水の門

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歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読+α 2021年2月分まとめ

2021年02月28日 08時06分16秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
[★2017年5月18日の通読感想より]
教会員に凄く裁く人がいる。まさに〈背負いきれない重荷を人の肩に載せ、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない人〉(マタイ23:4)だが、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒10:15)と仰るのだろう。心したい。
   ↓  ↓  ↓
◆2月1日
この方が先月末に亡くなったと昨日の礼拝後の報告で知った。家族葬を教会で土曜にしたらしい。牧師がこの方のため祈って下さったが皆さんショックで泣いていた。晩年◯害に近くて辟易してたが、やはり神の家族だったのだ。内心疎んでいた自分の憐みのなさを見せつけられた気がした。


◆2月5日
それはそうと、明後日は礼拝当番なのである。前回の当番時には熱で休んでしまったので、できるだけ行かねばと思う。作業所休んだくせに礼拝は行っちゃって……!と後で腐されそうだから、今日は通所したかったが。行動の整合性ばかり気にしている私は、統合失調症らしいのか否か。
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<新共同訳コリント⑴4:3-4>
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
   *  *  *
<新共同訳マタイによる福音書7:2>
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(まさにこうなっている。もう少し人を信頼しても良いのかも。)


◆2月9日
出エジプト記2章。モーセはどこでも余所者。出自のヘブル人を庇いエジプト人を殺してしまった翌日、ヘブル人同士の争いを諫めると、私も殺すつもりかとヘブル人のかたわれに煙たがられ、それを聞きつけた養父ファラオに命を狙われる。逃亡先ミディアンでは「エジプト人の羊飼い」と。寄留者の悲しみと、思わぬ恵みをモーセは知っていた。


◆2月20日
新改訳第三版詩篇91篇(2月21日礼拝の交読詩篇)
:4節
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
:11節
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
:14-15節
彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
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詩篇91篇、13節までと14節以降では主体(および目的格)が切り替わる。13節までは「主」「あなた」が中心だが、14節以降は「彼」「わたし(=主)」が中心。「あなた」をこのように支えて下さる主ご自身が、気づかぬうちに心の奥で主を慕っている「彼」を引き上げて下さるんだな。


【★2月14日にTwitterに公開した即詠(下の句がお題の付け句)】
  そんなにも君はどうして優しいのいたずら好きの神様のせい
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◆2月20日
<新改訳第三版ヤコブ1章(2月21日礼拝説教聖句)>
:13-14節
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
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「いたずら好きの神様のせい」なんて、言葉遊びでも歌にしてしまったからなのかな?この一週間は心に覆いが掛かったようで苦しかった。本当に「魔が差」した感じ。明日は体調など守られて礼拝へ行けて、説教を聴き録音もしてこられますように。


◆2月24日
<新改訳第三版マルコ11:28>
そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
(*神殿で商売していた者らを追い払ったり、教えたりしていたイエスに祭司長らが言った言葉)
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作業所でメンバーに根本的な質問をされて、直裁的な答えをすることあり。訊いてきた当人には役立つが、時に独断が強く周りがギョッとしてるフシも。もちろん私も分かる範囲で答えてるに過ぎないのだが。ただなるべく聖句に拠って立つようにはしてる。意識の根底には下記の二つの聖句あり。
   ↓  ↓  ↓
<新改訳第三版 ヨハネ福音書12:48>
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
(注)「わたし」←イエス
   *  *  *
<新改訳第三版 ヤコブ2:12>
自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。


◆2月24日
<協会共同訳 詩編22:26-27(2月28日礼拝の交読詩編)>
大いなる集会で、私の賛美があなたから出る。 主を畏れる人々の前で、私は誓いを果たそう。苦しむ人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美する。 あなたがたの心がいつまでも健やかであるように。
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「私の賛美」は、内心そう思えないところを努力してでっち上げるものではない。神が私の心に授けて下さるもの。だから多くの詩編の、包み隠さず述べた呻吟や、災いをもたらした人を呪うような言葉でも、主はそれこそまことの心と受け容れて下さり、吐き出したことで空になった心に賛美を授けて下さるんだな


◆2月27日
<新改訳第三版 ローマ人への手紙5章(2月28日の礼拝説教聖句)>
:6-7節
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
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昨日の朝まで実は、明日の日曜礼拝は休むつもりでいた。日曜に風呂掃除をして、月曜に精神科受診、水曜に牧師先生にトラクト巻頭言依頼メールをする腹づもりだった。でも、やはりこの聖句を自分のこれまでの理解を超えて深く知りたいと思い、スケジュールを大幅に組み直し。ちゃんと出席できますように
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