 指の怪我で「手」について敏感になっているところに、先日の宴席で懐かしくも楽しい話が出た。だいぶ昔の農作業の場面でよく見かけた手に関するある所作についてだ。休憩のお茶の時間になって高菜の漬けものが箸で差し出されたが手は汚れたままである。そこで汚れの少ない手の甲で漬けものを受けて直接口に運ぶ。受け皿なんていらない。手の甲に置いてくれと要求する故郷なまりの言葉に宴席は沸いた。ふだん使うことのない手の甲を活用する合理的精神が小気味いい。その場では、しばらく昔の労働を偲んで手の甲に受けるスタイルで漬けものを頂くことになった。

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「坂の上の雲」続編を見る

2010年12月17日 | ねったぼのつぶやき

 今俳優の香川照之が輝いている。坂本龍馬でも主人公を喰う程の好演ぶりであったし、3年がかりで上演されるTV編「坂の上の雲」でも、正岡子規を演じている。先週は子規逝去が主題であったが、病に伏しながら句作を続ける姿に彼の役者根性・姿勢を見た。死に至る病を演ずるために顔面をやつれさせており、10Kg以上の体重を落とした筈だ。

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 昨年見た映画「劔岳」でも、寡黙で的確な判断をする山岳案内人を演じて好感をもった。なにかの賞をもらった記憶がある。彼自身の出や今の姿勢から判断すれば、日本を代表する役者の一人になるだろう。彼の出演している映画なら見たいと思わせる確かな人だ。

 所で体重のコントロールは難しい。私事になるがこの3ケ月位体重計を仕舞って計測しなかった。と1~2Kg増量していた。その数値は今のところ許容内ではあるけれど・・それ以上は・・・。香川氏は時間をかけ、Cal制限だけでなくかなりのトレーニングをして減量したのだろう。天晴れ!!。 近頃いい若者達がTVの中で騒がしい。そんな折必死の形相で演ずる香川子規を見て益々彼を応援したくなった。

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*二十四節気大雪

2010年12月13日 | 玉川上水の四季

 近くの林では二十四節気の小雪の時期におびただしい落葉が始まり、つぎの大雪になって景色はすっかり冬木立に変わりつつある。林に沿った用水の流れは落ち葉で堰きとめられて、あふれんばかりの水位に達して人々をはらはらさせている。自然の確実な営みは、我が生活の惰性をかえりみる機会となっている。庭では「ひがん花科」のネリネが忽然とその可憐な姿を見せた。今年の開花はいつもより遅い。ネリネは線香花火の連続点滅を思い起こさせる姿形だ。私の見るネリネは薄紫色をしている。

 私の玉川上水散策はこれからもしばらく続くだろう。散策のよき導き手の存在があるからだ。今年は上水沿いで残念な事が起きた。江戸時代この辺り一帯は小川新田と呼ばれていた。それは短冊形に区画された土地である。そのうちの青梅街道と玉川上水に挟まれて最後まで残っていた農地が消えるのである。小平市では竹内家の大ケヤキを知る人は多い。その竹内さんの農地一帯で土地区画整理事業が始まり畑地はいつでも宅地に変わることができるように整備されて電柱が立ち並んだ。モズたちの絶好の生活圏が失われた。

 サタデー講座「玉川上水再発見」の最終回は予期せぬことがあった。公民館で手打ちうどんがふるまわれたのである。今年限りで農業を終える小平の農家を手伝って小麦を収穫した講師がいた。そこで頂いた小麦で生まれたのが今回のうどんだ。つゆは昆布だしでこれも手作りである。私達が散策している間に居残りの講師がうどん打ちをしてくれた。今回の講座を担当した講師たちは、清流復活に取り組んだ「玉川上水を守る会」、野草観察ゾーンの設置を実現した「自生野草を守り育てる会」のそれぞれ中心的人物であり、また私財を投げ打ち玉川上水の四季を紹介するギャラリーを開設した人物などであった。

 これらの個性的な人物達には共通点がある。上水沿いにある小学校の4年生を対象に授業を行うスタッフなのだ。子供のうちから玉川上水の自然に目を向けて欲しいという願いからだという。私がよく知る講師の一人は最後の挨拶で、20名近くいる受講生の中の一人である私を目の片隅に置きながら、活動を一緒にやっていける人がいたら協力をお願いしたいと結んだ。最後は女性の講師から「12月生まれの方は挙手してください」と突然の発言があり、私が思わず手を上げると残ったうどん玉をお土産に頂くことになった。

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太陽の力は素晴らしい

2010年12月11日 | ねったぼのつぶやき

 今春15年ぶりに外壁の塗り替えをやった。その際「奥行き半間横幅2間」のベランダを縁側に沿って設えた。洗濯物を2階のベランダまで運ぶのが面倒だし、布団の上げ下げは危険な年齢にもなった。出来上がってみればそこは’衣だ’けでなく’食’の冬支度に好都合の場所となった。今まで庭で行っていた作業が、天候を気にせずそこで完結するのだ。

