◆10月5日
最近、市内で流れる正午をお知らせする音楽が「恋は水色」→(トトロの)「さんぽ」に換わった。それで私は一緒に作業していた人に「昔ネコバスを詠んだ歌を作ったんだけど全く理解されなかった。聖書の言葉と取り合わせたのが悪かったのかなぁ。まぁ未熟だったってのもあるけど」と話した。「今ならできるんじゃないですか」と相手。「文章はじわじわ予兆が見えてきて書けるけど、短歌は推敲もある時フッとできるんだよね」と私。
午後は別の方にトトロの好きなシーンを話した。メイの蒔いた木の実のあるところを夜中にトトロ達が合掌しつつぐるぐる回ると、どんどん発芽し伸びてく場面。それを見たメイとサツキがトトロの後ろについて歩き回って、(ゔーーん)と一生懸命両手を合わせパッと上に挙げると生長していく木に二人が喜んでるのを見ると、私ってメイだなと思う、トトロの念力で木が発育してるだけで、自分は一緒になって手を合わせて(ゔーーん)とやって喜んでるだけ、と。相手に後で、トラクトNo.7の扉絵を見せた。
↓ ↓ ↓
※トラクトNo.7の扉絵聖句:
<コリントの信徒への手紙⑴3章6〜7節> わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
◆10月6日
所属教会の年配信徒宛に封書投函。眼鏡かけて野焼き跡をよく観察(専用の煙突みたいなのが刺さってました)。いつの間に飯島真理さんのSerendipityを口ずさんでました。帰りかけたら光芒が見え、家への路地を通過し逆の散歩コースへ。電線の写りが少ない所で撮影。
* * *
どっちの道を選んでもそれぞれに恵みがあるんだな、神様はそんな狭量な方ではないんだな、とふと思いました。日々やらなきゃいけないこと・したいことがあり過ぎて、できない自分を責めそうになるけど、神様に(一緒にいて下さい)とお願いして、少しずつ進めていけばいいんだなと思いました。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 詩篇90:15-17>
あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにし てください。
◆10月11日
ゴミ出し後に団地の辺りから撮影。久々に茅ヶ岳が撮れました。
昨日も実は イヤな短歌会の前に団地を一周したのですが、その時団地の方から男の子が走り出てきて「ママ怒ってたよ、◯◯ちゃん(男児名)怒られちゃったよ」と言って走り去りました。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 コヘレトの言葉10章20節>
親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え 翼あるものがその言葉を告げる。
* * *
まぁ私は金持ちを呪ったりはしてませんが、(土)にブログで家族の告発をしたのも、何某かの伝播はあったかも、とは思います。まぁ単なるシンクロニシティかもしれませんが、声を上げると波及するというのは、今までそれなりに見てきました。「空の鳥がその声を伝え」なんて、ある意味まさにTwitter(のシンボルマーク)ではありませんか……!私は、先の◯◯ちゃんとそのご家族と共に主がいて下さいますように、と祈りました。
◆10月17日
朝食後に横になり、眠っていないのだが、目を閉じてる隙に圧迫的な視覚心像が。礼拝行けばまた重荷を負わされるという妄想もあり、今日は礼拝休む(こういう呟きも作業所職員が見ていて、私が体調崩すといつも教会を責めるのだが、人目気にして裡に押し込んでると、本当に身体が動かなくなるので吐露)
* * *
<新共同訳マルコ福音書12:30-31>
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
(*律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」への主の答え)
↓ ↓ ↓
最初が「心を尽くし」な事に慰められる。「力を尽くし」が筆頭だったら、死ぬしかない感じ。「力を尽くし」ってヴィジュアル系よね(見た目第一、結果第一という意味で)。母教会は本当に力尽くしてる教会だった(だから私は落ちこぼれてた)。でも母教会に限らず世の中もヴィジュアル系かと(数字信仰とか)
◆10月30日
<新改訳第三版 ヘブル人への手紙 11:13-16>
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
↓ ↓ ↓
私のブログの一首鑑賞の一つ【「天国へ行くのに肩書きはいりません」牧師の声は熱帯びてきぬ】へのアクセスが地味に続いている。私としては「よく書けた」実感もそんなに無いので意外と言えば意外。アクセスが続くことで逆に、ああ皆そんなに天国行きたいのかぁ、と感じさせられてる。ヘブル11章は一昨日の通読箇所。私は以前から天国願望って薄かった(それで母教会の信徒に呆れられたりしてた)。某異端のパンフみたいに皆がニカ〜ッとしてる場所なんて気味悪いというのが正直なところだった。延々明るい交わりをしなければいけないなんて、疲れる〜という感じだったのだ。でも一昨日読んで、ふとすんなり受け取れている自分に気づいた。ここ一年の試練を通じて、根本的な人間嫌いが払拭されたとまではいかないが、祈って歩み寄れば障壁となっていたものが崩れること、トラウマが穿り返される事柄が起きて精神的危機に陥ってもいつも主が共にいて下さり、揉まれた労苦は報われることを身をもって経験したからだろう。ルカによる福音書17章21節に「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」 (新共同訳)とあるけど、こういうリアルな御国だったら行きたいと思える。別に天国って「喧嘩一切禁止!」とか雁字搦めじゃなくて、和解があるってことなんでは。
最近、市内で流れる正午をお知らせする音楽が「恋は水色」→(トトロの)「さんぽ」に換わった。それで私は一緒に作業していた人に「昔ネコバスを詠んだ歌を作ったんだけど全く理解されなかった。聖書の言葉と取り合わせたのが悪かったのかなぁ。まぁ未熟だったってのもあるけど」と話した。「今ならできるんじゃないですか」と相手。「文章はじわじわ予兆が見えてきて書けるけど、短歌は推敲もある時フッとできるんだよね」と私。
午後は別の方にトトロの好きなシーンを話した。メイの蒔いた木の実のあるところを夜中にトトロ達が合掌しつつぐるぐる回ると、どんどん発芽し伸びてく場面。それを見たメイとサツキがトトロの後ろについて歩き回って、(ゔーーん)と一生懸命両手を合わせパッと上に挙げると生長していく木に二人が喜んでるのを見ると、私ってメイだなと思う、トトロの念力で木が発育してるだけで、自分は一緒になって手を合わせて(ゔーーん)とやって喜んでるだけ、と。相手に後で、トラクトNo.7の扉絵を見せた。
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※トラクトNo.7の扉絵聖句:
<コリントの信徒への手紙⑴3章6〜7節> わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
◆10月6日
所属教会の年配信徒宛に封書投函。眼鏡かけて野焼き跡をよく観察(専用の煙突みたいなのが刺さってました)。いつの間に飯島真理さんのSerendipityを口ずさんでました。帰りかけたら光芒が見え、家への路地を通過し逆の散歩コースへ。電線の写りが少ない所で撮影。
* * *
どっちの道を選んでもそれぞれに恵みがあるんだな、神様はそんな狭量な方ではないんだな、とふと思いました。日々やらなきゃいけないこと・したいことがあり過ぎて、できない自分を責めそうになるけど、神様に(一緒にいて下さい)とお願いして、少しずつ進めていけばいいんだなと思いました。
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<新改訳第三版 詩篇90:15-17>
あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにし てください。
◆10月11日
ゴミ出し後に団地の辺りから撮影。久々に茅ヶ岳が撮れました。
昨日も実は イヤな短歌会の前に団地を一周したのですが、その時団地の方から男の子が走り出てきて「ママ怒ってたよ、◯◯ちゃん(男児名)怒られちゃったよ」と言って走り去りました。
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<新共同訳 コヘレトの言葉10章20節>
親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え 翼あるものがその言葉を告げる。
* * *
まぁ私は金持ちを呪ったりはしてませんが、(土)にブログで家族の告発をしたのも、何某かの伝播はあったかも、とは思います。まぁ単なるシンクロニシティかもしれませんが、声を上げると波及するというのは、今までそれなりに見てきました。「空の鳥がその声を伝え」なんて、ある意味まさにTwitter(のシンボルマーク)ではありませんか……!私は、先の◯◯ちゃんとそのご家族と共に主がいて下さいますように、と祈りました。
◆10月17日
朝食後に横になり、眠っていないのだが、目を閉じてる隙に圧迫的な視覚心像が。礼拝行けばまた重荷を負わされるという妄想もあり、今日は礼拝休む(こういう呟きも作業所職員が見ていて、私が体調崩すといつも教会を責めるのだが、人目気にして裡に押し込んでると、本当に身体が動かなくなるので吐露)
* * *
<新共同訳マルコ福音書12:30-31>
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
(*律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」への主の答え)
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最初が「心を尽くし」な事に慰められる。「力を尽くし」が筆頭だったら、死ぬしかない感じ。「力を尽くし」ってヴィジュアル系よね(見た目第一、結果第一という意味で)。母教会は本当に力尽くしてる教会だった(だから私は落ちこぼれてた)。でも母教会に限らず世の中もヴィジュアル系かと(数字信仰とか)
◆10月30日
<新改訳第三版 ヘブル人への手紙 11:13-16>
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
↓ ↓ ↓
私のブログの一首鑑賞の一つ【「天国へ行くのに肩書きはいりません」牧師の声は熱帯びてきぬ】へのアクセスが地味に続いている。私としては「よく書けた」実感もそんなに無いので意外と言えば意外。アクセスが続くことで逆に、ああ皆そんなに天国行きたいのかぁ、と感じさせられてる。ヘブル11章は一昨日の通読箇所。私は以前から天国願望って薄かった(それで母教会の信徒に呆れられたりしてた)。某異端のパンフみたいに皆がニカ〜ッとしてる場所なんて気味悪いというのが正直なところだった。延々明るい交わりをしなければいけないなんて、疲れる〜という感じだったのだ。でも一昨日読んで、ふとすんなり受け取れている自分に気づいた。ここ一年の試練を通じて、根本的な人間嫌いが払拭されたとまではいかないが、祈って歩み寄れば障壁となっていたものが崩れること、トラウマが穿り返される事柄が起きて精神的危機に陥ってもいつも主が共にいて下さり、揉まれた労苦は報われることを身をもって経験したからだろう。ルカによる福音書17章21節に「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」 (新共同訳)とあるけど、こういうリアルな御国だったら行きたいと思える。別に天国って「喧嘩一切禁止!」とか雁字搦めじゃなくて、和解があるってことなんでは。
◆9月1日
昨日作業所でこの人が隣に座ってた。いつもながらに心身の不調を具体的に職員に訴えてた。職員は聞いてあげるくらいしかできない(内心辟易してるのは明らか)。精神科で臀部に打たれた注射の痕が痛むよう。精神科では整形案件と言われ、整形外科では精神科の注射の所為とにべもなく、運動するように、と。
(※この人←2020年10月12日の聖書黙想に登場した人:
【フィレモン25「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。迫害する者のために祈れ、は有名だが実行は困難。私のある指摘以降、信徒のくせにと揚げ足取り的になった方が作業所に。彼が昔の傷を言うたび「神様、彼と共にいて下さい」と祈ると決心。これならできる】)
* * *
<新改訳第三版 マルコの福音書5:25-26>
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
↓ ↓ ↓
私は同じテーブルで前に座って作業してた女性に、大学3年の頃に複数の病院へ行っていたことを打ち明け、医者は自分のところで手に負えぬ病状を持ち込む患者に、他科の病名を付けて引き退らせることを結構やる、と話した。私も内科で「子宮内膜症」と告げられた(その医師は子宮を診たわけでもないのに)。それで友人に某婦人科を紹介されて行ったが、色んな病院に行き過ぎて飲み切れぬほど薬を貰っていた私が、次の婦人科受診で薬を飲めなかったことを告げたら、ぶち切れられ診療はストップ。私は大学のカウンセリングセンターの門を叩き、心療内科に繋いでいただいたが、心療内科医師は程なく長期休暇に。1学期の終わり、大学のカウンセラーの方に「これからどうする?」と訊かれ、「最近知り合ったクリスチャンが教会に誘ってくれたので教会へ行ってみます」と答え、涙が出た。私は負けたんだ、と思った。高校の時推薦入学の打算で通ってウンザリしていた教会しか、私には行くところが無いんだと思ったから。
◆9月16日
<新改訳第三版 テサロニケ⑴2:5>
ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
↓ ↓ ↓
今までの信仰生活で(母教会の頃も含め)、生ぬるい時期も沢山あったが、へつらいはしてこなかったと思う。母教会でいまいち伝道に熱心になれなかったのは、クリスチャンが未信者を食い物にしてる感が否めなかったからだと今は思う。私の反権力的な姿勢はやはり滲み出ていたようで、母教会のリーダー達は、あまり伝道せずともすると教会のやり方に批判的になる私を扱いかねてた。礼拝後に、説教の内容に打たれつつ牧師に感想などを言いに行けない私を詰る人もいた。だが、もしかしたら牧師にすぐ反応できてた人は、体のいいこと言ってたのかもな、と今は思う。
◆9月23日
一昨日は通所だったが、某メンバーがだいぶ幻聴に苦しんで、色んな職員に症状を訴えてた。その人の被害妄想は極度で、訴えも頻回すぎて職員も感覚が麻痺しており「誰もそんなこと言ってないよ」「それ幻聴だから」で済まそうとするが、それで彼の幻聴が取り除かれるわけではないから、ずっと訴え続ける。
* * *
<聖書協会共同訳 マルコによる福音書10章46-50節>
一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
↓ ↓ ↓
イエスのお供をしていた弟子達は、視えぬ苦しみが除かれるよう叫ぶ盲人を黙らせようとした(人々の病を癒す主の手伝いを普段していたにも拘らず)。こういうことって往々にしてある。受洗後も、それまで受けた傷が完全に癒えておらずクリスチャンに聞いてもらおうとして、却って怒られたりとか。でもイエスご自身は、正直に叫びを上げ続ける人が好きなんだ(「好き」という言い方ちょっと語弊あるかも、だけど)。先の作業所の某メンバーのために私ができることは、ほぼ無い。でも「神様、◯◯さんと一緒にいて下さい」と馬鹿の一つ覚えのように心の内で祈る。同時に、Twitterのフォロワーさんや、アイコンでしかよく知らぬRTで見かけた人の呟きを思い出しつつ、馬鹿の一つ覚えを繰り返す。その人にとって何が最善なのかは私には判らない。だから、あの人がああなりますように、とか、この人をこうして下さい、とは祈るべきではないんだな、と思って。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 テサロニケ⑵3:16>
どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
昨日作業所でこの人が隣に座ってた。いつもながらに心身の不調を具体的に職員に訴えてた。職員は聞いてあげるくらいしかできない(内心辟易してるのは明らか)。精神科で臀部に打たれた注射の痕が痛むよう。精神科では整形案件と言われ、整形外科では精神科の注射の所為とにべもなく、運動するように、と。
(※この人←2020年10月12日の聖書黙想に登場した人:
【フィレモン25「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。迫害する者のために祈れ、は有名だが実行は困難。私のある指摘以降、信徒のくせにと揚げ足取り的になった方が作業所に。彼が昔の傷を言うたび「神様、彼と共にいて下さい」と祈ると決心。これならできる】)
* * *
<新改訳第三版 マルコの福音書5:25-26>
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
↓ ↓ ↓
私は同じテーブルで前に座って作業してた女性に、大学3年の頃に複数の病院へ行っていたことを打ち明け、医者は自分のところで手に負えぬ病状を持ち込む患者に、他科の病名を付けて引き退らせることを結構やる、と話した。私も内科で「子宮内膜症」と告げられた(その医師は子宮を診たわけでもないのに)。それで友人に某婦人科を紹介されて行ったが、色んな病院に行き過ぎて飲み切れぬほど薬を貰っていた私が、次の婦人科受診で薬を飲めなかったことを告げたら、ぶち切れられ診療はストップ。私は大学のカウンセリングセンターの門を叩き、心療内科に繋いでいただいたが、心療内科医師は程なく長期休暇に。1学期の終わり、大学のカウンセラーの方に「これからどうする?」と訊かれ、「最近知り合ったクリスチャンが教会に誘ってくれたので教会へ行ってみます」と答え、涙が出た。私は負けたんだ、と思った。高校の時推薦入学の打算で通ってウンザリしていた教会しか、私には行くところが無いんだと思ったから。
◆9月16日
<新改訳第三版 テサロニケ⑴2:5>
ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
↓ ↓ ↓
今までの信仰生活で(母教会の頃も含め)、生ぬるい時期も沢山あったが、へつらいはしてこなかったと思う。母教会でいまいち伝道に熱心になれなかったのは、クリスチャンが未信者を食い物にしてる感が否めなかったからだと今は思う。私の反権力的な姿勢はやはり滲み出ていたようで、母教会のリーダー達は、あまり伝道せずともすると教会のやり方に批判的になる私を扱いかねてた。礼拝後に、説教の内容に打たれつつ牧師に感想などを言いに行けない私を詰る人もいた。だが、もしかしたら牧師にすぐ反応できてた人は、体のいいこと言ってたのかもな、と今は思う。
◆9月23日
一昨日は通所だったが、某メンバーがだいぶ幻聴に苦しんで、色んな職員に症状を訴えてた。その人の被害妄想は極度で、訴えも頻回すぎて職員も感覚が麻痺しており「誰もそんなこと言ってないよ」「それ幻聴だから」で済まそうとするが、それで彼の幻聴が取り除かれるわけではないから、ずっと訴え続ける。
* * *
<聖書協会共同訳 マルコによる福音書10章46-50節>
一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
↓ ↓ ↓
