お祈りの言葉を意味がわからないままに唱えるような毎日
「祈る」という題に投稿された佳作。私達が神を信じる者としてどう祈っているか、それが周囲にどう伝わっているか。非常に身につまされる一首である。
マタイによる福音書6章5~6節に「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」とある。見せようとして祈る言葉はきっとよく練られ飾り立てたものだろう。人が耳にする祈りは得てしてこのようなものである。
えんどう氏は、日々の生活を「祈りの言葉をわからないままに唱える」かのようだと言う。心の芯に響いてこない綺麗事で自分の気持ちにオブラートを被せた虚ろな心境を的確に捉えた歌である。
イザヤ書24章を開いてみよう。10節に「混乱の町は破壊されどの家も閉ざされ、入る者もない」とある。けれど、人々は虚偽の賛美を唱える。曰く、『地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。しかし、わたしは思った。「わたしは衰える、わたしは衰える わたしは災いだ。欺く者が欺き 欺く者の欺きが欺く。」』 (イザヤ書24章16節)この聖句を読んで私は社会人一年目から二年目にかけての心の移り変わりを思い出す。一年目の秋、私は人にも自分にも(そして神にも)正直に語ることを決心して実行した。その結果、心の振幅は大きくなったが、今までにない成長を見た。しかし二年目に差しかかる頃、私は様々な軋轢に耐えられなくなって心を覆い隠し、適当に人間関係を、そして神様との関係をあしらうようになった。そんな私を見て周りの人たちは「成長した」と口々に褒めた。私は彼らに穏やかに接しつつも、内心「どうして判らないんだ!!」ともがき苦しみ、結局しばらくして教会を離れるに至った。エレミヤ書6章13~14節に「身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う」 という御言葉があるが、当時の私の置かれた状況を見事に言い表しているように思う。
FEBCラジオの左近豊(さこんとむ)先生の番組で、詩編詩人の嘆きについて最近語られた。この番組を通じて改めて、詩編には逆境のなか神に嘆き訴える祈りが少なくないこと、その祈りに私達一人一人も連ねられ主につながっていくことの深い意味を噛み締めることができた。
そうした嘆きの祈りで私自身が親しみを感じる言葉を挙げておく。「神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。」 (詩編69編6節)私の言葉で翻訳するならば、――神様、バレバレだと思うけどさぁ、私って馬鹿なんだよね。ホント汚くってさぁ――といったところだろうか。
目下、聖書の通読では詩編を読み進めている最中である。朝々、詩編の祈りに心を添わせていくことを通じて、自分の祈りが人にとっても自らにとっても真実なものになっていくことを強く願う。
えんどうけいこ(『NHK短歌2016年2月号』より)
「祈る」という題に投稿された佳作。私達が神を信じる者としてどう祈っているか、それが周囲にどう伝わっているか。非常に身につまされる一首である。
マタイによる福音書6章5~6節に「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」とある。見せようとして祈る言葉はきっとよく練られ飾り立てたものだろう。人が耳にする祈りは得てしてこのようなものである。
えんどう氏は、日々の生活を「祈りの言葉をわからないままに唱える」かのようだと言う。心の芯に響いてこない綺麗事で自分の気持ちにオブラートを被せた虚ろな心境を的確に捉えた歌である。
イザヤ書24章を開いてみよう。10節に「混乱の町は破壊されどの家も閉ざされ、入る者もない」とある。けれど、人々は虚偽の賛美を唱える。曰く、『地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。しかし、わたしは思った。「わたしは衰える、わたしは衰える わたしは災いだ。欺く者が欺き 欺く者の欺きが欺く。」』 (イザヤ書24章16節)この聖句を読んで私は社会人一年目から二年目にかけての心の移り変わりを思い出す。一年目の秋、私は人にも自分にも(そして神にも)正直に語ることを決心して実行した。その結果、心の振幅は大きくなったが、今までにない成長を見た。しかし二年目に差しかかる頃、私は様々な軋轢に耐えられなくなって心を覆い隠し、適当に人間関係を、そして神様との関係をあしらうようになった。そんな私を見て周りの人たちは「成長した」と口々に褒めた。私は彼らに穏やかに接しつつも、内心「どうして判らないんだ!!」ともがき苦しみ、結局しばらくして教会を離れるに至った。エレミヤ書6章13~14節に「身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う」 という御言葉があるが、当時の私の置かれた状況を見事に言い表しているように思う。
FEBCラジオの左近豊(さこんとむ)先生の番組で、詩編詩人の嘆きについて最近語られた。この番組を通じて改めて、詩編には逆境のなか神に嘆き訴える祈りが少なくないこと、その祈りに私達一人一人も連ねられ主につながっていくことの深い意味を噛み締めることができた。
そうした嘆きの祈りで私自身が親しみを感じる言葉を挙げておく。「神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。」 (詩編69編6節)私の言葉で翻訳するならば、――神様、バレバレだと思うけどさぁ、私って馬鹿なんだよね。ホント汚くってさぁ――といったところだろうか。
目下、聖書の通読では詩編を読み進めている最中である。朝々、詩編の祈りに心を添わせていくことを通じて、自分の祈りが人にとっても自らにとっても真実なものになっていくことを強く願う。