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 本当に太陽の力は素晴らしい。保存力を高めしかも得も言われぬ甘味を加えてくれる。今年も芋柄を一杯むいて干した。待ってる友人に上げて昨日また追加した。煮物用に干し大根を吊るした。銀杏も拾ってきては剥いて干す。きのこ類も安く入手出来たら干す。渋柿が手に入らず干柿作りは逃した。魚の干物を作ろうとやっと求めた網は使い勝手が今いち悪い。

 今程物が豊かではない時代、女達は仕事の合間にせっせと衣類や食物の冬支度に精を出していた。祖母の家では味噌や醤油の匂いを嗅いだ。母が布団を作り真綿を引きのばす手伝いをした。障子や襖を張り替えを手伝った。畳を干したり叩いたりした。それに比べると私のやってることはママゴトに過ぎない。しかしそのママゴトは殊のほか私を幸せな心持にしてくれる。ゆっくり冬支度をしていると心穏やかになる。そうだ!今年の紅葉がとりわけ美しかったのは、新しいベランダのせいもあったかもしれない。

 

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*多摩湖自転車道

2010年12月06日 | 捨て猫の独り言

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 公民館講座の市バス使用による多摩湖見学は11月6日だった。残念ながら私は都合によりそれを欠席した。11月28日の午前中の鈴木さんの玉川上水ミニ観察会「フユシャクと紅葉」から帰宅した直後に、午後は自転車で多摩湖に出かけることになった。家人の突然の提案だったが私はバス見学を断念したばかりだったので喜んで応じた。多摩湖あたりは久しく行っていない。以前は年に一度は自転車で出かけていた。以前というのは5~6年前のことである。多摩湖の紅葉もきっと素晴らしいに違いない。

 「秋の夕日に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数ある中に 松をいろどる 楓や蔦は 山のふもとの 裾模様」 は文部省唱歌の紅葉(もみじ)である。この唱歌にある通り「もみじ」は「色づいた葉」のことであった。それが「イロハモミジおよびその近縁のカエデ類の別名」となった。そしてとうとう「イロハモミジはイロハカエデなどとも呼ばれる」となってしまったのである。人が使う言葉だから、人に生き死にがあれば言葉に生き死にがあるのは当然かもしれない。ウィキウィキ(WiKi WiKi)はハワイ語で「速い速い」を意味している。ホノルル国際空港内を走るWiKiWiKiシャトルバスから思いついたものだ。「ペディア」はもともとはギリシャ語のpaidea(教育)の短縮形だという。「ウィキペディア」についてウィキペディアで知ることになった。私の足が多摩湖から遠のいた原因の一つは球場名の命名権ビジネスで西武ドームをインボイスやらグッドウィルなどに短期間であれ変更したことだ。私は西武ライオンズ球団ひいては日本のプロ野球に興味を失うことになった。

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 多摩湖自転車道は以前のままであったが、多摩湖の堤防付近は整備されて見違えるようになっていた。山口貯水池(狭山湖)の堤体強化工事に引き続いて、6年もかけた村山下貯水池(多摩湖)の工事が終了したのが昨年の3月末だと知った。堤防下流には民家が密集しているから万が一にも堤防が決壊したら大惨事となる。工事は1995年の阪神淡路大震災が契機になったという。堤防は盛り土で造られている。以前よりも圧倒的な盛り土で堤防は強化された。かつて堤防の上には戦争中の爆撃から堤体を守るためコンクリートで覆われた耐弾層があった。そしてそこは遊歩道でもあった。工事はその耐弾層を除去することから始まった。私が初めて渡る新しくできた長い遊歩道には随所にベンチも設置されていた。

 湖畔の緑は水道用地として立ち入り禁止になっているので、生き物にとっては安全な環境である。冬には冬鳥の飛来地になりカモなどの楽園になる。2車線の自転車道は水道用地を囲いこむ高いフェンスに沿って作られている。この日初めて多摩湖をぐるり一周してみた。近いうちに隣りにある狭山湖も一周しようと思う。かつて湖畔は中学高校などの遠足やマラソンのコースでもあった。10年にわたる堤体強化工事のために各学校ではコースを他に求めたはずである。工事が終了した現在これらの学校行事は再び湖畔に戻ってくるだろうか。西武鉄道では1951年に貯水池を観光地としてふさわしい名称にするため毎日新聞と提携し改名署名運動を展開している。村山・山口貯水池の最寄り駅はそれぞれ多摩湖・狭山湖駅と改称され、思惑通り多摩湖や狭山湖の呼び名が広く流布することになった。駅名も戦略的に変更される。例えば狭山公園前駅は多摩湖駅になりさらに西武遊園地駅となった。

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