イエスのお供をしていた弟子達は、視えぬ苦しみが除かれるよう叫ぶ盲人を黙らせようとした(人々の病を癒す主の手伝いを普段していたにも拘らず)。こういうことって往々にしてある。受洗後も、それまで受けた傷が完全に癒えておらずクリスチャンに聞いてもらおうとして、却って怒られたりとか。でもイエスご自身は、正直に叫びを上げ続ける人が好きなんだ(「好き」という言い方ちょっと語弊あるかも、だけど)。先の作業所の某メンバーのために私ができることは、ほぼ無い。でも「神様、◯◯さんと一緒にいて下さい」と馬鹿の一つ覚えのように心の内で祈る。同時に、Twitterのフォロワーさんや、アイコンでしかよく知らぬRTで見かけた人の呟きを思い出しつつ、馬鹿の一つ覚えを繰り返す。その人にとって何が最善なのかは私には判らない。だから、あの人がああなりますように、とか、この人をこうして下さい、とは祈るべきではないんだな、と思って。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 テサロニケ⑵3:16>
どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
◆8月1日
<新改訳第三版 詩篇97:4>
主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。
(8月1日礼拝 交読詩篇より)
↓ ↓ ↓
少し前に作業所で、私が過去に最も怖かった雷の話をしていた。
[以下その話]
* * *
私は大学3年の夏休みに(後の母教会となる教会の信徒と)聖書の勉強をした。聖書の学びも終盤に入り、「罪」についての学びになっていた。聖書の言う「罪」が世の中で言う罪よりも範囲が広く、心の中の思いなども「罪」になるのか……と学びつつ、私はただ(罪、私も沢山あるんだな……)くらいの感覚で通過しようとしていた。
[注]賛否両論あろうが、母教会では前半の学びは平信徒に任せてる。ただし、聖書の教え方についてはみっちり仕込まれる
ある日、牧師夫妻の留守中のお宅で(許可を得て)聖書の学びの大詰めをしてた。その日は激しく雨が降っていた。予定より少し遅れて教会スタッフ(女性)が到着して加わった。私にそれまで教えてくれてた大学生は私の理解が進んでるものと信じてた。でもそのスタッフが私と少し話してみて「貴方は、罪が、わかっていない!!」とズバッと仰った。その瞬間、ダーーーンッ!!と大きな雷が落ちた。友達も、そのスタッフも唖然としていた。 牧師宅で飼われてた兎はそれまで走り回ってたのに、落雷後、固まってしまってただ後脚を(ヅ…ヅ…ヅ…)と床に打ちつけていた。私はもう(神様怖い!!神様怒ってる……!)とビビりまくり。
↓ ↓ ↓
以来、私は雷が怖くなった。まぁでも今はそのスタッフには感謝してる。
◆8月11日
この前の日曜は礼拝へ行ったが、実は怖気づいていた。私より年配の方が殆どの教会員に向けて(熟慮したとはいえ)説教がましい文章を載せたトラクトを発行したから。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 コリント⑵10:1>
さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。
<同⑵10:9>
わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
<同⑵10:10>
わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
↓ ↓ ↓
まさに私はこんな者。一ヶ月の礼拝欠席の間に見慣れぬ方がいらしてて(しかも新来会者でなく)、礼拝前にトラクトを凝視してるのを見て私はソワソワ。でも、御言葉を語るのは牧師の専売特許じゃないと、どうしても言いたかった。聖書のことを全く話さない交わりなんて、その辺の仲良しクラブと何も変わらないよ。
◆8月21日
<新改訳第三版 列王記⑴8:59>
私が主の御前で願ったことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの言い分や、御民イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。
(*しもべ→これを祈ってる本人(ソロモン)の謙遜の自称)
↓ ↓ ↓
こんなこと書いてあったんだなぁ、と。たんたか短歌とか聴いてたりすると、「祈り」って敷居高いもの、尊い言葉を連ねることと世間では捉えられてるのかなぁと思うことがある(まぁ下手するとクリスチャンですらそう感じていて祈りが重荷となってる人もいるから、無理もないけど)。「日常のことにおいても」って本当そう。瑣末なことやエグいこと、結構祈ってる(お手洗いで踏ん張りつつ「出ますように!」とか、作業所から帰る際「駐車場隣接宅の女性から声かけられませんように」とか)。皆に呆れられるだろうけど、背に腹はかえられない。神の前でカッコつけても仕方ないよね、と
<新改訳第三版 詩篇97:4>
主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。
(8月1日礼拝 交読詩篇より)
↓ ↓ ↓
少し前に作業所で、私が過去に最も怖かった雷の話をしていた。
[以下その話]
* * *
私は大学3年の夏休みに(後の母教会となる教会の信徒と)聖書の勉強をした。聖書の学びも終盤に入り、「罪」についての学びになっていた。聖書の言う「罪」が世の中で言う罪よりも範囲が広く、心の中の思いなども「罪」になるのか……と学びつつ、私はただ(罪、私も沢山あるんだな……)くらいの感覚で通過しようとしていた。
[注]賛否両論あろうが、母教会では前半の学びは平信徒に任せてる。ただし、聖書の教え方についてはみっちり仕込まれる
ある日、牧師夫妻の留守中のお宅で(許可を得て)聖書の学びの大詰めをしてた。その日は激しく雨が降っていた。予定より少し遅れて教会スタッフ(女性)が到着して加わった。私にそれまで教えてくれてた大学生は私の理解が進んでるものと信じてた。でもそのスタッフが私と少し話してみて「貴方は、罪が、わかっていない!!」とズバッと仰った。その瞬間、ダーーーンッ!!と大きな雷が落ちた。友達も、そのスタッフも唖然としていた。 牧師宅で飼われてた兎はそれまで走り回ってたのに、落雷後、固まってしまってただ後脚を(ヅ…ヅ…ヅ…)と床に打ちつけていた。私はもう(神様怖い!!神様怒ってる……!)とビビりまくり。
↓ ↓ ↓
以来、私は雷が怖くなった。まぁでも今はそのスタッフには感謝してる。
◆8月11日
この前の日曜は礼拝へ行ったが、実は怖気づいていた。私より年配の方が殆どの教会員に向けて(熟慮したとはいえ)説教がましい文章を載せたトラクトを発行したから。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 コリント⑵10:1>
さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。
<同⑵10:9>
わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
<同⑵10:10>
わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
↓ ↓ ↓
まさに私はこんな者。一ヶ月の礼拝欠席の間に見慣れぬ方がいらしてて(しかも新来会者でなく)、礼拝前にトラクトを凝視してるのを見て私はソワソワ。でも、御言葉を語るのは牧師の専売特許じゃないと、どうしても言いたかった。聖書のことを全く話さない交わりなんて、その辺の仲良しクラブと何も変わらないよ。
◆8月21日
<新改訳第三版 列王記⑴8:59>
私が主の御前で願ったことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの言い分や、御民イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。
(*しもべ→これを祈ってる本人(ソロモン)の謙遜の自称)
↓ ↓ ↓
こんなこと書いてあったんだなぁ、と。たんたか短歌とか聴いてたりすると、「祈り」って敷居高いもの、尊い言葉を連ねることと世間では捉えられてるのかなぁと思うことがある(まぁ下手するとクリスチャンですらそう感じていて祈りが重荷となってる人もいるから、無理もないけど)。「日常のことにおいても」って本当そう。瑣末なことやエグいこと、結構祈ってる(お手洗いで踏ん張りつつ「出ますように!」とか、作業所から帰る際「駐車場隣接宅の女性から声かけられませんように」とか)。皆に呆れられるだろうけど、背に腹はかえられない。神の前でカッコつけても仕方ないよね、と
◆7月3日
ルツ記4:7の、買い戻しや権利の譲渡の際に履き物を脱いで相手に渡す習慣は、申命記25:7-10に基づくものなんだな。筋を通さないと、権利の最優先者の顔に泥を塗るということなんだな。ボアズってカッコいいな。
◆7月4日
3週ぶりに礼拝へ。花の日(6/13)に発送の寄書きへのお礼葉書が掲示板に。箸も使えず字を書くのも歩くのもままならぬというSさんは、左手で右手を動かしながらお書きになったとか。生きるのに疲れる時もあるけれど(主よ、御心を悟る知恵をお恵み下さい)と祈り、朝夕に聖書と祈りに励まされているそうです。
この寄書きに牧師先生は、聖句のみ引き写ししていらっしゃいました。それを真似て、私も聖句のみ書きました。相手が信徒なら、人間的な慰めより、そのほうが心の中で生きることを知っているからです。ちなみにこの方には、私はこれを書き写しました。
↓ ↓ ↓
<コリントの信徒への手紙一 12章 26節>
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
◆7月6日
サムエル⑴1章。不妊のハンナは子のいるペニンナにいびられ、神殿での毎年の礼拝のたび苦悶。泣きつつ心の中で祈ってたハンナは祭司エリに酔いをさますよう窘められる。取り乱しての祈りが自己中になり裁かれたのって私も経験。それが牧師からだったら尚辛い筈。でも神は全てご存知で祈りを聞く
◆7月7日
クリスチャンになってから、神を否定する(あるいは呪う)言説が苦しかった。神を悪し様に言われるのは自分を悪く言われてるのと同義だった(そのくらい自分には何も無かった。基本的には今もそう)。でも今は、昔に比べ神の大きさにもっと確信が持てるようになった。
↓ ↓ ↓
サムエル記下16:5-12。ダビデが息子に逆らわれ都落ちした時、前王サウルの一族の出のシムイがダビデと家臣に石を投げて呪った。曰く、サウル家の血を流して王位を奪ったから神が報復されてるのだ、と。ダビデの家臣はシムイに立ち向かうことを申し出るが、ダビデは「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう」と家臣を諫め、「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」 とも言った。
◆7月24日
最近、通読のコピペも礼拝聖句箇所のコピペも殆どしてなかったのが遠因で(←私ってとことん自意識過剰!)バテバテ気味に見えるフォロワーさんがいらっしゃるので、6月中旬〜下旬にかけて発送した手紙に添えた聖句をネタバレ。
* * *
<新共同訳 イザヤ書64章3節>
あなたを待つ者に計らってくださる方は 神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目に見た者もありません。
* * *
<新共同訳 詩編139編11節>
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
◆7月24日
(私って聖書博士だろ?ハッハッハ)的に聖句をあれこれ引用するよりは、その時々で送る相手に相応しい聖句であれば、使い回しでも心の籠った聖句がいいだろうと『信徒の友』3月号分は、だいぶ同じ聖句を書きました。でもネタバレしちゃったし、ずっと同じのだと祈りの気持ちが薄れてきてしまいます。
それで(礼拝時以外で久々に)紙の新共同訳を開き、とんでもない聖句を発見してしまいました。
↓ ↓ ↓
<詩編129編8節>
傍らを通る者が 「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」と言わないように。
↓ ↓ ↓
こういう安手の祝福、お仕着せ的な聖句選んでないだろうか…?
◆7月27日
今日は午後、作業所で就労B利用のための計画相談の半期モニタリングがあった。私はabcNotesに予めメモしておいたことを元に、就労Bから地域活動支援センター(無給)への利用に移行したいと伝えたが、結局まだ時期尚早とのことで就労Bを継続することになった。
半年前のモニタリングの際に、この引用ツイートの件も伝えてたつもりだったが、指導員には初耳だったようだ。別に私は今も基本的に変わっていない。ただ義務のために生きてる、楽しみはないと言った。
*【1月30日のツイート】
(母との喧嘩は大なり小なり日々続いていたが、母があまりしつこく追求してくるので私は「もう世の中にはせいせいしてる。正直早くお迎えが来てほしい」と本音を言ったところ、母には相当ダメージだった模様。昨晩〜今朝は夢見が良くなかったらしく、午睡でもうなされてた。今も夕飯作りながら泣いてる。)
* * *
<新共同訳 フィリピの信徒への手紙1章21-24節>
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
↓ ↓ ↓
某フォロイーさんが以前、綾小路きみまろの「人生ひまつぶし」のことを呟いてたけど、私もある意味それだよなぁ……ただ自己肯定感低いので、メンタルがかすかすになりながらアウトプットに走るという。。。
◆7月28日
弟の部屋を掃除してた母が『怒りに負ける人 怒りを生かす人』を弟が読んでることを足掛かりに、私を貶し始めた。「信徒のくせにあんたは…!」というありがちな迫害。でも、委員長に対する愚痴に関しても「◯◯さんだって善意で言ってるのに…!」と詰ってきたので、キレた(確かに怒りには負けてるよ)。
正直私には、委員長が相手を褒めちぎればその人を奴隷みたいに扱って良いかのように思ってるとしか見えない。(教会にとって伝道は必要✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧そして若者が教会に来たら、褒めちぎって重い責任を負わせよう)とでも思ってるようにしか見えない、と言った。母は「呆れた!」を連発。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 コリント⑵5:12-13>
私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
* * *
<同箇所 New Living Translation>
Are we commending ourselves to you again? No, we are giving you a reason to be proud of us, so you can answer those who brag about having a spectacular ministry rather than having a sincere heart. If it seems we are crazy, it is to bring glory to God. And if we are in our right minds, it is for your benefit.
↓ ↓ ↓
うわべのことで委員長が人を褒めちぎってるのは確かだし、神は私の怒りを解ってらっしゃる。でもその上で「神の和解を受け入れなさい」[コリント⑵5:20]と仰るのだな。聖書は毎日読んでるけど、ウルっときたのは久々。神様ありがとう
◆7月31日
サムエル⑵5章。初代王サウル死後サウル家は弱体化。ついにはイスラエル全部族がダビデにイスラエルの王となるよう請う。ヘブロンからエルサレムに来たダビデに対し住民のエブス人は「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる」(新改訳第三版6節)と蔑む。だがダビデは攻略に成功。
* * *
<新改訳第三版 サムエル⑵5:8>
その日ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。」と言った。このため、「めしいや足なえは宮にはいってはならない。」と言われている。
↓ ↓ ↓
ダビデの発言は、エブス人が自分を見くびったことを受けてのもので、障害者差別推奨の意味ではない。だが後世には王の命令として、発言の一部分のみが意図を歪曲されて伝わってしまった。悲しいかなこういうことって多々。権威ある立場の人の言葉の重み、その結論的な部分に群がる民衆の有り様を思う
ルツ記4:7の、買い戻しや権利の譲渡の際に履き物を脱いで相手に渡す習慣は、申命記25:7-10に基づくものなんだな。筋を通さないと、権利の最優先者の顔に泥を塗るということなんだな。ボアズってカッコいいな。
◆7月4日
3週ぶりに礼拝へ。花の日(6/13)に発送の寄書きへのお礼葉書が掲示板に。箸も使えず字を書くのも歩くのもままならぬというSさんは、左手で右手を動かしながらお書きになったとか。生きるのに疲れる時もあるけれど(主よ、御心を悟る知恵をお恵み下さい)と祈り、朝夕に聖書と祈りに励まされているそうです。
この寄書きに牧師先生は、聖句のみ引き写ししていらっしゃいました。それを真似て、私も聖句のみ書きました。相手が信徒なら、人間的な慰めより、そのほうが心の中で生きることを知っているからです。ちなみにこの方には、私はこれを書き写しました。
↓ ↓ ↓
<コリントの信徒への手紙一 12章 26節>
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
◆7月6日
サムエル⑴1章。不妊のハンナは子のいるペニンナにいびられ、神殿での毎年の礼拝のたび苦悶。泣きつつ心の中で祈ってたハンナは祭司エリに酔いをさますよう窘められる。取り乱しての祈りが自己中になり裁かれたのって私も経験。それが牧師からだったら尚辛い筈。でも神は全てご存知で祈りを聞く
◆7月7日
クリスチャンになってから、神を否定する(あるいは呪う)言説が苦しかった。神を悪し様に言われるのは自分を悪く言われてるのと同義だった(そのくらい自分には何も無かった。基本的には今もそう)。でも今は、昔に比べ神の大きさにもっと確信が持てるようになった。
↓ ↓ ↓
サムエル記下16:5-12。ダビデが息子に逆らわれ都落ちした時、前王サウルの一族の出のシムイがダビデと家臣に石を投げて呪った。曰く、サウル家の血を流して王位を奪ったから神が報復されてるのだ、と。ダビデの家臣はシムイに立ち向かうことを申し出るが、ダビデは「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう」と家臣を諫め、「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」 とも言った。
◆7月24日
最近、通読のコピペも礼拝聖句箇所のコピペも殆どしてなかったのが遠因で(←私ってとことん自意識過剰!)バテバテ気味に見えるフォロワーさんがいらっしゃるので、6月中旬〜下旬にかけて発送した手紙に添えた聖句をネタバレ。
* * *
<新共同訳 イザヤ書64章3節>
あなたを待つ者に計らってくださる方は 神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目に見た者もありません。
* * *
<新共同訳 詩編139編11節>
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
◆7月24日
(私って聖書博士だろ?ハッハッハ)的に聖句をあれこれ引用するよりは、その時々で送る相手に相応しい聖句であれば、使い回しでも心の籠った聖句がいいだろうと『信徒の友』3月号分は、だいぶ同じ聖句を書きました。でもネタバレしちゃったし、ずっと同じのだと祈りの気持ちが薄れてきてしまいます。
それで(礼拝時以外で久々に)紙の新共同訳を開き、とんでもない聖句を発見してしまいました。
↓ ↓ ↓
<詩編129編8節>
傍らを通る者が 「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」と言わないように。
↓ ↓ ↓
こういう安手の祝福、お仕着せ的な聖句選んでないだろうか…?
