水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読+α 2021年3月分まとめ

2021年03月31日 07時17分33秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆3月3日
それにしても耳鳴りがひどい。今はまだ聴力的には周囲の人よりよく聴こえているようだが、今後どうなるかなぁ。あまり聴こえなくなる前に、曲の鑑賞も書いておきたい。まぁ尤も、視力だって保証されてるわけじゃないけど。
ちなみに一曲鑑賞は、ゴスペルやCCMについてのみ書くつもりです(日本語詞の場合)。讃美歌について書くかは分からない(ある意味で排除的な部分もあるし、俗っぽい私が口を挟む余地があるか、かなり疑問なので)。
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★3月7日礼拝の交読詩編より
<新共同訳 詩編86:11>
主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。


◆3月4日
トラクト次号は勝負に出た(越権行為系)。マタイ18:2-5を扉絵に添える聖句に選んだ。コロナ禍で「子どもの礼拝」が休止になってる苦しさの中で、牧師先生に「子ども」のことに向き合っていただきたく敢えてそうした。無難な巻頭言で逃げてほしくなく外堀を埋めた。牧師夫妻に子どもはいない。牧師先生にはガチで呻吟してほしいと願ってる。悪魔っぽいかもね、私。でも、「気持ちんよかぁ〜」な信仰は要らない、そんなもので人は救われない、と思ってる。私はリアリストだ。


◆3月8日
めっさ調子悪い……つか、鎮静剤が少し前より効き過ぎるんだなぁ。だから総じて言えば、精神症状的には落ち着いてきているんだろうけど。ちょっとテンション高めだなと鎮静剤を少し重くすると、長時間に亘ってぐったり(頓服的な使用が難しくなってる)。薬や飲み物の加減、はたまたは聴く音楽やラジオ番組で体調をコントロールしようとしがちだが、もっと日々主に心を預けることを神は願っていらっしゃるのかもなぁ。
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<新改訳第三版 ペテロ⑴5:6-7>
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。


◆3月10日
昨日作業所で、自称クリスチャンと話し込んだ(未受洗。神は信じてるがイエスを知らな過ぎる方)。私が「女だから暴力を受けた。男性を呪いながら育った」と改めて話したら吃驚してた。伝わってなかったか?そして私としてはもう父も兄も赦したつもりでいたが、まだ傷が癒えていないことがわかった。私から醸し出されてる神は、憐みよりも滅ぼす系のイメージだということもわかった。
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<岩波翻訳委員会訳 マタイ16:24-25>
そののちイエスは、その弟子たちに言った、「もし人が私の後ろから来たいと望むならば、自分自身を否み、自分の十字架を担って私に従って来るがよい。実に、自分のいのちを救おうと欲する者はそれを滅ぼすであろう。しかし、自分のいのちを私のために滅ぼす者は、それを見いだすであろう。
(FEBC Today 3/10の「今日の聖書」より)
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FEBC Todayを8回くらい繰り返し聴いた(そのくらい飲み込みにくい内容だった)。蓮見和男先生の「ペトロのように自分を捨てないでもイエスに従って行けると思う者は、ついにイエスを捨てるのです。イエスを捨て、十字架を捨て、果たして自分を全うしたことになるでしょうか」という言葉が刺さった。
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【拙歌引用】
恋のたび病める心を御しがたく平城山のふし噛みしめている
(2007年10月22日 作歌、2019年2月5日 改作)
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これは「恋の病」なんていう甘やかなものではない。恋すれば(あるいは恋に巻き込まれれば)文字通り精神を病むのである。
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私は聖句の「自分を捨てる」を禁欲的になることと浅く解して自分(の精神状態)を守り、男性への憎しみを解くことを怠ってきたのだな……。一朝一夕に男性を赦すのは困難。また世の中の愛と神の愛は全く違う。だから、世に渦巻いている誘惑に取り込まれないようにしつつ、心の目を開いていかなくては


◆3月12日
<新改訳第三版 ペテロ⑴4:12-13>
…あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
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12時過ぎに作業所に休みの連絡。熱とか不眠とか体裁のいい事由でなく、被害妄想が強くヘッドバンギング系(ただし上下でなく左右の首振り)の静坐不能症が出ると、初めてはっきり言った。見た目“取り憑かれ“系なので今まで説明してこなかった。通所の際に詳しく訊かれたら〈実演〉の必要が出てくるか…?職員は〈薬〉信奉者なので、異常行動と見れば、症状を抑え込む薬の処方をしてもらうように要求するだろう。下手すると、古典的な電気痙攣療法にまで持って行かれるかもしれない……と思うと恐怖だったのだ。


