学説・論文にとって文献は力強い傍証材料になります。
ただし、学説・論文の裏付けに文献が正しく用いられた場合、その関係が有効なのであって、正当に使われなければ、ただの偽造文書に過ぎません。
また、学説・論文は、ものごとを説き明かし伝えようとする意図や意思の発表手段なので、膨大な量の文献のさまざまな部分を取り出し、つなぎ合わせて読めるようにしたところで、学説・論文にはなりません。
それは単なる調査報告か紹介記事でしかないのです。
学説・論文を評価する場合、ともすれば参考文献の数に惑わされがちになりますが、参考文献が少ない、あるいは書かれていないからといって、その学説・論文に価値がないとは言えません。
自分が信じていた世間一般に植え付けられた思考様式と異なる論を、参考文献から見つけ出せないことを理由に軽々に排斥する人には、評論の資格はないでしょう。
学者と呼ばれる人は、とかく文献への執着度が強く、その強さには、自身の学説についての責任を、文献すなわち自分以外のところに負わせようとする気持ちがこもっているようにも思います。
もし間違いがあればそれは文献のせいというわけです。
学説・論文が優れたものであるかどうかは、積み上げた文献の数には比例しないようです。
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