◆7月27日
今日は午後、作業所で就労B利用のための計画相談の半期モニタリングがあった。私はabcNotesに予めメモしておいたことを元に、就労Bから地域活動支援センター(無給)への利用に移行したいと伝えたが、結局まだ時期尚早とのことで就労Bを継続することになった。
半年前のモニタリングの際に、この引用ツイートの件も伝えてたつもりだったが、指導員には初耳だったようだ。別に私は今も基本的に変わっていない。ただ義務のために生きてる、楽しみはないと言った。
*【1月30日のツイート】
(母との喧嘩は大なり小なり日々続いていたが、母があまりしつこく追求してくるので私は「もう世の中にはせいせいしてる。正直早くお迎えが来てほしい」と本音を言ったところ、母には相当ダメージだった模様。昨晩〜今朝は夢見が良くなかったらしく、午睡でもうなされてた。今も夕飯作りながら泣いてる。)
* * *
<新共同訳 フィリピの信徒への手紙1章21-24節>
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
↓ ↓ ↓
某フォロイーさんが以前、綾小路きみまろの「人生ひまつぶし」のことを呟いてたけど、私もある意味それだよなぁ……ただ自己肯定感低いので、メンタルがかすかすになりながらアウトプットに走るという。。。
◆7月28日
弟の部屋を掃除してた母が『怒りに負ける人 怒りを生かす人』を弟が読んでることを足掛かりに、私を貶し始めた。「信徒のくせにあんたは…!」というありがちな迫害。でも、委員長に対する愚痴に関しても「◯◯さんだって善意で言ってるのに…!」と詰ってきたので、キレた(確かに怒りには負けてるよ)。
正直私には、委員長が相手を褒めちぎればその人を奴隷みたいに扱って良いかのように思ってるとしか見えない。(教会にとって伝道は必要✧₊⁎❝᷀ົཽ≀ˍ̮ ❝᷀ົཽ⁎⁺˳✧そして若者が教会に来たら、褒めちぎって重い責任を負わせよう)とでも思ってるようにしか見えない、と言った。母は「呆れた!」を連発。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 コリント⑵5:12-13>
私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
* * *
<同箇所 New Living Translation>
Are we commending ourselves to you again? No, we are giving you a reason to be proud of us, so you can answer those who brag about having a spectacular ministry rather than having a sincere heart. If it seems we are crazy, it is to bring glory to God. And if we are in our right minds, it is for your benefit.
↓ ↓ ↓
うわべのことで委員長が人を褒めちぎってるのは確かだし、神は私の怒りを解ってらっしゃる。でもその上で「神の和解を受け入れなさい」[コリント⑵5:20]と仰るのだな。聖書は毎日読んでるけど、ウルっときたのは久々。神様ありがとう
◆7月31日
サムエル⑵5章。初代王サウル死後サウル家は弱体化。ついにはイスラエル全部族がダビデにイスラエルの王となるよう請う。ヘブロンからエルサレムに来たダビデに対し住民のエブス人は「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる」(新改訳第三版6節)と蔑む。だがダビデは攻略に成功。
* * *
<新改訳第三版 サムエル⑵5:8>
その日ダビデは、「だれでもエブス人を打とうとする者は、水汲みの地下道を抜けて、ダビデが憎む足なえとめしいを打て。」と言った。このため、「めしいや足なえは宮にはいってはならない。」と言われている。
↓ ↓ ↓
ダビデの発言は、エブス人が自分を見くびったことを受けてのもので、障害者差別推奨の意味ではない。だが後世には王の命令として、発言の一部分のみが意図を歪曲されて伝わってしまった。悲しいかなこういうことって多々。権威ある立場の人の言葉の重み、その結論的な部分に群がる民衆の有り様を思う
◆6月7日
午後は本当は教会に週報などを取りに行きたかったが、テンション高くて見合わせる。ま、自業自得感はある。
↑ ↑ ↑
<新共同訳 箴言18:21>
死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。
* * *
<新共同訳 ガラテヤの信徒への手紙6:7>
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
◆6月9日
だいぶテンション高い。聖書の通読箇所を読んでも、スーッと抜けて行ってしまう。ヤバいなぁ、今日精神科受診なのに。対策としてジャスミン茶と、鎮静剤3mgを服用。それでもちょっと前後不覚感。朝食を摂りながら思い出した聖句を、新改訳で読んだ。
* * *
<新改訳第三版 詩篇42:6-8>
私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。
◆6月14日
『信徒の友』7月号、やっぱダメだったみたい……(他の郵便物は来ていた)
*投稿歌【死ぬ前に一度会いたい人がいることをイエスに詫びるしかない】の不採用の件
↑ ↑ ↑
<新共同訳 ヤコブの手紙4章3節>
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
(まさに、コレだ……!)
◆6月30日
イヤな短歌会に出す歌に関し、色々迷いがあった。以前はただの悪口に近い短歌もあったし、また安易に作れる下品な歌も出していたが、エペソ人への手紙4:29や同書5:4などを考えると、信徒にもノンクリスチャンにも躓きになるよなぁと思っていた。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ローマ人への手紙12:2>
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
↓ ↓ ↓
日々の生活で何をすべきか(また行いたいか)分からなくなることは多々。神も「アレ駄目、コレ駄目」系のことは今は仰らず、各人に御心を探させようとなさってる。実際一人一人に見えることは限られてるし、できることもまた然り。
* * *
<新改訳第三版 詩篇5:9>
彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。
(6月27日礼拝の交読詩篇より)
↓ ↓ ↓
これを読んで、私はちょっと安心した。苦しみを無かったかのように繕わなくていいのだな、と。へつらいを言う口は墓穴で、その根っこの心には破滅があるのだな、と。ハラスメントや隠蔽されてる悪を糾弾する歌は、今後も作っていこう。でもただの中傷にならぬよう用心したい。
午後は本当は教会に週報などを取りに行きたかったが、テンション高くて見合わせる。ま、自業自得感はある。
↑ ↑ ↑
<新共同訳 箴言18:21>
死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。
* * *
<新共同訳 ガラテヤの信徒への手紙6:7>
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
◆6月9日
だいぶテンション高い。聖書の通読箇所を読んでも、スーッと抜けて行ってしまう。ヤバいなぁ、今日精神科受診なのに。対策としてジャスミン茶と、鎮静剤3mgを服用。それでもちょっと前後不覚感。朝食を摂りながら思い出した聖句を、新改訳で読んだ。
* * *
<新改訳第三版 詩篇42:6-8>
私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。
◆6月14日
『信徒の友』7月号、やっぱダメだったみたい……(他の郵便物は来ていた)
*投稿歌【死ぬ前に一度会いたい人がいることをイエスに詫びるしかない】の不採用の件
↑ ↑ ↑
<新共同訳 ヤコブの手紙4章3節>
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
(まさに、コレだ……!)
◆6月30日
イヤな短歌会に出す歌に関し、色々迷いがあった。以前はただの悪口に近い短歌もあったし、また安易に作れる下品な歌も出していたが、エペソ人への手紙4:29や同書5:4などを考えると、信徒にもノンクリスチャンにも躓きになるよなぁと思っていた。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ローマ人への手紙12:2>
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
↓ ↓ ↓
日々の生活で何をすべきか(また行いたいか)分からなくなることは多々。神も「アレ駄目、コレ駄目」系のことは今は仰らず、各人に御心を探させようとなさってる。実際一人一人に見えることは限られてるし、できることもまた然り。
* * *
<新改訳第三版 詩篇5:9>
彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。
(6月27日礼拝の交読詩篇より)
↓ ↓ ↓
これを読んで、私はちょっと安心した。苦しみを無かったかのように繕わなくていいのだな、と。へつらいを言う口は墓穴で、その根っこの心には破滅があるのだな、と。ハラスメントや隠蔽されてる悪を糾弾する歌は、今後も作っていこう。でもただの中傷にならぬよう用心したい。
◆5月4日
ヨハネ福音書20章。死んで葬られたイエスの墓に遺体がなく狼狽えたマグダラのマリヤに主が現れる。園丁と勘違いした彼女に主が「マリヤ」と呼びかけると「ラボニ(先生)」と応えた彼女。イエスは「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないから…」と(17節)。安彦良和の漫画『イエス』では、氏の独自解釈でイエスとマグダラのマリヤに性関係があったように描いてるが、私は違和感。主は女性に優しいが節度あり。ルカ7章で、パリサイ人宅で食卓についた主に罪深い女が近寄って足を涙で濡らし髪で拭い、御足に口づけ香油を塗るシーンがある。パリサイ人はその女性に卑猥なものを見て取っていた風だが、イエスは淫らに見えなくもないその女性の振る舞いに真実の愛を見、彼女を弁護。だから、彼女とイエスはその後イイ仲になったんでしょう…というのは邪推では。イエスが彼女を自分の欲望のために利用したとは私には思えない。
◆5月10日
渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」への批判は頷ける部分もあるがどうかなぁと思う部分も。己の生きたい環境を選べる人はそれだけで羨ましい。私は今住んでる(発病で連れてこられた)場所を今でこそ甘受できてるが長らく嫌だった。病状・仕事・経済状況・家など様々な面で首都圏に戻るのを封じられた感あった。
* * *
<新共同訳 ヨハネによる福音書21:17-19>
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
↓ ↓ ↓
私が今置かれている場所を主の召命によるものと思えるまでは何年もかかった。と言うか、召命は主に与えられるものだから、自己決定ですらないと私は思うが。まぁただ「〜咲きなさい」と人に命じられるのに違和感覚えるのは解る。多分「〜咲きなさい」の本意は、ボブ・ディランの「Forever Young」の歌詞の中の〈May you have a strong foundation When the winds of changes shift〉(風向きの変わる時も 強い芯を持つ人でありますように)的なニュアンスで、命令というより祝祷に近いものだったのでは?
……そうは言っても、確かに影響力は看過できないけれどもね。
◆5月13日
Twitterは本当に私にとって他では得難い場。ただ知識を得るとか、情報発信するとかだけじゃなく、自分に正直になること、多様な人のあり方に触れること、人を尊重することを、体験を通して教えてもらえる。
* * *
<新改訳第三版 詩篇4:6-8>
多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
◆5月16日
申命記23章。律法のため旧約では限定されてた祝福が、イエスの誕生でいかに拡大されたか判る。2節「不倫の子は主の集会に加わってはならない」17節「イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない」➤タマルがユダ(創世記)により産んだ子がイエスの育ての父(ヨセフ)の祖先となった。
申命記23章3節「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない」➤モアブ人ルツはボアズと再婚しオベド(ダビデの祖父)を産み、イエスの系図に記された。
◆5月22日
最近通所し始めた人が神に関心ありつつどうも枝葉の方に思考が逸れていくのがもどかしかった(神や愛について書かれた作り話とか、偽典とか)。私の興味関心が狭すぎるのかもしれないが、昔から「人生は短い」と思ってるし、余分でかつ息抜きにならないことをしているほど暇ではない。半可通に議論したりあれこれ色目を使っている時間は(私には)惜しい。申命記30:11-14を読んでそう思った。
* * *
(新改訳第三版)
まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
◆5月29日
10ヶ月前、トラクト25号を発行してからひと月の間礼拝へ行けなかった。微熱が続いて(まだコロナへの不安感も強固で)休んだのだ。でもあれはあれで良かったと思ってる部分も。25号は丸山光氏のお歌の鑑賞を掲載し、牧師先生も巻頭言を入念に準備されて、コロナに照準を合わせた号になった。私は1ヶ月休んだからその余波は殆ど預かり知らぬが、トラクトの過剰評価の声があったのでは(今までの経験より)。人を奉り上げるところにサタンは働き易い(エフェソ2:2「空中に勢力を持つ者」)。礼拝の長期欠席は好ましくないが、教会員も人の偶像崇拝から守られたし、私も高慢の罪をおかすのを免れた。
前述のエフェソに加え、下記も心に留めたい
* * *
<新共同訳 ヤコブの手紙4:9>
悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
* * *
<新共同訳 アモス書7:14>
アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
◆5月30日
今日の礼拝説教聖句は昨年度から据置の年度聖句ホセア10:12。先生としては思い切って教会員に耳の痛いこと(神が教会に求めているのは伝道)を語ったと思う。でも教会員も伝えたくてもどうしたらいいか分からないのも事実。先生も方法論は正直グダグダだった。と言うか、これうちの教会だけの問題じゃないよね。先生は説教の中ではホセア10:12しか読まなかったけど、ホセア10章全体を見回して解き明かしをされたのだろう。協会共同訳10:13「あなたがたは…欺きの実を食べた。しかも、あなたは自分の振る舞いと 軍勢の多さを頼みとした」が個人的に刺さった。良く見える行いが利己的なのって結構あるから。
ヨハネ福音書20章。死んで葬られたイエスの墓に遺体がなく狼狽えたマグダラのマリヤに主が現れる。園丁と勘違いした彼女に主が「マリヤ」と呼びかけると「ラボニ(先生)」と応えた彼女。イエスは「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないから…」と(17節)。安彦良和の漫画『イエス』では、氏の独自解釈でイエスとマグダラのマリヤに性関係があったように描いてるが、私は違和感。主は女性に優しいが節度あり。ルカ7章で、パリサイ人宅で食卓についた主に罪深い女が近寄って足を涙で濡らし髪で拭い、御足に口づけ香油を塗るシーンがある。パリサイ人はその女性に卑猥なものを見て取っていた風だが、イエスは淫らに見えなくもないその女性の振る舞いに真実の愛を見、彼女を弁護。だから、彼女とイエスはその後イイ仲になったんでしょう…というのは邪推では。イエスが彼女を自分の欲望のために利用したとは私には思えない。
◆5月10日
渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」への批判は頷ける部分もあるがどうかなぁと思う部分も。己の生きたい環境を選べる人はそれだけで羨ましい。私は今住んでる(発病で連れてこられた)場所を今でこそ甘受できてるが長らく嫌だった。病状・仕事・経済状況・家など様々な面で首都圏に戻るのを封じられた感あった。
* * *
<新共同訳 ヨハネによる福音書21:17-19>
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
↓ ↓ ↓
私が今置かれている場所を主の召命によるものと思えるまでは何年もかかった。と言うか、召命は主に与えられるものだから、自己決定ですらないと私は思うが。まぁただ「〜咲きなさい」と人に命じられるのに違和感覚えるのは解る。多分「〜咲きなさい」の本意は、ボブ・ディランの「Forever Young」の歌詞の中の〈May you have a strong foundation When the winds of changes shift〉(風向きの変わる時も 強い芯を持つ人でありますように)的なニュアンスで、命令というより祝祷に近いものだったのでは?
