祝福を受けし子どもらと牧師は透明板隔てエア・タッチする
新型コロナウイルス感染症の拡大は言うまでもなく教会活動全般に影響を及ぼした。昨年4月より教会学校「こどもと大人の礼拝」が休止されたのもその一つである。「当面休止」とされながらも、なかなか再開には至らず一年が経過した。2019年の【0才からのクリスマスコンサート〜えほんとおんがくのおくりもの】が成功裡に終わり、コンサートに大きく関わってくださったDこども園の先生方がその後大勢教会にいらしたり、新しい子ども出席者も来ていたりしていたところの腰折れである。2020年度に入った途端に教会で見かける子ども達が激減したのは当然と言えば当然だが、教会員各々の心の内に大きな痛みをもたらした。
11月は世間でも七五三の時季であるが、わがN教会でも「子ども祝福式」を行なっている。通常であれば参列した子ども一人一人の頭に牧師が手を置いて、神様の子どもとして健やかに歩めるよう祈ってくださるが、昨年度は子ども達を礼拝堂の前の方に呼んだけれども、牧師は子ども達とは距離を取って祝福の祈りをするに留めた。妥当な判断だったと思うが、やはりイエス様が子どもの頭に手を置いて祈ったように牧師に手を置いて祈ってほしかったと残念がる声も聞かれた。掲出歌の岩津氏の教会では、子ども祝福式をアクリルパネルを隔てて行なったようだ。祝福を受けた後の子どもと牧師が手と手を〈エア・タッチ〉をしたというのが何とも粋で、励まされる。短歌文芸欄選者の林あまり氏が「祝福をさえぎるものはありません」と選評を書いていて、本当にそうだなぁと感じ入った。
聖水を亨けしみどり児をこもごもに幸い分くるごとくにいだく /大塚善子『パンの笛』(1997年)
大塚氏のご息女は国際結婚をしてドイツに移住された。上の歌は、大塚氏にとっての孫が幼児洗礼を受ける際にドイツに渡って、その場に立ち会ったことを詠んだ一連のうちに収められている。FEBCラジオの某番組で読まれたリスナーからのお手紙で、コロナのために受洗が延期になったという話があったが、今はあちこちの教会でそういうことが起こっているのかもしれない。大塚氏の歌が詠まれた時分は勿論そんな気兼ねなく受洗したばかりの嬰児を代わる代わる抱かせてもらえて、みんなで喜びを分け合ったのだろう。それがどれほどの恵みであるかということは、今になって私達の胸に迫ってくるのではないか。
幼子は半年ぶりに礼拝に 思わず囲むマスクの我ら /柴田文子(『信徒の友』2021年1月号読者文芸欄より)
わがN教会では3月の長老会で、新年度から教会学校「こどもと大人の礼拝」の再開が決まった。もちろん感染症対策は十分に取られた上での再開である。久々に礼拝にやって来る子ども達に、あまり接近し過ぎないように気遣いながらも、ついつい囲んでしまう。そんな光景がN教会でも生じるのが今から目に浮かぶようだ。どうか、神様の御手がいつも子ども達と共にあって、色々なことがあっても子ども達がのびのびと成長していけるように、と願ってやまない。
岩津美子(『信徒の友』2020年12月号読者文芸欄より)
新型コロナウイルス感染症の拡大は言うまでもなく教会活動全般に影響を及ぼした。昨年4月より教会学校「こどもと大人の礼拝」が休止されたのもその一つである。「当面休止」とされながらも、なかなか再開には至らず一年が経過した。2019年の【0才からのクリスマスコンサート〜えほんとおんがくのおくりもの】が成功裡に終わり、コンサートに大きく関わってくださったDこども園の先生方がその後大勢教会にいらしたり、新しい子ども出席者も来ていたりしていたところの腰折れである。2020年度に入った途端に教会で見かける子ども達が激減したのは当然と言えば当然だが、教会員各々の心の内に大きな痛みをもたらした。
11月は世間でも七五三の時季であるが、わがN教会でも「子ども祝福式」を行なっている。通常であれば参列した子ども一人一人の頭に牧師が手を置いて、神様の子どもとして健やかに歩めるよう祈ってくださるが、昨年度は子ども達を礼拝堂の前の方に呼んだけれども、牧師は子ども達とは距離を取って祝福の祈りをするに留めた。妥当な判断だったと思うが、やはりイエス様が子どもの頭に手を置いて祈ったように牧師に手を置いて祈ってほしかったと残念がる声も聞かれた。掲出歌の岩津氏の教会では、子ども祝福式をアクリルパネルを隔てて行なったようだ。祝福を受けた後の子どもと牧師が手と手を〈エア・タッチ〉をしたというのが何とも粋で、励まされる。短歌文芸欄選者の林あまり氏が「祝福をさえぎるものはありません」と選評を書いていて、本当にそうだなぁと感じ入った。
聖水を亨けしみどり児をこもごもに幸い分くるごとくにいだく /大塚善子『パンの笛』(1997年)
大塚氏のご息女は国際結婚をしてドイツに移住された。上の歌は、大塚氏にとっての孫が幼児洗礼を受ける際にドイツに渡って、その場に立ち会ったことを詠んだ一連のうちに収められている。FEBCラジオの某番組で読まれたリスナーからのお手紙で、コロナのために受洗が延期になったという話があったが、今はあちこちの教会でそういうことが起こっているのかもしれない。大塚氏の歌が詠まれた時分は勿論そんな気兼ねなく受洗したばかりの嬰児を代わる代わる抱かせてもらえて、みんなで喜びを分け合ったのだろう。それがどれほどの恵みであるかということは、今になって私達の胸に迫ってくるのではないか。
幼子は半年ぶりに礼拝に 思わず囲むマスクの我ら /柴田文子(『信徒の友』2021年1月号読者文芸欄より)
わがN教会では3月の長老会で、新年度から教会学校「こどもと大人の礼拝」の再開が決まった。もちろん感染症対策は十分に取られた上での再開である。久々に礼拝にやって来る子ども達に、あまり接近し過ぎないように気遣いながらも、ついつい囲んでしまう。そんな光景がN教会でも生じるのが今から目に浮かぶようだ。どうか、神様の御手がいつも子ども達と共にあって、色々なことがあっても子ども達がのびのびと成長していけるように、と願ってやまない。