1989 年9月20日発行のTEXTILE FORUM NO.11に掲載した記事を改めて下記します。
私が編集している雑誌『かたち』は、主として現代の工芸を対象としている。工芸といっても、このごろは美術と区別がつかないような純粋造形やコンセプチュアルな作品もたくさんつくられている。それらを敢えて工芸という視点から見ようとするのは、「表現」という行為を、素材や技術や社会的な意味性とのかかわりにおいて見ていきたいと考えているからである。
『かたち』は陶芸や漆芸に対してはことさら口やかましく論評する傾向があるが、ファイバーに対しては比較的おおらかな見方をしている。その理由を考えてみるに、陶芸や漆芸は、特殊な技能集団と特殊な趣味社会によって閉鎖的に伝承されてきた技術と感性の体系があって、ものづくりの自由や主体性の確立のためにはそういった問題との闘いを抜きにしては考えられない、それに対してファイバーの場合は、少なくとも近代以前までは染織行為がおおむねどこの家庭でも主婦の重要な家事のひとつとして、広く庶民生活の中に浸透し、その技術が家庭や村ごとに伝承されてきていたこと、そのことが今日でも繊推素材に対するほとんど無意識的な親近感を、特に女性を中心とした庶民レベルにおいて広く維持してきた、ということがある、つまり、染織の場合はその技術や感性が私たち庶民に対して比較的開かれたかたちで伝承されてきていることが、ものづくりの健全性を保証しているのだ。
もうひとつの理由は、ファイバーは表現素材として美術の領域にもっとも近くに、あるいはかなり本質的なところで美術的表現にかかわっているということがある。ファイバーに関係のあるところで現代美術の記念碑的な仕事としては、キャンバスを切り裂いたフォンタナの「空間概念」シリーズや、クリストの一連のパッキングや「ランニング・フェンス」を思い浮かべる、キャンバスはフォンタナに切り裂かれることによって繊維や布といった物質性をラジカルに露呈し、ファイバーは強引に現代美術の文脈の中にとり込まれていった。クリストの仕事に見る布の使用は、芸術の社会的意味の追求が布の潜在的な可能性を引き出して現実の異化作用を演出した例である。この両者の作例にアバカノヴィッチを加えれば、現代美術におけるファイバー素材の位置づけをほぼ読みとることができるだろう。もちろんファイバー全体の問題としては、現代美術の側面だけでは片手落ちというもので“染め”、”織り”、“編み”などの技術の問題も含めて全体像が捉えられなければいけない。
ただここでは、表現素材としての繊維素材の意味ということに絞って考えてみたい、唐突に聞こえるかもしれないが、繊維素材の特性は「社会的性格」ということにあると思う。このことについて簡単に触れておこう。
「社会的性格」という言葉はとりあえず便宜的に持ち出してきたものだが、人間と繊維素材の歴史的なかかわり、繊維素材が表現素材として発見されてくる過程、それから、どういう場面で繊維素材が生き生きとその存在感を主張しはじめてくるか、といったことを考えてみると、そこに人間の生活空間やあるいは社会的な空間が共通項として浮かびあがってくる。先述のフォンタナやクリストの例を出すと一層わかりやすいだろう。キャンバスがキャンバスであることを超えて、布としての物質的存在感を主張しはじめるのは、フォンタナの「絵画や彫刻を超えた“空間概念”」という新しい芸術表現の提唱のさ中からであったし、クリストが布の存在感と美しさを最大限に引き出してみせたのは社会的な空間とかかわることによってであった。 布、あるいはその基本単位としての糸は、あたかも水のように空間の内部に浸透していき、空間を自由に変様させたり、空間と空間の新しい関係を創り出したりする。いわばファイバーは、空間を活性化したり、また挑発したりすることによって、自分自身の存在を主張するのである。
ファイバーが美術表現の素材として認知されるようになって既に数十年を経ている。しかしそのことが、認知されたファイバー素材への安易な寄りかかりや、自己満足的な表現に閉じ込もる傾向も生み出している。ファイバーは空間を組み変えたり活性化したりするように、人間に対しても挑発的である。ファイバーの特性をそのような関係性の中で捉え、人間と空間の可能性を追求していって欲しい。その時にファイバーという物質もまた生き生きと存在しはじめると思うのである。