……そうは言っても、確かに影響力は看過できないけれどもね。
◆5月13日
Twitterは本当に私にとって他では得難い場。ただ知識を得るとか、情報発信するとかだけじゃなく、自分に正直になること、多様な人のあり方に触れること、人を尊重することを、体験を通して教えてもらえる。
* * *
<新改訳第三版 詩篇4:6-8>
多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
◆5月16日
申命記23章。律法のため旧約では限定されてた祝福が、イエスの誕生でいかに拡大されたか判る。2節「不倫の子は主の集会に加わってはならない」17節「イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない」➤タマルがユダ(創世記)により産んだ子がイエスの育ての父(ヨセフ)の祖先となった。
申命記23章3節「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない」➤モアブ人ルツはボアズと再婚しオベド(ダビデの祖父)を産み、イエスの系図に記された。
◆5月22日
最近通所し始めた人が神に関心ありつつどうも枝葉の方に思考が逸れていくのがもどかしかった(神や愛について書かれた作り話とか、偽典とか)。私の興味関心が狭すぎるのかもしれないが、昔から「人生は短い」と思ってるし、余分でかつ息抜きにならないことをしているほど暇ではない。半可通に議論したりあれこれ色目を使っている時間は(私には)惜しい。申命記30:11-14を読んでそう思った。
* * *
(新改訳第三版)
まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
◆5月29日
10ヶ月前、トラクト25号を発行してからひと月の間礼拝へ行けなかった。微熱が続いて(まだコロナへの不安感も強固で)休んだのだ。でもあれはあれで良かったと思ってる部分も。25号は丸山光氏のお歌の鑑賞を掲載し、牧師先生も巻頭言を入念に準備されて、コロナに照準を合わせた号になった。私は1ヶ月休んだからその余波は殆ど預かり知らぬが、トラクトの過剰評価の声があったのでは(今までの経験より)。人を奉り上げるところにサタンは働き易い(エフェソ2:2「空中に勢力を持つ者」)。礼拝の長期欠席は好ましくないが、教会員も人の偶像崇拝から守られたし、私も高慢の罪をおかすのを免れた。
前述のエフェソに加え、下記も心に留めたい
* * *
<新共同訳 ヤコブの手紙4:9>
悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
* * *
<新共同訳 アモス書7:14>
アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
◆5月30日
今日の礼拝説教聖句は昨年度から据置の年度聖句ホセア10:12。先生としては思い切って教会員に耳の痛いこと(神が教会に求めているのは伝道)を語ったと思う。でも教会員も伝えたくてもどうしたらいいか分からないのも事実。先生も方法論は正直グダグダだった。と言うか、これうちの教会だけの問題じゃないよね。先生は説教の中ではホセア10:12しか読まなかったけど、ホセア10章全体を見回して解き明かしをされたのだろう。協会共同訳10:13「あなたがたは…欺きの実を食べた。しかも、あなたは自分の振る舞いと 軍勢の多さを頼みとした」が個人的に刺さった。良く見える行いが利己的なのって結構あるから。
◆4月6日
<新改訳第三版 ルカの福音書24:39-43>
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
* * *
イエスに触りたかった人の多さを改めて思う。病人は癒されたかったから切実だったろうが、それ以外でもミーハー根性の人が多々。歪んだ精神の私は(まぁ皆んなよくもぬけぬけと…)と思ってしまうが。それを考えると「主よ、わたしをお離れください。わたしは罪びとです」と言ったペテロ(ルカ5:8)に私はシンパシーを感じる。でもイエスはそんなペテロを弟子として召し出すのだな。
◆4月10日
民数記9章。律法の定め通りに過越の儀式を守れなかった人々は、後ろめたさ等に押し潰されず、モーセとアロンに直々に訴え出た(私達だって主を礼拝したくなかったわけではない、と)。するとモーセは主に祈り、主は定められた日のひと月後に献げ物をするので良いと仰った。モーセも硬直化した考えの持ち主でなかったし、神も柔軟だった。
◆4月10日
民数記11章。マナに飽きて肉が食べたいという民の不平に、モーセは正直に主に訴える。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう…なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう…私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように…わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう」と。また現実的に肉をどこから得るのか、とも神に詰め寄り、重荷が大き過ぎる、こんな目に遭わせるなら私を殺して下さい、と。マジ率直すぎ。モーセはある意味理詰め。民は徒歩の男子だけで六十万、神は、彼ら全員に肉を与え、一月の間食べさせると仰るけれど、羊の群れ、牛の群れをほふっても、足りる?海の魚を全部集めても、足りる?と。それに対し主は「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と。
◆4月10日
民数記11章後半。モーセの負担軽減のため70人の長老を任命しようと召集をかけるが、二人が宿営に残っていて参集せず。だが神は彼らにも御霊を注ぎ、二人も預言状態に。その報告を受けたモーセの一番弟子ヨシュアはモーセに「彼らをやめさせてください」と請う。だがモーセはヨシュアに「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」と。モーセがそれだけ偉大だった、と考えるのは短絡的。神に特別に愛される素晴らしさを皆に味わってほしかったのでは
◆4月10日
ヨハネ福音書3章。洗礼者ヨハネの生き様に憧れる。『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』(28節)と述べ、自身を花嫁を迎える花婿の友人に喩えて、花婿(イエス)の声を聞くだけで喜びに満たされると。ヨハネの「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(30節)は本当にそう。私は日陰者でいいのだ、イエスの引き立て役でしかない、と
◆4月13日
今朝のゴミ出しBGMはネイサン・アウェアウの『One More Road』。ちょっと全体的にポップ過ぎるアルバムだけど、ネイサンの美声(地声からファルセットに駆け上がる時の滑らかさ)には溜め息。でもやっぱりハワイアン・フレーヴァーの漂ってる曲の方がネイサンの声が生きる気がする。
リチャード・マークスの「Now And Forever」のカバーもあった。〽︎ I will be your man……のところ聴いて、うーむと。イザヤ62:5「若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる」にうっとりする女性信徒もいるが 。そして「イエスと結婚したい!」と目をキラキラさせて言ったり。それを聞くと私は正直(汚らわしい……)と思う。イエスは清いのだ。結婚なんてとんでもない、と。私自身はイエスの下僕でいいと思ってる。イエスの御用に使っていただけるだけで有難い(ルカによる福音書17:10)。
◆4月16日
割とちゃんと眠れて、静坐不能症(静臥不能症と言うべきか)も出なかった。祈って下さっていた方のことを思う。
* * *
イエスは群衆からも(ヨハネ福音書7:20)、ユダヤ人達からも(ヨハネ福音書8:48,:52)「悪霊につかれている」と言われたのだな。私が実際に悪霊に取り憑かれているのだとしても、イエス様が私の苦しみを解って下さっているし、いつも共にいて下さるから、私にはそれだけで充分
◆4月19日
<新改訳第三版 ヨハネの福音書9:36>
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
* * *
見えなかった目を治していただいた人の言葉。(私は治して下さった方を知らない、でも信じられますように)で良いんだな。
◆4月19日
先週作業所で、聖書に関心あるお二人から「〜と聖書に書いてある」という言明を聞き、その間違いを糺した。おそらく牧師・神父・神学者など聖書に詳しい方が黙想や学究の末に得た知見を、お二人が聖書そのものと勘違いしたのだろう。牧師先生や神父様がご自分の生活や信徒さんの抱える問題のために神に必死で取りすがり得た考察は、確かに力があるけど、あくまで限定的なもの。それは御言葉そのものとは違う、と私は思う。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ヨハネの福音書6:45>
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
↓ ↓ ↓
私達は誰でも独りで聖書を学ぶのには限界がある。だから礼拝説教など人の学びに依拠せざるを得ないしその必要もある。でも神は、直々に主の許に学びに来るよう招いてるのでは。
◆4月21日
信徒にとっても天国へ行くって希望なのかな?私は正直わからない。私自身はイエスと一緒なら天国でも地獄でもいい。だがその点パウロは桁外れ
↓ ↓ ↓
<新共同訳ローマ9:3>
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています
◆4月22日
<新改訳第三版 ヨハネの福音書15:3-4>*4月27日礼拝説教聖句
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
* * *
マタイ7章の砂の土台と岩の土台の喩えは苦手だった。御言葉を行えてない感あったから。でもヨハネ15章読んで、御言葉の土台の上に生きるのは裁かれつつ怯えて暮らすのではないんだな、と初めて。御言葉にとどまる、って善行に励む、と言うより、いつもイエスの御顔を仰ぎイエスに聴いていくうちに、行いが育まれていくことなんだな、と。じゃなかったら主の足もとで御言葉に聞き入っていたマリヤに苛立つマルタに、マリヤから良い方を取り上げるな、とは仰らなかったろう(ルカ福音書10:38-42)
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ヨハネの福音書8:31-32>
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
<新改訳第三版 ルカの福音書24:39-43>
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
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イエスに触りたかった人の多さを改めて思う。病人は癒されたかったから切実だったろうが、それ以外でもミーハー根性の人が多々。歪んだ精神の私は(まぁ皆んなよくもぬけぬけと…)と思ってしまうが。それを考えると「主よ、わたしをお離れください。わたしは罪びとです」と言ったペテロ(ルカ5:8)に私はシンパシーを感じる。でもイエスはそんなペテロを弟子として召し出すのだな。
◆4月10日
民数記9章。律法の定め通りに過越の儀式を守れなかった人々は、後ろめたさ等に押し潰されず、モーセとアロンに直々に訴え出た(私達だって主を礼拝したくなかったわけではない、と)。するとモーセは主に祈り、主は定められた日のひと月後に献げ物をするので良いと仰った。モーセも硬直化した考えの持ち主でなかったし、神も柔軟だった。
◆4月10日
民数記11章。マナに飽きて肉が食べたいという民の不平に、モーセは正直に主に訴える。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう…なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう…私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように…わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう」と。また現実的に肉をどこから得るのか、とも神に詰め寄り、重荷が大き過ぎる、こんな目に遭わせるなら私を殺して下さい、と。マジ率直すぎ。モーセはある意味理詰め。民は徒歩の男子だけで六十万、神は、彼ら全員に肉を与え、一月の間食べさせると仰るけれど、羊の群れ、牛の群れをほふっても、足りる?海の魚を全部集めても、足りる?と。それに対し主は「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と。
◆4月10日
民数記11章後半。モーセの負担軽減のため70人の長老を任命しようと召集をかけるが、二人が宿営に残っていて参集せず。だが神は彼らにも御霊を注ぎ、二人も預言状態に。その報告を受けたモーセの一番弟子ヨシュアはモーセに「彼らをやめさせてください」と請う。だがモーセはヨシュアに「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」と。モーセがそれだけ偉大だった、と考えるのは短絡的。神に特別に愛される素晴らしさを皆に味わってほしかったのでは
◆4月10日
ヨハネ福音書3章。洗礼者ヨハネの生き様に憧れる。『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』(28節)と述べ、自身を花嫁を迎える花婿の友人に喩えて、花婿(イエス)の声を聞くだけで喜びに満たされると。ヨハネの「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(30節)は本当にそう。私は日陰者でいいのだ、イエスの引き立て役でしかない、と
◆4月13日
今朝のゴミ出しBGMはネイサン・アウェアウの『One More Road』。ちょっと全体的にポップ過ぎるアルバムだけど、ネイサンの美声(地声からファルセットに駆け上がる時の滑らかさ)には溜め息。でもやっぱりハワイアン・フレーヴァーの漂ってる曲の方がネイサンの声が生きる気がする。
リチャード・マークスの「Now And Forever」のカバーもあった。〽︎ I will be your man……のところ聴いて、うーむと。イザヤ62:5「若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる」にうっとりする女性信徒もいるが 。そして「イエスと結婚したい!」と目をキラキラさせて言ったり。それを聞くと私は正直(汚らわしい……)と思う。イエスは清いのだ。結婚なんてとんでもない、と。私自身はイエスの下僕でいいと思ってる。イエスの御用に使っていただけるだけで有難い(ルカによる福音書17:10)。
◆4月16日
割とちゃんと眠れて、静坐不能症(静臥不能症と言うべきか)も出なかった。祈って下さっていた方のことを思う。
* * *
イエスは群衆からも(ヨハネ福音書7:20)、ユダヤ人達からも(ヨハネ福音書8:48,:52)「悪霊につかれている」と言われたのだな。私が実際に悪霊に取り憑かれているのだとしても、イエス様が私の苦しみを解って下さっているし、いつも共にいて下さるから、私にはそれだけで充分
◆4月19日
<新改訳第三版 ヨハネの福音書9:36>
その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
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見えなかった目を治していただいた人の言葉。(私は治して下さった方を知らない、でも信じられますように)で良いんだな。
◆4月19日
先週作業所で、聖書に関心あるお二人から「〜と聖書に書いてある」という言明を聞き、その間違いを糺した。おそらく牧師・神父・神学者など聖書に詳しい方が黙想や学究の末に得た知見を、お二人が聖書そのものと勘違いしたのだろう。牧師先生や神父様がご自分の生活や信徒さんの抱える問題のために神に必死で取りすがり得た考察は、確かに力があるけど、あくまで限定的なもの。それは御言葉そのものとは違う、と私は思う。
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<新改訳第三版 ヨハネの福音書6:45>
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
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私達は誰でも独りで聖書を学ぶのには限界がある。だから礼拝説教など人の学びに依拠せざるを得ないしその必要もある。でも神は、直々に主の許に学びに来るよう招いてるのでは。
◆4月21日
信徒にとっても天国へ行くって希望なのかな?私は正直わからない。私自身はイエスと一緒なら天国でも地獄でもいい。だがその点パウロは桁外れ
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<新共同訳ローマ9:3>
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています
◆4月22日
<新改訳第三版 ヨハネの福音書15:3-4>*4月27日礼拝説教聖句
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
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マタイ7章の砂の土台と岩の土台の喩えは苦手だった。御言葉を行えてない感あったから。でもヨハネ15章読んで、御言葉の土台の上に生きるのは裁かれつつ怯えて暮らすのではないんだな、と初めて。御言葉にとどまる、って善行に励む、と言うより、いつもイエスの御顔を仰ぎイエスに聴いていくうちに、行いが育まれていくことなんだな、と。じゃなかったら主の足もとで御言葉に聞き入っていたマリヤに苛立つマルタに、マリヤから良い方を取り上げるな、とは仰らなかったろう(ルカ福音書10:38-42)
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<新改訳第三版 ヨハネの福音書8:31-32>
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
◆3月3日
それにしても耳鳴りがひどい。今はまだ聴力的には周囲の人よりよく聴こえているようだが、今後どうなるかなぁ。あまり聴こえなくなる前に、曲の鑑賞も書いておきたい。まぁ尤も、視力だって保証されてるわけじゃないけど。
ちなみに一曲鑑賞は、ゴスペルやCCMについてのみ書くつもりです(日本語詞の場合)。讃美歌について書くかは分からない(ある意味で排除的な部分もあるし、俗っぽい私が口を挟む余地があるか、かなり疑問なので)。
↓ ↓ ↓
★3月7日礼拝の交読詩編より
<新共同訳 詩編86:11>
主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。
◆3月4日
トラクト次号は勝負に出た(越権行為系)。マタイ18:2-5を扉絵に添える聖句に選んだ。コロナ禍で「子どもの礼拝」が休止になってる苦しさの中で、牧師先生に「子ども」のことに向き合っていただきたく敢えてそうした。無難な巻頭言で逃げてほしくなく外堀を埋めた。牧師夫妻に子どもはいない。牧師先生にはガチで呻吟してほしいと願ってる。悪魔っぽいかもね、私。でも、「気持ちんよかぁ〜」な信仰は要らない、そんなもので人は救われない、と思ってる。私はリアリストだ。
◆3月8日
めっさ調子悪い……つか、鎮静剤が少し前より効き過ぎるんだなぁ。だから総じて言えば、精神症状的には落ち着いてきているんだろうけど。ちょっとテンション高めだなと鎮静剤を少し重くすると、長時間に亘ってぐったり(頓服的な使用が難しくなってる)。薬や飲み物の加減、はたまたは聴く音楽やラジオ番組で体調をコントロールしようとしがちだが、もっと日々主に心を預けることを神は願っていらっしゃるのかもなぁ。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ペテロ⑴5:6-7>
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
◆3月10日
昨日作業所で、自称クリスチャンと話し込んだ(未受洗。神は信じてるがイエスを知らな過ぎる方)。私が「女だから暴力を受けた。男性を呪いながら育った」と改めて話したら吃驚してた。伝わってなかったか?そして私としてはもう父も兄も赦したつもりでいたが、まだ傷が癒えていないことがわかった。私から醸し出されてる神は、憐みよりも滅ぼす系のイメージだということもわかった。
↓ ↓ ↓
<岩波翻訳委員会訳 マタイ16:24-25>
そののちイエスは、その弟子たちに言った、「もし人が私の後ろから来たいと望むならば、自分自身を否み、自分の十字架を担って私に従って来るがよい。実に、自分のいのちを救おうと欲する者はそれを滅ぼすであろう。しかし、自分のいのちを私のために滅ぼす者は、それを見いだすであろう。
(FEBC Today 3/10の「今日の聖書」より)
* * *
FEBC Todayを8回くらい繰り返し聴いた(そのくらい飲み込みにくい内容だった)。蓮見和男先生の「ペトロのように自分を捨てないでもイエスに従って行けると思う者は、ついにイエスを捨てるのです。イエスを捨て、十字架を捨て、果たして自分を全うしたことになるでしょうか」という言葉が刺さった。
↓ ↓ ↓
【拙歌引用】
恋のたび病める心を御しがたく平城山のふし噛みしめている
(2007年10月22日 作歌、2019年2月5日 改作)
* * *
これは「恋の病」なんていう甘やかなものではない。恋すれば(あるいは恋に巻き込まれれば)文字通り精神を病むのである。
↓ ↓ ↓
私は聖句の「自分を捨てる」を禁欲的になることと浅く解して自分(の精神状態)を守り、男性への憎しみを解くことを怠ってきたのだな……。一朝一夕に男性を赦すのは困難。また世の中の愛と神の愛は全く違う。だから、世に渦巻いている誘惑に取り込まれないようにしつつ、心の目を開いていかなくては
◆3月12日
<新改訳第三版 ペテロ⑴4:12-13>
…あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
* * *
12時過ぎに作業所に休みの連絡。熱とか不眠とか体裁のいい事由でなく、被害妄想が強くヘッドバンギング系(ただし上下でなく左右の首振り)の静坐不能症が出ると、初めてはっきり言った。見た目“取り憑かれ“系なので今まで説明してこなかった。通所の際に詳しく訊かれたら〈実演〉の必要が出てくるか…?職員は〈薬〉信奉者なので、異常行動と見れば、症状を抑え込む薬の処方をしてもらうように要求するだろう。下手すると、古典的な電気痙攣療法にまで持って行かれるかもしれない……と思うと恐怖だったのだ。
◆3月13日
今朝は、New Living Translationで humiliate を検索し、該当箇所を全て新改訳第三版で見ていった。内の一つ、申命記21:14では捕虜の女性を妻にし、別れる場合について書いてある。(You may not sell her or treat her as a slave, for you have humiliated her.)
