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『空気潤む』  榛葉莟子

2017-06-29 09:47:22 | 榛葉莟子
2005年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 37号に掲載した記事を改めて下記します。

『空気潤む』  榛葉莟子


 四角く区切られた土の面から生え出て立ち上がりハコ状に伸びていく蒸気の密集を見た。それは掘り起こされ耕された畑からいっせいに水蒸気が湧き出たように立ち昇る霧の発生現場の光景だった。寒かった朝方から日中の気温が急に高くなったせいで冷たく強ばっていた畑の土の蒸発のはじまりに出くわしたに過ぎないけれども、その光景がなにか世界のはじまりはこんなふうではなかったのかと空想させる束の間の神秘だった。じきに水蒸気は空中に散らばりあたりは霞がかった半透明の膜に覆われていった。この季節は寒暖の差が大きいせいもあり霧がたち込める日が多い。夜、ふと硝子窓の外に眼をやると庭の木立ちは薄い鉛筆画のように遠くにかすんでいて、いつのまにかあたりは霧に包まれている。まるでたった今舞台の幕が上がり半透明の膜の内に何かうごめき物語のはじまりを予感させる気配満点の舞台だ。けれども神秘だ幻想だと甘さを含んだそんなものはたちどころに剥がされる濃霧のまっ只中の経験がある。不安とも恐怖とも言いえない、いてもたってもいられないせっぱつまったような、あの宙ぶらりんの感覚をどう表現できるだろう。たとえば深海に潜った人が天と地が分からなくなる一瞬の経験を聞いたことがあるけれど、全身が定かでない危うく不安定な先の尖ったスリルの緊張の感覚とでも言えようか。

 カッコウ、カッコウと庭先の木立ちのどこかからかっこうの声、いよいよ梅雨の入りかなあと洗濯物を干しながら声の方に耳を聞く。カッコウ、カッコウ、カッケッ、カッケッ、あっ、声がひっくり返った。あれっというふうにかっこうはひと呼吸間をおくと、再びカッコウ、カッコウ、カッケッ…初めて鳴いたかっこうなのだろうしきりに練習している様子が微笑ましくも可笑しい。春先のうぐいすもそうだった。ホーケキョと繰り返ししていたけれど、ひとつホが抜けてなかなかうまくいかないのだ。初めて鳴く若い鳥たちの声は季節季節の巡りを先取りし教えてくれる。そういえば春先、ケーン、ケーンと鳴くきじの声を初めて近くに聞いた時、住まいの周辺にきじがいるという感動とともに、かん高い叫びにも似た響きが何やら切ないように感じられた。ケーン、ケーンと短く叫ぶきじの声はやっばり今年も切ないように響いた。

 響きのリズムや抑揚に言葉を当てはめるのだろうなと思っておもしろかったのは以前タンタタンというようなリズムの鳥の声の響きを聞いた時、連れの人がほらチョットコイ、チョットコイって呼んでるよと言った。知る人ぞ知るの鳴き声だったらしく、たしかに実際口に出してみればピタリ納まるのも可笑しい。それ以来その鳥の声を聞けばチョットコイ、チョットコイと口に出すと鳥と通じあえた気になってくる。その鳥の名前はコジュケイ。夜の神社の木立ちの中で低い声で鳴く鳥がいる。ブッポウソウ、ブッポウソウと鳴いているのさと聞いたが少し無理があるけれど、コノハズクの鳴き声としてこれも知る人ぞ知るらしい。カッコウもホーホケキョもそんなふうに聞こえてくる響きを言葉に当てはめた最初の人がいるわけだ。響きを言葉にするときはこの国ではこの国のあの国ではその国の言葉に当てはめられていく。身近な猫や犬にわとりの鳴き声ですら違う。どうしてあんなふうに聞こえるのだろうと聞こえてくる耳の微妙な陰影や濃淡の違いはおもしろい。草むらで鳴く虫の声をうるさいと聞く人もいれば、私たちのように情緒的に響きを楽しむ人もいる。先日、新聞のコラムに人類共通の生理現象のくしゃみの響きが国によって違う言い方というのが載っていた。私たちはハクションと言うけれども、いちいちの国の名は省くがアチュー、エッチュイ、アチュウム、アブチヒー、アータスなどと言うそうだ。どこか、こらえたくしゃみの響きがする。日本のハクションは角の本屋のおじさんのハクションが聞こえてくるくらいのハクションで、おもいっきりがいい響きがする。

 湿った薄い膜がかかった空気を感じるこの頃、曇り日のこの潤んだような空気を透かして見る景色には清々しい落ち着きを感じる。その膜がかった潤みの景色には、いつもながらどこか記憶の底の懐かしいようなものが沸いてきて飽きるということがない。梅雨近しもあるけれども、空を映してひろがる水田の透明な蒸発や微風にゆらぐ水面のしぼ…奥行きを感じるのは眼には見えない透明な空間に溶け込むようなあいまいもことした膨らみのせいだろうか。内部の底にしゃがんでいる潤んだ眼のまばたきに、懐かしさの感情はゆっくりと身体中を巡りやってくる。ほぐれてくる。そういえば、情感とか情緒とか感情がすっかり邪魔ものにされ、どこかの忘れ物置場に傘やカバンといっしょに山積みになって放置されてはいないか。ふとそんな映像が浮かぶのは今に始まったことではないけれど。


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