↓ ↓ ↓
〈have humiliated her〉は新改訳で〈すでに彼女を意のままにした〉。そう言えば神様は、人間を必要に応じて遜らせるが、意のままにしようとは決してなさらないよな。
◆3月13日
★3月14日の礼拝の交読詩篇より
<新改訳第三版 詩篇145:6>
人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。
* * *
明日も礼拝行きたくなってきた。義務とか人がとやかく言うからではなく。勿論多少の人疲れはあるけど、礼拝で御言葉きくのは私にとって栄養補給なんだ。
◆3月19日
今日は作業所で1月〜3月生まれの人をお祝いする誕生会があった。複数の選択肢から好きなものを選べる。私はお寿司にした。他の方はデザートで苺大福とワッフルがついたが、私はこちらの希望で無しにしていただいた(精神科医から間食しないよう言われてるので)。
* * *
<新改訳第三版 ルカの福音書11:35>
だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
↓ ↓ ↓
通読で凄く引っかかる聖句でコピペしてあった。聖書で言う光(良いもの)が暗闇になるってどういうことだろうなぁ、と。
* * *
私は午前中失言を。飲食とイベントが大好きなネブカドネツァルが現所長に「デザート選んだの◯◯さん(所長)ですか?」とテンション高めで訊いてたので、つい「そんな下らないこと…色々やることあって忙しいから他の職員に任せてるでしょうに」と言ったら、「下らなくないよ。皆で話し合ったよ」と所長。引っ込みがつかなくなった私は、Twitterの「イヤな短歌会」で発表した
できるなら霞を食べて暮らしたい食べたい時はただのストレス
の拙歌について話し、飢餓感ある時以外で食べたいと思うのは、ヤケ食いで自分の身体を痛めつけてストレスを忘れようとする時だ、と放言。
けどその後、ちょっとヤバいこと言ったかなぁ、と「でもイエスは大食漢で大酒飲みという噂を立てられてたんですよ。私よりよっぽど人間的です」と、フォローみたいに言った(ルカによる福音書7:34)。私は件の短歌で、クラゲのあだ名がついたのも打ち明けた。
帰宅後振り返って下記聖句が浮かんだ。
<協会共同訳コリント⑴8:1-2>
…私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです。しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねばならないように知ってはいないのです。
<協会共同訳コリント⑴8:9>
ただ、あなたがたのこの強さが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい。
◆3月26日
バテバテ……ここ2週ほど頑張り過ぎたか?通所・散文アウトプット・手紙書きなど。礼拝も5週間休まず行ってるし。キャパの小ささに比べインプット多過ぎかも(感度良くなってるとは決して思えないが)。でも明後日の棕櫚の主日は礼拝休みたくない……ゆとりを与えて下さい、と子どものような心で祈るかな
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 詩篇4:1>
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
◆3月27日
やりたいこと、やるべきこと、日常の生活、などで手一杯でダウンしてしまうことがここのところ多い。臨機応変に行うのが難しいタチなので、ダウンした時にiPhoneでスケジュールの組み直しをするが、最近はどの案件も〈緊急〉顔で迫ってくる感じで、リスケジューリングしててもクラクラする。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 箴言16:9>
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。
* * *
ああ、そうだ、一歩一歩を守って下さる主に頼らなきゃ、と。
◆3月30日
ミィが木登りしてる絵って、この切手シートだけじゃなく、グッズとかでも相当あるみたい。原作にもそういうシーンがあるのかな?このミィを見て、何となくザアカイが木に登る聖書箇所(ルカの福音書19章)を思い出していた。
受洗してすぐの頃まだかなり世的で節制の取れた生活ができておらず、周りの信徒から色々責められて行き詰まってた。そしたら聖霊だったのだろう、(今聖書を開きなさい、私が教えるから)というような促しが降りてきて、わけもわからず聖書を開いた。そしてぶち当たったのがザアカイの箇所だった。
ザアカイは取税人のかしらで皆が忌避。イエスに興味はあったが直接話しかける勇気もなく、ザアカイは主を見ようと木に登った。するとイエスから「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と。人々は「あの方は罪人のところに行って客となられた」と悪口を。
私の受洗後、大学の後輩で信徒としては先輩の人に「◯◯がクリスチャンになるとは思わなかった」と言われた。彼女と私の初めての遭遇は、ジャズのビッグバンドの部室に彼女が見学に来たところ、私が部室のソファで眠っていたというもの。彼女は内心顔を顰めたらしい。(女性なの?なんて下品な…)と。
私はおよそ人が友達になりたがるタイプではなかった。神の直の促しでザアカイの聖句に目が開かれ、「あなたを教会に呼んだのは私(=イエス)だよ。人が呼んだんじゃない」と言われた気がした。ザアカイの物語が聖書になかったら、私は今でも教会に繋がってはいなかっただろう。
それにしても耳鳴りがひどい。今はまだ聴力的には周囲の人よりよく聴こえているようだが、今後どうなるかなぁ。あまり聴こえなくなる前に、曲の鑑賞も書いておきたい。まぁ尤も、視力だって保証されてるわけじゃないけど。
ちなみに一曲鑑賞は、ゴスペルやCCMについてのみ書くつもりです(日本語詞の場合)。讃美歌について書くかは分からない(ある意味で排除的な部分もあるし、俗っぽい私が口を挟む余地があるか、かなり疑問なので)。
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★3月7日礼拝の交読詩編より
<新共同訳 詩編86:11>
主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。
◆3月4日
トラクト次号は勝負に出た(越権行為系)。マタイ18:2-5を扉絵に添える聖句に選んだ。コロナ禍で「子どもの礼拝」が休止になってる苦しさの中で、牧師先生に「子ども」のことに向き合っていただきたく敢えてそうした。無難な巻頭言で逃げてほしくなく外堀を埋めた。牧師夫妻に子どもはいない。牧師先生にはガチで呻吟してほしいと願ってる。悪魔っぽいかもね、私。でも、「気持ちんよかぁ〜」な信仰は要らない、そんなもので人は救われない、と思ってる。私はリアリストだ。
◆3月8日
めっさ調子悪い……つか、鎮静剤が少し前より効き過ぎるんだなぁ。だから総じて言えば、精神症状的には落ち着いてきているんだろうけど。ちょっとテンション高めだなと鎮静剤を少し重くすると、長時間に亘ってぐったり(頓服的な使用が難しくなってる)。薬や飲み物の加減、はたまたは聴く音楽やラジオ番組で体調をコントロールしようとしがちだが、もっと日々主に心を預けることを神は願っていらっしゃるのかもなぁ。
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<新改訳第三版 ペテロ⑴5:6-7>
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
◆3月10日
昨日作業所で、自称クリスチャンと話し込んだ(未受洗。神は信じてるがイエスを知らな過ぎる方)。私が「女だから暴力を受けた。男性を呪いながら育った」と改めて話したら吃驚してた。伝わってなかったか?そして私としてはもう父も兄も赦したつもりでいたが、まだ傷が癒えていないことがわかった。私から醸し出されてる神は、憐みよりも滅ぼす系のイメージだということもわかった。
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<岩波翻訳委員会訳 マタイ16:24-25>
そののちイエスは、その弟子たちに言った、「もし人が私の後ろから来たいと望むならば、自分自身を否み、自分の十字架を担って私に従って来るがよい。実に、自分のいのちを救おうと欲する者はそれを滅ぼすであろう。しかし、自分のいのちを私のために滅ぼす者は、それを見いだすであろう。
(FEBC Today 3/10の「今日の聖書」より)
* * *
FEBC Todayを8回くらい繰り返し聴いた(そのくらい飲み込みにくい内容だった)。蓮見和男先生の「ペトロのように自分を捨てないでもイエスに従って行けると思う者は、ついにイエスを捨てるのです。イエスを捨て、十字架を捨て、果たして自分を全うしたことになるでしょうか」という言葉が刺さった。
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【拙歌引用】
恋のたび病める心を御しがたく平城山のふし噛みしめている
(2007年10月22日 作歌、2019年2月5日 改作)
* * *
これは「恋の病」なんていう甘やかなものではない。恋すれば(あるいは恋に巻き込まれれば)文字通り精神を病むのである。
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私は聖句の「自分を捨てる」を禁欲的になることと浅く解して自分(の精神状態)を守り、男性への憎しみを解くことを怠ってきたのだな……。一朝一夕に男性を赦すのは困難。また世の中の愛と神の愛は全く違う。だから、世に渦巻いている誘惑に取り込まれないようにしつつ、心の目を開いていかなくては
◆3月12日
<新改訳第三版 ペテロ⑴4:12-13>
…あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
* * *
12時過ぎに作業所に休みの連絡。熱とか不眠とか体裁のいい事由でなく、被害妄想が強くヘッドバンギング系(ただし上下でなく左右の首振り)の静坐不能症が出ると、初めてはっきり言った。見た目“取り憑かれ“系なので今まで説明してこなかった。通所の際に詳しく訊かれたら〈実演〉の必要が出てくるか…?職員は〈薬〉信奉者なので、異常行動と見れば、症状を抑え込む薬の処方をしてもらうように要求するだろう。下手すると、古典的な電気痙攣療法にまで持って行かれるかもしれない……と思うと恐怖だったのだ。
◆3月13日
今朝は、New Living Translationで humiliate を検索し、該当箇所を全て新改訳第三版で見ていった。内の一つ、申命記21:14では捕虜の女性を妻にし、別れる場合について書いてある。(You may not sell her or treat her as a slave, for you have humiliated her.)
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〈have humiliated her〉は新改訳で〈すでに彼女を意のままにした〉。そう言えば神様は、人間を必要に応じて遜らせるが、意のままにしようとは決してなさらないよな。
◆3月13日
★3月14日の礼拝の交読詩篇より
<新改訳第三版 詩篇145:6>
人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。
* * *
明日も礼拝行きたくなってきた。義務とか人がとやかく言うからではなく。勿論多少の人疲れはあるけど、礼拝で御言葉きくのは私にとって栄養補給なんだ。
◆3月19日
今日は作業所で1月〜3月生まれの人をお祝いする誕生会があった。複数の選択肢から好きなものを選べる。私はお寿司にした。他の方はデザートで苺大福とワッフルがついたが、私はこちらの希望で無しにしていただいた(精神科医から間食しないよう言われてるので)。
* * *
<新改訳第三版 ルカの福音書11:35>
だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
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通読で凄く引っかかる聖句でコピペしてあった。聖書で言う光(良いもの)が暗闇になるってどういうことだろうなぁ、と。
* * *
私は午前中失言を。飲食とイベントが大好きなネブカドネツァルが現所長に「デザート選んだの◯◯さん(所長)ですか?」とテンション高めで訊いてたので、つい「そんな下らないこと…色々やることあって忙しいから他の職員に任せてるでしょうに」と言ったら、「下らなくないよ。皆で話し合ったよ」と所長。引っ込みがつかなくなった私は、Twitterの「イヤな短歌会」で発表した
できるなら霞を食べて暮らしたい食べたい時はただのストレス
の拙歌について話し、飢餓感ある時以外で食べたいと思うのは、ヤケ食いで自分の身体を痛めつけてストレスを忘れようとする時だ、と放言。
けどその後、ちょっとヤバいこと言ったかなぁ、と「でもイエスは大食漢で大酒飲みという噂を立てられてたんですよ。私よりよっぽど人間的です」と、フォローみたいに言った(ルカによる福音書7:34)。私は件の短歌で、クラゲのあだ名がついたのも打ち明けた。
帰宅後振り返って下記聖句が浮かんだ。
<協会共同訳コリント⑴8:1-2>
…私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです。しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねばならないように知ってはいないのです。
<協会共同訳コリント⑴8:9>
ただ、あなたがたのこの強さが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい。
◆3月26日
バテバテ……ここ2週ほど頑張り過ぎたか?通所・散文アウトプット・手紙書きなど。礼拝も5週間休まず行ってるし。キャパの小ささに比べインプット多過ぎかも(感度良くなってるとは決して思えないが)。でも明後日の棕櫚の主日は礼拝休みたくない……ゆとりを与えて下さい、と子どものような心で祈るかな
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<新改訳第三版 詩篇4:1>
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
◆3月27日
やりたいこと、やるべきこと、日常の生活、などで手一杯でダウンしてしまうことがここのところ多い。臨機応変に行うのが難しいタチなので、ダウンした時にiPhoneでスケジュールの組み直しをするが、最近はどの案件も〈緊急〉顔で迫ってくる感じで、リスケジューリングしててもクラクラする。
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<新改訳第三版 箴言16:9>
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。
* * *
ああ、そうだ、一歩一歩を守って下さる主に頼らなきゃ、と。
◆3月30日
ミィが木登りしてる絵って、この切手シートだけじゃなく、グッズとかでも相当あるみたい。原作にもそういうシーンがあるのかな?このミィを見て、何となくザアカイが木に登る聖書箇所(ルカの福音書19章)を思い出していた。
受洗してすぐの頃まだかなり世的で節制の取れた生活ができておらず、周りの信徒から色々責められて行き詰まってた。そしたら聖霊だったのだろう、(今聖書を開きなさい、私が教えるから)というような促しが降りてきて、わけもわからず聖書を開いた。そしてぶち当たったのがザアカイの箇所だった。
ザアカイは取税人のかしらで皆が忌避。イエスに興味はあったが直接話しかける勇気もなく、ザアカイは主を見ようと木に登った。するとイエスから「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と。人々は「あの方は罪人のところに行って客となられた」と悪口を。
私の受洗後、大学の後輩で信徒としては先輩の人に「◯◯がクリスチャンになるとは思わなかった」と言われた。彼女と私の初めての遭遇は、ジャズのビッグバンドの部室に彼女が見学に来たところ、私が部室のソファで眠っていたというもの。彼女は内心顔を顰めたらしい。(女性なの?なんて下品な…)と。
私はおよそ人が友達になりたがるタイプではなかった。神の直の促しでザアカイの聖句に目が開かれ、「あなたを教会に呼んだのは私(=イエス)だよ。人が呼んだんじゃない」と言われた気がした。ザアカイの物語が聖書になかったら、私は今でも教会に繋がってはいなかっただろう。
[★2017年5月18日の通読感想より]
教会員に凄く裁く人がいる。まさに〈背負いきれない重荷を人の肩に載せ、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない人〉(マタイ23:4)だが、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒10:15)と仰るのだろう。心したい。
↓ ↓ ↓
◆2月1日
この方が先月末に亡くなったと昨日の礼拝後の報告で知った。家族葬を教会で土曜にしたらしい。牧師がこの方のため祈って下さったが皆さんショックで泣いていた。晩年◯害に近くて辟易してたが、やはり神の家族だったのだ。内心疎んでいた自分の憐みのなさを見せつけられた気がした。
◆2月5日
それはそうと、明後日は礼拝当番なのである。前回の当番時には熱で休んでしまったので、できるだけ行かねばと思う。作業所休んだくせに礼拝は行っちゃって……!と後で腐されそうだから、今日は通所したかったが。行動の整合性ばかり気にしている私は、統合失調症らしいのか否か。
* * *
<新共同訳コリント⑴4:3-4>
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
* * *
<新共同訳マタイによる福音書7:2>
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(まさにこうなっている。もう少し人を信頼しても良いのかも。)
◆2月9日
出エジプト記2章。モーセはどこでも余所者。出自のヘブル人を庇いエジプト人を殺してしまった翌日、ヘブル人同士の争いを諫めると、私も殺すつもりかとヘブル人のかたわれに煙たがられ、それを聞きつけた養父ファラオに命を狙われる。逃亡先ミディアンでは「エジプト人の羊飼い」と。寄留者の悲しみと、思わぬ恵みをモーセは知っていた。
◆2月20日
新改訳第三版詩篇91篇(2月21日礼拝の交読詩篇)
:4節
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
:11節
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
:14-15節
彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
↓ ↓ ↓
詩篇91篇、13節までと14節以降では主体(および目的格)が切り替わる。13節までは「主」「あなた」が中心だが、14節以降は「彼」「わたし(=主)」が中心。「あなた」をこのように支えて下さる主ご自身が、気づかぬうちに心の奥で主を慕っている「彼」を引き上げて下さるんだな。
【★2月14日にTwitterに公開した即詠(下の句がお題の付け句)】
そんなにも君はどうして優しいのいたずら好きの神様のせい
↓ ↓ ↓
◆2月20日
<新改訳第三版ヤコブ1章(2月21日礼拝説教聖句)>
:13-14節
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
↓ ↓ ↓
「いたずら好きの神様のせい」なんて、言葉遊びでも歌にしてしまったからなのかな?この一週間は心に覆いが掛かったようで苦しかった。本当に「魔が差」した感じ。明日は体調など守られて礼拝へ行けて、説教を聴き録音もしてこられますように。
◆2月24日
<新改訳第三版マルコ11:28>
そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
(*神殿で商売していた者らを追い払ったり、教えたりしていたイエスに祭司長らが言った言葉)
↓ ↓ ↓
作業所でメンバーに根本的な質問をされて、直裁的な答えをすることあり。訊いてきた当人には役立つが、時に独断が強く周りがギョッとしてるフシも。もちろん私も分かる範囲で答えてるに過ぎないのだが。ただなるべく聖句に拠って立つようにはしてる。意識の根底には下記の二つの聖句あり。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ヨハネ福音書12:48>
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
(注)「わたし」←イエス
* * *
<新改訳第三版 ヤコブ2:12>
自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。
◆2月24日
<協会共同訳 詩編22:26-27(2月28日礼拝の交読詩編)>
大いなる集会で、私の賛美があなたから出る。 主を畏れる人々の前で、私は誓いを果たそう。苦しむ人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美する。 あなたがたの心がいつまでも健やかであるように。
↓ ↓ ↓
「私の賛美」は、内心そう思えないところを努力してでっち上げるものではない。神が私の心に授けて下さるもの。だから多くの詩編の、包み隠さず述べた呻吟や、災いをもたらした人を呪うような言葉でも、主はそれこそまことの心と受け容れて下さり、吐き出したことで空になった心に賛美を授けて下さるんだな
◆2月27日
<新改訳第三版 ローマ人への手紙5章(2月28日の礼拝説教聖句)>
:6-7節
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
↓ ↓ ↓
昨日の朝まで実は、明日の日曜礼拝は休むつもりでいた。日曜に風呂掃除をして、月曜に精神科受診、水曜に牧師先生にトラクト巻頭言依頼メールをする腹づもりだった。でも、やはりこの聖句を自分のこれまでの理解を超えて深く知りたいと思い、スケジュールを大幅に組み直し。ちゃんと出席できますように
教会員に凄く裁く人がいる。まさに〈背負いきれない重荷を人の肩に載せ、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない人〉(マタイ23:4)だが、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒10:15)と仰るのだろう。心したい。
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◆2月1日
この方が先月末に亡くなったと昨日の礼拝後の報告で知った。家族葬を教会で土曜にしたらしい。牧師がこの方のため祈って下さったが皆さんショックで泣いていた。晩年◯害に近くて辟易してたが、やはり神の家族だったのだ。内心疎んでいた自分の憐みのなさを見せつけられた気がした。
◆2月5日
それはそうと、明後日は礼拝当番なのである。前回の当番時には熱で休んでしまったので、できるだけ行かねばと思う。作業所休んだくせに礼拝は行っちゃって……!と後で腐されそうだから、今日は通所したかったが。行動の整合性ばかり気にしている私は、統合失調症らしいのか否か。
* * *
<新共同訳コリント⑴4:3-4>
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
* * *
<新共同訳マタイによる福音書7:2>
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(まさにこうなっている。もう少し人を信頼しても良いのかも。)
◆2月9日
出エジプト記2章。モーセはどこでも余所者。出自のヘブル人を庇いエジプト人を殺してしまった翌日、ヘブル人同士の争いを諫めると、私も殺すつもりかとヘブル人のかたわれに煙たがられ、それを聞きつけた養父ファラオに命を狙われる。逃亡先ミディアンでは「エジプト人の羊飼い」と。寄留者の悲しみと、思わぬ恵みをモーセは知っていた。
◆2月20日
新改訳第三版詩篇91篇(2月21日礼拝の交読詩篇)
:4節
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
:11節
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
:14-15節
彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
↓ ↓ ↓
詩篇91篇、13節までと14節以降では主体(および目的格)が切り替わる。13節までは「主」「あなた」が中心だが、14節以降は「彼」「わたし(=主)」が中心。「あなた」をこのように支えて下さる主ご自身が、気づかぬうちに心の奥で主を慕っている「彼」を引き上げて下さるんだな。
【★2月14日にTwitterに公開した即詠(下の句がお題の付け句)】
そんなにも君はどうして優しいのいたずら好きの神様のせい
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◆2月20日
<新改訳第三版ヤコブ1章(2月21日礼拝説教聖句)>
:13-14節
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
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「いたずら好きの神様のせい」なんて、言葉遊びでも歌にしてしまったからなのかな?この一週間は心に覆いが掛かったようで苦しかった。本当に「魔が差」した感じ。明日は体調など守られて礼拝へ行けて、説教を聴き録音もしてこられますように。
◆2月24日
<新改訳第三版マルコ11:28>
そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
(*神殿で商売していた者らを追い払ったり、教えたりしていたイエスに祭司長らが言った言葉)
↓ ↓ ↓
作業所でメンバーに根本的な質問をされて、直裁的な答えをすることあり。訊いてきた当人には役立つが、時に独断が強く周りがギョッとしてるフシも。もちろん私も分かる範囲で答えてるに過ぎないのだが。ただなるべく聖句に拠って立つようにはしてる。意識の根底には下記の二つの聖句あり。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ヨハネ福音書12:48>
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
(注)「わたし」←イエス
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<新改訳第三版 ヤコブ2:12>
自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。
◆2月24日
<協会共同訳 詩編22:26-27(2月28日礼拝の交読詩編)>
大いなる集会で、私の賛美があなたから出る。 主を畏れる人々の前で、私は誓いを果たそう。苦しむ人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美する。 あなたがたの心がいつまでも健やかであるように。
↓ ↓ ↓
「私の賛美」は、内心そう思えないところを努力してでっち上げるものではない。神が私の心に授けて下さるもの。だから多くの詩編の、包み隠さず述べた呻吟や、災いをもたらした人を呪うような言葉でも、主はそれこそまことの心と受け容れて下さり、吐き出したことで空になった心に賛美を授けて下さるんだな
◆2月27日
<新改訳第三版 ローマ人への手紙5章(2月28日の礼拝説教聖句)>
:6-7節
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
↓ ↓ ↓
昨日の朝まで実は、明日の日曜礼拝は休むつもりでいた。日曜に風呂掃除をして、月曜に精神科受診、水曜に牧師先生にトラクト巻頭言依頼メールをする腹づもりだった。でも、やはりこの聖句を自分のこれまでの理解を超えて深く知りたいと思い、スケジュールを大幅に組み直し。ちゃんと出席できますように
◆1月7日
新改訳第三版 マタイ5:44「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。そうは言っても…の御言葉。けれど「あんな◯◯さんのために祈れません」でも良いのだろう。自分にセクハラやパワハラしてくる人に愛の篭った祈り等できる方が変。神もそれは承知済み
◆1月11日
新改訳第三版 創世記15:5-6「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。彼(アブラム。後のアブラハム)には約束の内容は信じ難かっただろう。でもアブラムは、彼を満天の星の下に呼んでヴィジョンを見せた、神そのお方自身を信じた。それを主は義とお認めになったんだなぁ。
◆1月18日
最寄り図書館で『大菩薩峠』のDVDを借りた。ブクログ登録し、このDVDパッケージの謳い文句[狂笑]を初めて見てちょっと安心(あまりに出来過ぎな映画で、後半正直ちょっと笑ってしまったから)。大真面目なことがお笑いっぽくなるのってあるけど、私が実人生で高笑いが出がちで日中鎮静剤飲むのもそんな感じ。実は『大菩薩峠』を教えて下さったのは、所属教会の信徒で元牧師夫人(夫君は故人)。本は大長編すぎてとても無理と思ったけど、DVDなら何とかなるかなぁと。少し前にフォロイーMさんが大菩薩峠のことをポロッと言ってたのも、観賞時期を早めるきっかけになった。ありがとうございます。
* * *
<新共同訳 創世記21:6>
サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を 共にしてくれるでしょう。」
<新改訳第三版 同節>
サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
* * *
大真面目に〈人生ギャグ〉をやってる私を神様は笑って下さるだろうか?
* * *
<新共同訳ルカによる福音書3:8>
悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
* * *
私は石ころだけど、神様笑ってね!という感じ
◆1月20日
新改訳第三版 詩篇16:3「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります」。Twitterは色々精神的にキツい部分もあるが、それを補って余りある魅力は、クリスチャンとの交流。信徒各々の神様との関係をシェアしてもらえるのは最上の恵みだ
◆1月20日
新改訳第三版 詩篇16:5「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます」。〈ゆずりの地所〉は受け継ぐ土地、〈杯〉は文語訳では「酒杯」。そう、主ご自身がそれほどに素晴らしいもの(方)なんだ。酒豪でない私が語っても説得力ないかも、だが
◆1月24日
<新共同訳テモテ⑵2:13-14>
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。
* * *
ただ刺さる。私の言葉で松木さんが破滅しては困る。この聖句を思い出したのは、FEBC日曜礼拝番組【全地よ主をほめたたえよ1/24】石垣弘毅先生の「永遠のいのち」を聴いたから。石垣師の説教は御言葉に真摯に向き合う本音メッセージで、私の盲点を見せて下さる
新改訳第三版 マタイ5:44「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。そうは言っても…の御言葉。けれど「あんな◯◯さんのために祈れません」でも良いのだろう。自分にセクハラやパワハラしてくる人に愛の篭った祈り等できる方が変。神もそれは承知済み
◆1月11日
新改訳第三版 創世記15:5-6「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。彼(アブラム。後のアブラハム)には約束の内容は信じ難かっただろう。でもアブラムは、彼を満天の星の下に呼んでヴィジョンを見せた、神そのお方自身を信じた。それを主は義とお認めになったんだなぁ。
◆1月18日
最寄り図書館で『大菩薩峠』のDVDを借りた。ブクログ登録し、このDVDパッケージの謳い文句[狂笑]を初めて見てちょっと安心(あまりに出来過ぎな映画で、後半正直ちょっと笑ってしまったから)。大真面目なことがお笑いっぽくなるのってあるけど、私が実人生で高笑いが出がちで日中鎮静剤飲むのもそんな感じ。実は『大菩薩峠』を教えて下さったのは、所属教会の信徒で元牧師夫人(夫君は故人)。本は大長編すぎてとても無理と思ったけど、DVDなら何とかなるかなぁと。少し前にフォロイーMさんが大菩薩峠のことをポロッと言ってたのも、観賞時期を早めるきっかけになった。ありがとうございます。
* * *
<新共同訳 創世記21:6>
サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を 共にしてくれるでしょう。」
<新改訳第三版 同節>
サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
* * *
大真面目に〈人生ギャグ〉をやってる私を神様は笑って下さるだろうか?
* * *
<新共同訳ルカによる福音書3:8>
悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
* * *
私は石ころだけど、神様笑ってね!という感じ
◆1月20日
新改訳第三版 詩篇16:3「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります」。Twitterは色々精神的にキツい部分もあるが、それを補って余りある魅力は、クリスチャンとの交流。信徒各々の神様との関係をシェアしてもらえるのは最上の恵みだ
◆1月20日
新改訳第三版 詩篇16:5「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます」。〈ゆずりの地所〉は受け継ぐ土地、〈杯〉は文語訳では「酒杯」。そう、主ご自身がそれほどに素晴らしいもの(方)なんだ。酒豪でない私が語っても説得力ないかも、だが
◆1月24日
<新共同訳テモテ⑵2:13-14>
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。
* * *
ただ刺さる。私の言葉で松木さんが破滅しては困る。この聖句を思い出したのは、FEBC日曜礼拝番組【全地よ主をほめたたえよ1/24】石垣弘毅先生の「永遠のいのち」を聴いたから。石垣師の説教は御言葉に真摯に向き合う本音メッセージで、私の盲点を見せて下さる
◆12月6日
新改訳ミカ書5:12「わたしはあなたの手から呪術師を断ち、占い師をあなたのところからなくする」。これは主の決めつけじゃないんだな。呪術師の束縛から解放してくださるということなんだな。主の憐みを感じる。蛇に取り憑かれた左手、呪術師とかのポーズを振り払った後、身震いが来る系の動きしてたけど、十字を切るようなポーズを自然にしてたんだな。無意識でやってたけど。羽生さん、大丈夫だろうか……
◆12月7日
新改訳ミカ書7:9「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる」。内心呪ったり妬んだり蔑んだりの私に、神は怒ってる。〈私の訴え〉は、ええカッコしい、の祈りだけでなく、どんな些細な(あるいは恨みがましい)訴えも含まれる。〈私を正しくさばいてくださるまで〉は、恐ろしくない。⑵サムエル24:14、苦渋の選択を前のダビデの「…主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです」と通ずる
◆12月11日
新改訳ヨハネ⑵1:9「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています」。〈だれでも行き過ぎ〉を強調したい。キリスト者でも求道者でも私も、キリストの教えを超えては神の働き人ではない
◆12月12日
新改訳ハバクク2:4「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」。〈彼〉は誰もが(勿論、私も含めて)当て嵌まる。節の後半は、全くその通り。
◆12月12日
新改訳ハバクク3:2「主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」。「うわさ」「みわざ」は、恐ろしい噂や業とは限らない。恵み深いうわさや神様の人知を超える偉大な業でもあり得る。前者なら繰り返してほしくなどないが、後者なら、「この年のうちに」「くり返し」「示してください」と祈ろう。節の最後の一文は、その通り。
◆12月21日
新改訳ゼカリヤ7:9-10〈万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」〉心の中で悪をたくらむな、が刺さる。
◆12月31日
新改訳マラキ3:16「そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた」。アモス書以降の旧約に戦慄しかつ慰めを感じたのは今年が初めてか。ゼカリヤやマラキのエグさに憐みを感じた
新改訳ミカ書5:12「わたしはあなたの手から呪術師を断ち、占い師をあなたのところからなくする」。これは主の決めつけじゃないんだな。呪術師の束縛から解放してくださるということなんだな。主の憐みを感じる。蛇に取り憑かれた左手、呪術師とかのポーズを振り払った後、身震いが来る系の動きしてたけど、十字を切るようなポーズを自然にしてたんだな。無意識でやってたけど。羽生さん、大丈夫だろうか……
◆12月7日
新改訳ミカ書7:9「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる」。内心呪ったり妬んだり蔑んだりの私に、神は怒ってる。〈私の訴え〉は、ええカッコしい、の祈りだけでなく、どんな些細な(あるいは恨みがましい)訴えも含まれる。〈私を正しくさばいてくださるまで〉は、恐ろしくない。⑵サムエル24:14、苦渋の選択を前のダビデの「…主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです」と通ずる
◆12月11日
新改訳ヨハネ⑵1:9「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています」。〈だれでも行き過ぎ〉を強調したい。キリスト者でも求道者でも私も、キリストの教えを超えては神の働き人ではない
◆12月12日
新改訳ハバクク2:4「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」。〈彼〉は誰もが(勿論、私も含めて)当て嵌まる。節の後半は、全くその通り。
◆12月12日
新改訳ハバクク3:2「主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」。「うわさ」「みわざ」は、恐ろしい噂や業とは限らない。恵み深いうわさや神様の人知を超える偉大な業でもあり得る。前者なら繰り返してほしくなどないが、後者なら、「この年のうちに」「くり返し」「示してください」と祈ろう。節の最後の一文は、その通り。
◆12月21日
新改訳ゼカリヤ7:9-10〈万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」〉心の中で悪をたくらむな、が刺さる。
◆12月31日
新改訳マラキ3:16「そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた」。アモス書以降の旧約に戦慄しかつ慰めを感じたのは今年が初めてか。ゼカリヤやマラキのエグさに憐みを感じた
◆11月2日
今日の通読、ダニエル書6章だった。神様はブラックジョークがマジきつい……でも勇気づけられた。神様はブラックジョークも駄洒落もお手のもの。だから私はついて行くんだ。
◆11月3日
新改訳ヤコブ3:9「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです…このようなことは、あってはなりません」。穏便に接してると厭らしさを滲ませる人にどう対応すれば良いのか
◆11月3日
ヤコブ3:14-17「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。ここ10日の混乱は私の利己心が原因か。神の知恵は純粋で、偏見・偽善がないと。岩波翻訳委員会訳だと「差別」「見せかけ」がないと(17節)。引き続き、柔和さを求めて祈ろう。
◆11月7日
ダニエル6章。高官らの策謀で獅子の穴に投げ込まれたダニエル。王は心配で一晩眠れず朝早く獅子の穴へ。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか」と言う王に敬慕を示し、御使いが獅子から守ってくれたと答えるダニエル王にこのような心を与えたのも神で、ダニエルはそのような王にお仕えするよう自分が神に呼ばれたとよく承知していたから、王を心から敬った。
◆11月7日
ダニエル8章。夢解きで鳴らしたダニエルに超難解な幻が示され「あなたはこの幻を秘めておけ」(26節)と告げられる。彼は茫然となり数日病気で寝込む。神はしもべに特殊に啓示をなさる時があるが、人を作り上げるのに益さぬ幻は秘めるよう求めることも(ダニエル自身が驕らぬようにも)。
◆11月7日
ダニエル9章。ダニエルは聖句から啓示されたご計画に気づき、必死の祈りを捧げる。彼の祈りは決して理路整然とはしていない。ダニエルは民の罪だけでなく自分の罪も告白(20節)。祈り途中ガブリエルが「あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私は…来た」と
◆11月7日
ダニエル10章。ダニエルの緊張は極度に。輝かしい御姿の声を聞き気を失って倒れるが、一つの手にゆすぶられ立ち上がる。御使い(或いは主?)は「…あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ」。謙ると決めた日から私の言葉は聞かれてる
◆11月7日
新改訳ダニエル10:19「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ…」と主に言われ、「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから」と答えたダニエル。主が私を力づけて下さったから、しもべなる私は聞くことができます、という慎みが光る。
◆11月10日
新改訳⑴ペテロ3:4「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」。〈穏やかな霊〉はNLTで〈quiet spirit(静かな霊)〉。いま激流に呑まれてる私は、この霊が心底ほしい。
◆11月12日
ペトロ⑴5:7「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。昨日は本当に参っていて「神様、困ったよ。私どうしよう」と祈ることしかできなかった。でも神はちゃんと聞いていて下さったとわかった。
◆11月15日
NHK短歌のあと新改訳で通読し、ホセア10:12(所属教会の年度聖句)を読んで目の覚める思い。この聖句に触れさせるために新改訳を購入する気持ちを起こさせたんだな、と。祈られていることを感じ、泣きそうになる。
◆11月15日
新改訳ホセア10:12「…正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」。信徒の友10月号の日毎の糧10/15の周防教会の紹介文中の「あなたの教会が安泰ならば、小犬にもパンを!」が刺さった祈りのうちにトラクト最新号数部とバックナンバーひとつ、FEBC番組表を送ることを決めた。どうか主がカナンの女の信仰の周防教会を顧み、私達一人一人が主に差し出したごく僅かなパンを何倍にも増やして、必要を満たしてくださるように!
◆11月17日
新改訳ホセア13:2「彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った」。主を信じるある方に友人からの譲り物の一部を差し上げた。その後を聞いたら自分の祭壇に飾ってると。ヴァルター・リュティのヨシュア22:29への解き明かしを思い、モヤモヤした。⑵コリント9:10「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え…ふやし…義の実を増し加えてくださいます」の通り、受けたものを与えることで更に恵みが加わるのに…9:7「強いられてでもなく、心で決めたとおりに」とあるので祈るしかできぬがでも私も作歌とか、トラクト作成とかを「自分の祭壇」化していること無きにしもあらず。「…真理の明るい光で私自身の祭壇がどこに建っているか示し…私のために時を失することなく打ち砕いて下さい」というリュティの祈りに、アーメンと和するのみ。
◆11月18日
新改訳ホセア14:8「エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」。偶像とは縁が切れたと仰る主。自由な身になった私を主が養って下さると。俄には信じ難いが祈ってゆく
◆11月21日
新改訳⑴ヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」。私の話し言葉は曖昧さが少なく、皆に伝わり過ぎてしまうきらいが。昨日の作業所でも私の言葉が要所要所で場の空気を圧してしまった。でも今朝長い振り返りの時間を持ってみて、不思議と罪はおかしていなかった。勿論、気が回らないとか、よく観察しているという意味で多少上から目線じみた点はあったが。神の種は聖句なんだろうな。
◆11月21日
新改訳ヨエル2:17【主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか」 】。〈物笑いの種としたりしないでください〉はNLTで〈Don’t let them become a joke for unbelieving foreigners〉。ジョークと書いてあったか!私はブラックだが神に喜ばれる者でありたい。
◆11月22日
アモス書1〜2章が超激辛。丁寧に一つずつ語を追っていけば、最近の様々なニュースが浮かんで戦慄する人も多いのでは。人間の罪をディテールまで描き出すのにおいて聖書の上を行く本はないと私は思う。ただ私は、神様あまり怒らないで、と願うばかり。
◆11月23日
ヨハネの手紙⑴4章が、凄い情報量でクラクラくる。喩えが適切か分からないけど、シンプルな言葉選びで冷静に描きながら熱量のある松村正直さんの歌集に打ちのめされるのと似た感じ。
◆11月23日
新改訳アモス3:3「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」。本当にそう。イエスに従うって宗教心とかじゃない。私はイエスを優しいお兄ちゃんと思ってる。ローマ8:29「…それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」。性愛の対象ではない
◆11月24日
アモス書4章。教会の偽善について書いてあると私は受け取った。神と人とのためでなく、自分のために捧げている礼拝への批判なのではないだろうか。
◆11月24日
新改訳⑴ヨハネ5:9「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです…」。獄囚の安田則夫さんの詩歌に垣間みられる穏やかさは、第三者が何を言おうとも神様と安田さんの間に絶対的な信頼関係があることに拠るのでは。ローマ8:38-39 も浮かぶ
◆11月25日
アモス書5章。偶像崇拝への警鐘と私は受け取った。人を偶像として崇め奉ること、ひいては教会でカリスマ性のある人の言うことを絶対視する危険を述べたのではないだろうか。
◆11月26日
新改訳アモス6:5「彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す。彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことで悩まない」。歌人には刺さる聖句の筈。自分にかまけて世の痛みに対して塞がれてた目を開いてくれた本多響乃さん、ありがとう
◆11月26日
新改訳⑶ヨハネ1:5-6「…あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っている…ことは、真実な行いです。 …あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら…りっぱなことです」。善行を叱咤するのでない。気づかずしている善に目が開かれるためのパラフレーズ
◆11月27日
新改訳アモス7:14〈アモスはアマツヤに答えて言った。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた〉。そう、私も所詮そんなもの。神は必要とあれば主に従う者を誰でも召し出す。
◆11月29日
新改訳ヨナ1:6〈船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない」〉。私は寝込んでて行動は突散らかってるけど意識は確かで、FEBC聴いて番宣してるよ
◆11月29日
新改訳ヨナ1:17「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」。寝込むな、と言われつつ寝込まざるを得ぬことあり。上記聖句では、主ご自身がヨナを〈魚〉に放り込んだと。象徴的。昨日辺りから私も傍からみてもヤバいが、月曜午後は歯医者。守られますよう
◆11月30日
新改訳ヨナ2:8「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます」。偶像は神以外のもの全て。人・金・自分・名声・知識など。食べ物も場合によっては偶像になりうる。偶像に囚われてると神からの恵みを見落とす。
今日の通読、ダニエル書6章だった。神様はブラックジョークがマジきつい……でも勇気づけられた。神様はブラックジョークも駄洒落もお手のもの。だから私はついて行くんだ。
◆11月3日
新改訳ヤコブ3:9「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです…このようなことは、あってはなりません」。穏便に接してると厭らしさを滲ませる人にどう対応すれば良いのか
◆11月3日
ヤコブ3:14-17「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。ここ10日の混乱は私の利己心が原因か。神の知恵は純粋で、偏見・偽善がないと。岩波翻訳委員会訳だと「差別」「見せかけ」がないと(17節)。引き続き、柔和さを求めて祈ろう。
◆11月7日
ダニエル6章。高官らの策謀で獅子の穴に投げ込まれたダニエル。王は心配で一晩眠れず朝早く獅子の穴へ。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか」と言う王に敬慕を示し、御使いが獅子から守ってくれたと答えるダニエル王にこのような心を与えたのも神で、ダニエルはそのような王にお仕えするよう自分が神に呼ばれたとよく承知していたから、王を心から敬った。
◆11月7日
ダニエル8章。夢解きで鳴らしたダニエルに超難解な幻が示され「あなたはこの幻を秘めておけ」(26節)と告げられる。彼は茫然となり数日病気で寝込む。神はしもべに特殊に啓示をなさる時があるが、人を作り上げるのに益さぬ幻は秘めるよう求めることも(ダニエル自身が驕らぬようにも)。
◆11月7日
ダニエル9章。ダニエルは聖句から啓示されたご計画に気づき、必死の祈りを捧げる。彼の祈りは決して理路整然とはしていない。ダニエルは民の罪だけでなく自分の罪も告白(20節)。祈り途中ガブリエルが「あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私は…来た」と
◆11月7日
ダニエル10章。ダニエルの緊張は極度に。輝かしい御姿の声を聞き気を失って倒れるが、一つの手にゆすぶられ立ち上がる。御使い(或いは主?)は「…あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ」。謙ると決めた日から私の言葉は聞かれてる
◆11月7日
新改訳ダニエル10:19「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ…」と主に言われ、「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから」と答えたダニエル。主が私を力づけて下さったから、しもべなる私は聞くことができます、という慎みが光る。
◆11月10日
新改訳⑴ペテロ3:4「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」。〈穏やかな霊〉はNLTで〈quiet spirit(静かな霊)〉。いま激流に呑まれてる私は、この霊が心底ほしい。
◆11月12日
ペトロ⑴5:7「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。昨日は本当に参っていて「神様、困ったよ。私どうしよう」と祈ることしかできなかった。でも神はちゃんと聞いていて下さったとわかった。
◆11月15日
NHK短歌のあと新改訳で通読し、ホセア10:12(所属教会の年度聖句)を読んで目の覚める思い。この聖句に触れさせるために新改訳を購入する気持ちを起こさせたんだな、と。祈られていることを感じ、泣きそうになる。
◆11月15日
新改訳ホセア10:12「…正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」。信徒の友10月号の日毎の糧10/15の周防教会の紹介文中の「あなたの教会が安泰ならば、小犬にもパンを!」が刺さった祈りのうちにトラクト最新号数部とバックナンバーひとつ、FEBC番組表を送ることを決めた。どうか主がカナンの女の信仰の周防教会を顧み、私達一人一人が主に差し出したごく僅かなパンを何倍にも増やして、必要を満たしてくださるように!
◆11月17日
新改訳ホセア13:2「彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った」。主を信じるある方に友人からの譲り物の一部を差し上げた。その後を聞いたら自分の祭壇に飾ってると。ヴァルター・リュティのヨシュア22:29への解き明かしを思い、モヤモヤした。⑵コリント9:10「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え…ふやし…義の実を増し加えてくださいます」の通り、受けたものを与えることで更に恵みが加わるのに…9:7「強いられてでもなく、心で決めたとおりに」とあるので祈るしかできぬがでも私も作歌とか、トラクト作成とかを「自分の祭壇」化していること無きにしもあらず。「…真理の明るい光で私自身の祭壇がどこに建っているか示し…私のために時を失することなく打ち砕いて下さい」というリュティの祈りに、アーメンと和するのみ。
◆11月18日
新改訳ホセア14:8「エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」。偶像とは縁が切れたと仰る主。自由な身になった私を主が養って下さると。俄には信じ難いが祈ってゆく
◆11月21日
新改訳⑴ヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」。私の話し言葉は曖昧さが少なく、皆に伝わり過ぎてしまうきらいが。昨日の作業所でも私の言葉が要所要所で場の空気を圧してしまった。でも今朝長い振り返りの時間を持ってみて、不思議と罪はおかしていなかった。勿論、気が回らないとか、よく観察しているという意味で多少上から目線じみた点はあったが。神の種は聖句なんだろうな。
◆11月21日
新改訳ヨエル2:17【主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか」 】。〈物笑いの種としたりしないでください〉はNLTで〈Don’t let them become a joke for unbelieving foreigners〉。ジョークと書いてあったか!私はブラックだが神に喜ばれる者でありたい。
◆11月22日
アモス書1〜2章が超激辛。丁寧に一つずつ語を追っていけば、最近の様々なニュースが浮かんで戦慄する人も多いのでは。人間の罪をディテールまで描き出すのにおいて聖書の上を行く本はないと私は思う。ただ私は、神様あまり怒らないで、と願うばかり。
◆11月23日
ヨハネの手紙⑴4章が、凄い情報量でクラクラくる。喩えが適切か分からないけど、シンプルな言葉選びで冷静に描きながら熱量のある松村正直さんの歌集に打ちのめされるのと似た感じ。
◆11月23日
新改訳アモス3:3「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」。本当にそう。イエスに従うって宗教心とかじゃない。私はイエスを優しいお兄ちゃんと思ってる。ローマ8:29「…それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」。性愛の対象ではない
◆11月24日
アモス書4章。教会の偽善について書いてあると私は受け取った。神と人とのためでなく、自分のために捧げている礼拝への批判なのではないだろうか。
◆11月24日
新改訳⑴ヨハネ5:9「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです…」。獄囚の安田則夫さんの詩歌に垣間みられる穏やかさは、第三者が何を言おうとも神様と安田さんの間に絶対的な信頼関係があることに拠るのでは。ローマ8:38-39 も浮かぶ
◆11月25日
アモス書5章。偶像崇拝への警鐘と私は受け取った。人を偶像として崇め奉ること、ひいては教会でカリスマ性のある人の言うことを絶対視する危険を述べたのではないだろうか。
◆11月26日
新改訳アモス6:5「彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す。彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことで悩まない」。歌人には刺さる聖句の筈。自分にかまけて世の痛みに対して塞がれてた目を開いてくれた本多響乃さん、ありがとう
◆11月26日
新改訳⑶ヨハネ1:5-6「…あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っている…ことは、真実な行いです。 …あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら…りっぱなことです」。善行を叱咤するのでない。気づかずしている善に目が開かれるためのパラフレーズ
◆11月27日
新改訳アモス7:14〈アモスはアマツヤに答えて言った。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた〉。そう、私も所詮そんなもの。神は必要とあれば主に従う者を誰でも召し出す。
◆11月29日
新改訳ヨナ1:6〈船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない」〉。私は寝込んでて行動は突散らかってるけど意識は確かで、FEBC聴いて番宣してるよ
◆11月29日
新改訳ヨナ1:17「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」。寝込むな、と言われつつ寝込まざるを得ぬことあり。上記聖句では、主ご自身がヨナを〈魚〉に放り込んだと。象徴的。昨日辺りから私も傍からみてもヤバいが、月曜午後は歯医者。守られますよう
◆11月30日
新改訳ヨナ2:8「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます」。偶像は神以外のもの全て。人・金・自分・名声・知識など。食べ物も場合によっては偶像になりうる。偶像に囚われてると神からの恵みを見落とす。
◆10月2日
新改訳⑵テモテ2:24〜「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう」。人を赦せぬことが苦い根になって苦しんでるメンバーが職場に。私はこの聖句を信じようと思った。今朝生涯で初めて「柔和さを下さい」と祈った。続けて祈る。
◆10月12日
フィレモン25「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。迫害する者のために祈れ、は有名だが実行は困難。私のある指摘以降、信徒のくせにと揚げ足取り的になった方が作業所に。彼が昔の傷を言うたび「神様、彼と共にいて下さい」と祈ると決心。これならできる
◆10月14日
新改訳ヘブル2:18「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」。イエスが悪魔から試みを受けたとマタイ4章。説教では誘惑内容の分類的な解説になりがちだが、主が幻聴の苦しみを経験されたことがもっと語られても良いのでは?
◆10月20日
協同訳ヘブライ4:15「…私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた…」作業所某メンバーのため祈り始めて彼への主の想いが解ってきた。ヨハネ5章の、38年間病気で絶望してた人のネガティヴを裁かず、尚も治るのを信じたのが主
◆10月21日
エゼキエル37章。骨を前に神はエゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるか」と。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えた彼に「枯れた骨よ、主の言葉を聞け…お前たちは生き返る」と預言せよと神。彼は従うが内心信じてたかどうか。疑いつつも従って奇跡を見るってある
◆10月28日
新改訳ヘブル12:14「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」。作業所某メンバーの癒しと私自身の柔和さを求め「神様、◯◯さんといて下さい。そして私とも一緒にいて下さい」と祈り始め、手応えがあった。 でも今朝「ああFEBCスタッフの方々も祈って下さっていたんだ!」と目から鱗 。FEBC宛に通読感想をツイートしてたのは私の勇気のなさ故だが、こうして綴り続けることでスタッフの方々も共に祈って下さっていたんだなと。自分一人の祈りが聞かれてるかに思った傲慢さが恥ずかしい
◆10月29日
ヘブライ13:3「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」。被虐者を思いやるのは大切。だが、同調・自分語りにより彼らの毒を助長してしまうのは避けたい
◆10月30日
ヤコブ1:19「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。怒るな、とは言ってないんだと改めて。不義に対する憤りというのもある。ただ、過剰な怒りに飲み込まれて私達が苦しむのを心配されてるのかも
◆10月31日
ダニエル2章。複雑な夢を見たネブカドネツァルは、占い師や賢者らを呼び、もし夢を当ててその解釈をせねば彼らの体を八つ裂きにし家も打ち壊すが、言い当てて正しく解釈すれば、贈り物と大いなる名誉を授けると約束。激しい気性が伝わってくる。2:8で「わたしの命令が必ず実行されることを知っているので、時間を稼ごうとしている」と知者らを罵る王だが、NLTでは〈…because you know I am serious when I say,〉とあり、王は正直な性格だったよう。後で王の夢を当て解釈したダニエルに約束通り名誉を与えた。作業所に豪快で知り合いがやたら多いボス的な女性がいるが、彼女は超正直者。嫌いな人には面と向かって「嫌い」と言うし、超お節介焼き。その彼女が昨日ある職員に「顔色悪い。月曜ちゃんと来てね」と心配してた。その職員は彼女が嫌ってた方。彼女の変容を見て、今朝改めてネブカドネツァルについての記述を読んで、ネブカドネツァルがのちに神を讃えたように、主を賛美する器として彼女を用意されたのでは、と思えてきた。誇大妄想かもしれないが、神にできないことはないので、信じて祈ることにした。
新改訳⑵テモテ2:24〜「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう」。人を赦せぬことが苦い根になって苦しんでるメンバーが職場に。私はこの聖句を信じようと思った。今朝生涯で初めて「柔和さを下さい」と祈った。続けて祈る。
◆10月12日
フィレモン25「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。迫害する者のために祈れ、は有名だが実行は困難。私のある指摘以降、信徒のくせにと揚げ足取り的になった方が作業所に。彼が昔の傷を言うたび「神様、彼と共にいて下さい」と祈ると決心。これならできる
◆10月14日
新改訳ヘブル2:18「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」。イエスが悪魔から試みを受けたとマタイ4章。説教では誘惑内容の分類的な解説になりがちだが、主が幻聴の苦しみを経験されたことがもっと語られても良いのでは?
◆10月20日
協同訳ヘブライ4:15「…私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた…」作業所某メンバーのため祈り始めて彼への主の想いが解ってきた。ヨハネ5章の、38年間病気で絶望してた人のネガティヴを裁かず、尚も治るのを信じたのが主
◆10月21日
エゼキエル37章。骨を前に神はエゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるか」と。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えた彼に「枯れた骨よ、主の言葉を聞け…お前たちは生き返る」と預言せよと神。彼は従うが内心信じてたかどうか。疑いつつも従って奇跡を見るってある
◆10月28日
新改訳ヘブル12:14「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」。作業所某メンバーの癒しと私自身の柔和さを求め「神様、◯◯さんといて下さい。そして私とも一緒にいて下さい」と祈り始め、手応えがあった。 でも今朝「ああFEBCスタッフの方々も祈って下さっていたんだ!」と目から鱗 。FEBC宛に通読感想をツイートしてたのは私の勇気のなさ故だが、こうして綴り続けることでスタッフの方々も共に祈って下さっていたんだなと。自分一人の祈りが聞かれてるかに思った傲慢さが恥ずかしい
◆10月29日
ヘブライ13:3「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」。被虐者を思いやるのは大切。だが、同調・自分語りにより彼らの毒を助長してしまうのは避けたい
◆10月30日
ヤコブ1:19「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。怒るな、とは言ってないんだと改めて。不義に対する憤りというのもある。ただ、過剰な怒りに飲み込まれて私達が苦しむのを心配されてるのかも
◆10月31日
ダニエル2章。複雑な夢を見たネブカドネツァルは、占い師や賢者らを呼び、もし夢を当ててその解釈をせねば彼らの体を八つ裂きにし家も打ち壊すが、言い当てて正しく解釈すれば、贈り物と大いなる名誉を授けると約束。激しい気性が伝わってくる。2:8で「わたしの命令が必ず実行されることを知っているので、時間を稼ごうとしている」と知者らを罵る王だが、NLTでは〈…because you know I am serious when I say,〉とあり、王は正直な性格だったよう。後で王の夢を当て解釈したダニエルに約束通り名誉を与えた。作業所に豪快で知り合いがやたら多いボス的な女性がいるが、彼女は超正直者。嫌いな人には面と向かって「嫌い」と言うし、超お節介焼き。その彼女が昨日ある職員に「顔色悪い。月曜ちゃんと来てね」と心配してた。その職員は彼女が嫌ってた方。彼女の変容を見て、今朝改めてネブカドネツァルについての記述を読んで、ネブカドネツァルがのちに神を讃えたように、主を賛美する器として彼女を用意されたのでは、と思えてきた。誇大妄想かもしれないが、神にできないことはないので、信じて祈ることにした。
◆9月1日
新改訳エレミヤ31:18「あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました」は、NLTで ‘You disciplined me severely, like a calf that needs training for the yoke.’ 哀歌3:27の通り、主の軛を負うのは幸いだが、それには訓練が必要と明言。
◆9月2日
新改訳ピリピ2:3「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」。虚栄の件をNLTでは〈don’t try to impress others〉と。好印象を与えようと立ち回ることって多々。主は本心を見抜いていらっしゃるんだな。
◆9月4日
協同訳フィリピ4:4「主にあっていつも喜びなさい」。主な英訳では〈Rejoice in the Lord always〉だが、NLTでは〈Always be full of joy in the Lord. 〉と、主と共にいれば自然と喜びで満たされるのが伝わってくる訳出。
◆9月8日
新改訳コロサイ2:8「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません」。哲学は庇ってくれるが、本当には助けてくれないというのが実感。
◆9月15日
新改訳⑴テサロニケ2:3「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません」。母教会の頃は伝道に迷いがあった。イエスと十字架は救いだと信じていたが、信仰生活がきつ過ぎて人に勧められぬと思っていた。主任牧師交代後しばらくして久々に母教会へ行った折、現牧師夫人に「変わらないね」と笑みかけられ嬉しかった。私が母教会にいた当時は熱心に伝道し多くの人を導き入れた人達も、主任牧師交代で掌を返したように離れたと聞く。信仰って何だろうな。
◆9月21日
哀歌3:27「若いときに軛を負った人は、幸いを得る」はNLTで〈it is good for people to submit at an early age to the yoke of his discipline〉。毎朝の黙想を重視する教会で受洗に導かれ良かった。正にdiscipline(鍛錬)だった。カルト呼ばわりされる母教会だが、この習慣をつけさせてくれ感謝
新改訳エレミヤ31:18「あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました」は、NLTで ‘You disciplined me severely, like a calf that needs training for the yoke.’ 哀歌3:27の通り、主の軛を負うのは幸いだが、それには訓練が必要と明言。
◆9月2日
新改訳ピリピ2:3「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」。虚栄の件をNLTでは〈don’t try to impress others〉と。好印象を与えようと立ち回ることって多々。主は本心を見抜いていらっしゃるんだな。
◆9月4日
協同訳フィリピ4:4「主にあっていつも喜びなさい」。主な英訳では〈Rejoice in the Lord always〉だが、NLTでは〈Always be full of joy in the Lord. 〉と、主と共にいれば自然と喜びで満たされるのが伝わってくる訳出。
◆9月8日
新改訳コロサイ2:8「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません」。哲学は庇ってくれるが、本当には助けてくれないというのが実感。
◆9月15日
新改訳⑴テサロニケ2:3「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません」。母教会の頃は伝道に迷いがあった。イエスと十字架は救いだと信じていたが、信仰生活がきつ過ぎて人に勧められぬと思っていた。主任牧師交代後しばらくして久々に母教会へ行った折、現牧師夫人に「変わらないね」と笑みかけられ嬉しかった。私が母教会にいた当時は熱心に伝道し多くの人を導き入れた人達も、主任牧師交代で掌を返したように離れたと聞く。信仰って何だろうな。
◆9月21日
哀歌3:27「若いときに軛を負った人は、幸いを得る」はNLTで〈it is good for people to submit at an early age to the yoke of his discipline〉。毎朝の黙想を重視する教会で受洗に導かれ良かった。正にdiscipline(鍛錬)だった。カルト呼ばわりされる母教会だが、この習慣をつけさせてくれ感謝
◆8月7日
新共同コリント⑵8:4「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」は端的には献金。〈慈善の業と奉仕に参加させてほしい〉は新改訳で〈ささえる交わりの恵みにあずかりたい〉。こういう態度で献金してるだろうか?
◆8月8日
イザヤ65:2「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」邦訳で読み流してたがNLTで唖然。「民」は神を知ってる筈の民か!〈they follow their own evil paths and their own crooked schemes〉。悪の小道も歪んだ企みも自分自身の考えに拠る、と
◆8月8日
協同訳イザヤ65:5〈「そばに来るな、私に近寄るな。私はあなたに比べて清いのだから」と…この者たちは私の鼻から出る煙…〉NLTは更に強烈。‘Don’t come too close or you will defile me!近寄るな,さもないと穢される’。神が民をa stench in my nostrils(私の鼻腔の悪臭)と仰るのは尤も
◆8月13日
協同訳コリント⑵13:11「…初心に帰りなさい。励まし合いなさい…そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」。〈励まし合いなさい〉は新改訳で「慰めを受けなさい」。確かに私達は主より慰めを受けたのだ。そのように身を低くしなければ、励ましにも頑なになる
◆8月15日
旧約の預言書で、神が仰ったことと預言者自身の言葉の境目が判り辛いな、と常々。エレミヤ書9章を読んでて、新改訳では〈わたし〉が神で、〈私〉が預言者自身だとはたと気づく。永田愛さんの歌集での〈いもうと〉と〈妹〉表記の使い分けを、近江瞬さんが指摘されてたお蔭。ありがとうございます
◆8月19日
ガラテヤ4:20。聖書協会の各訳で、パウロは対面で糾弾を望んでるのかと。新改訳「…今あなたがたといっしょにいることができたら…こんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っている…」で誤読と判明。パウロはネット社会の困難を先取りしてたかも
◆8月21日
新改訳ガラテヤ6:3「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」。無宗教と言う朋の手紙に「◯◯ちゃんは神様に選ばれた人と思う」と。実際選ばれた感はある(発病で都落ちしたから余計に)が、誇るまい。召し出しもただ賜物だから
◆8月22日
主の栄光を前に茫然と「わたしは汚れた唇の者」と叫んだイザヤ(イザヤ6:5)や、時に毒々しくなるエレミヤやパウロを神が召し出した意味を考えてる。そういう器だから用いた、というのではないかもしれないが。もちろん彼らの例を自己正当化の根拠にしてはならないのは言うまでもない。
◆8月23日
新改訳エレミヤ20:8「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです」。短歌界では異端児と自覚あり。ある方が、個人的な信仰で我儘に短歌へ言及する向きに不快感を。歌を見て聖句が呼び覚まされる私の性向は如何ともし難い。新共同20:9「わたしの負けです」
◆8月29日
新改訳エレミヤ26:14。高官らに「このとおり、私はあなたがたの手の中にあります…あなたがたがよいと思うよう…なさい」とエレミヤ。12:1「主…が正しい…それでも、さばきについて…お聞きしたい…なぜ、悪者…は栄え…」と神に挑んだ彼がここまで。究極、敵も御手の内と悟ったか(詩31:15)
◆8月30日
エレミヤ28章。自分の重荷を安易に取り除いてくれそうな人を見境なく支持しがちな私達。ハナンヤはエレミヤから枷を外して阿ることを言った(28:10-11)が、主の御心は違った。軛を負うことで最終的にご計画が成し遂げられる場合もある(28:14)。神にいつも尋ねつつ歩む者でありたい。
新共同コリント⑵8:4「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」は端的には献金。〈慈善の業と奉仕に参加させてほしい〉は新改訳で〈ささえる交わりの恵みにあずかりたい〉。こういう態度で献金してるだろうか?
◆8月8日
イザヤ65:2「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」邦訳で読み流してたがNLTで唖然。「民」は神を知ってる筈の民か!〈they follow their own evil paths and their own crooked schemes〉。悪の小道も歪んだ企みも自分自身の考えに拠る、と
◆8月8日
協同訳イザヤ65:5〈「そばに来るな、私に近寄るな。私はあなたに比べて清いのだから」と…この者たちは私の鼻から出る煙…〉NLTは更に強烈。‘Don’t come too close or you will defile me!近寄るな,さもないと穢される’。神が民をa stench in my nostrils(私の鼻腔の悪臭)と仰るのは尤も
◆8月13日
協同訳コリント⑵13:11「…初心に帰りなさい。励まし合いなさい…そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」。〈励まし合いなさい〉は新改訳で「慰めを受けなさい」。確かに私達は主より慰めを受けたのだ。そのように身を低くしなければ、励ましにも頑なになる
◆8月15日
旧約の預言書で、神が仰ったことと預言者自身の言葉の境目が判り辛いな、と常々。エレミヤ書9章を読んでて、新改訳では〈わたし〉が神で、〈私〉が預言者自身だとはたと気づく。永田愛さんの歌集での〈いもうと〉と〈妹〉表記の使い分けを、近江瞬さんが指摘されてたお蔭。ありがとうございます
◆8月19日
ガラテヤ4:20。聖書協会の各訳で、パウロは対面で糾弾を望んでるのかと。新改訳「…今あなたがたといっしょにいることができたら…こんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っている…」で誤読と判明。パウロはネット社会の困難を先取りしてたかも
◆8月21日
新改訳ガラテヤ6:3「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」。無宗教と言う朋の手紙に「◯◯ちゃんは神様に選ばれた人と思う」と。実際選ばれた感はある(発病で都落ちしたから余計に)が、誇るまい。召し出しもただ賜物だから
◆8月22日
主の栄光を前に茫然と「わたしは汚れた唇の者」と叫んだイザヤ(イザヤ6:5)や、時に毒々しくなるエレミヤやパウロを神が召し出した意味を考えてる。そういう器だから用いた、というのではないかもしれないが。もちろん彼らの例を自己正当化の根拠にしてはならないのは言うまでもない。
◆8月23日
新改訳エレミヤ20:8「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです」。短歌界では異端児と自覚あり。ある方が、個人的な信仰で我儘に短歌へ言及する向きに不快感を。歌を見て聖句が呼び覚まされる私の性向は如何ともし難い。新共同20:9「わたしの負けです」
◆8月29日
新改訳エレミヤ26:14。高官らに「このとおり、私はあなたがたの手の中にあります…あなたがたがよいと思うよう…なさい」とエレミヤ。12:1「主…が正しい…それでも、さばきについて…お聞きしたい…なぜ、悪者…は栄え…」と神に挑んだ彼がここまで。究極、敵も御手の内と悟ったか(詩31:15)
◆8月30日
エレミヤ28章。自分の重荷を安易に取り除いてくれそうな人を見境なく支持しがちな私達。ハナンヤはエレミヤから枷を外して阿ることを言った(28:10-11)が、主の御心は違った。軛を負うことで最終的にご計画が成し遂げられる場合もある(28:14)。神にいつも尋ねつつ歩む者でありたい。