◆3月13日
今朝は、New Living Translationで humiliate を検索し、該当箇所を全て新改訳第三版で見ていった。内の一つ、申命記21:14では捕虜の女性を妻にし、別れる場合について書いてある。(You may not sell her or treat her as a slave, for you have humiliated her.)
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〈have humiliated her〉は新改訳で〈すでに彼女を意のままにした〉。そう言えば神様は、人間を必要に応じて遜らせるが、意のままにしようとは決してなさらないよな。


◆3月13日
★3月14日の礼拝の交読詩篇より
<新改訳第三版 詩篇145:6>
人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。
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明日も礼拝行きたくなってきた。義務とか人がとやかく言うからではなく。勿論多少の人疲れはあるけど、礼拝で御言葉きくのは私にとって栄養補給なんだ。


◆3月19日
今日は作業所で1月〜3月生まれの人をお祝いする誕生会があった。複数の選択肢から好きなものを選べる。私はお寿司にした。他の方はデザートで苺大福とワッフルがついたが、私はこちらの希望で無しにしていただいた(精神科医から間食しないよう言われてるので)。
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<新改訳第三版 ルカの福音書11:35>
だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
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通読で凄く引っかかる聖句でコピペしてあった。聖書で言う光(良いもの)が暗闇になるってどういうことだろうなぁ、と。
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私は午前中失言を。飲食とイベントが大好きなネブカドネツァルが現所長に「デザート選んだの◯◯さん(所長)ですか?」とテンション高めで訊いてたので、つい「そんな下らないこと…色々やることあって忙しいから他の職員に任せてるでしょうに」と言ったら、「下らなくないよ。皆で話し合ったよ」と所長。引っ込みがつかなくなった私は、Twitterの「イヤな短歌会」で発表した

できるなら霞を食べて暮らしたい食べたい時はただのストレス

の拙歌について話し、飢餓感ある時以外で食べたいと思うのは、ヤケ食いで自分の身体を痛めつけてストレスを忘れようとする時だ、と放言。
けどその後、ちょっとヤバいこと言ったかなぁ、と「でもイエスは大食漢で大酒飲みという噂を立てられてたんですよ。私よりよっぽど人間的です」と、フォローみたいに言った(ルカによる福音書7:34)。私は件の短歌で、クラゲのあだ名がついたのも打ち明けた。
帰宅後振り返って下記聖句が浮かんだ。
<協会共同訳コリント⑴8:1-2>
…私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです。しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねばならないように知ってはいないのです。
<協会共同訳コリント⑴8:9>
ただ、あなたがたのこの強さが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい。


◆3月26日
バテバテ……ここ2週ほど頑張り過ぎたか?通所・散文アウトプット・手紙書きなど。礼拝も5週間休まず行ってるし。キャパの小ささに比べインプット多過ぎかも(感度良くなってるとは決して思えないが)。でも明後日の棕櫚の主日は礼拝休みたくない……ゆとりを与えて下さい、と子どものような心で祈るかな
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<新改訳第三版 詩篇4:1>
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。


◆3月27日
やりたいこと、やるべきこと、日常の生活、などで手一杯でダウンしてしまうことがここのところ多い。臨機応変に行うのが難しいタチなので、ダウンした時にiPhoneでスケジュールの組み直しをするが、最近はどの案件も〈緊急〉顔で迫ってくる感じで、リスケジューリングしててもクラクラする。
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<新改訳第三版 箴言16:9>
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。
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ああ、そうだ、一歩一歩を守って下さる主に頼らなきゃ、と。


◆3月30日
ミィが木登りしてる絵って、この切手シートだけじゃなく、グッズとかでも相当あるみたい。原作にもそういうシーンがあるのかな?このミィを見て、何となくザアカイが木に登る聖書箇所(ルカの福音書19章)を思い出していた。
受洗してすぐの頃まだかなり世的で節制の取れた生活ができておらず、周りの信徒から色々責められて行き詰まってた。そしたら聖霊だったのだろう、(今聖書を開きなさい、私が教えるから)というような促しが降りてきて、わけもわからず聖書を開いた。そしてぶち当たったのがザアカイの箇所だった。
ザアカイは取税人のかしらで皆が忌避。イエスに興味はあったが直接話しかける勇気もなく、ザアカイは主を見ようと木に登った。するとイエスから「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と。人々は「あの方は罪人のところに行って客となられた」と悪口を。
私の受洗後、大学の後輩で信徒としては先輩の人に「◯◯がクリスチャンになるとは思わなかった」と言われた。彼女と私の初めての遭遇は、ジャズのビッグバンドの部室に彼女が見学に来たところ、私が部室のソファで眠っていたというもの。彼女は内心顔を顰めたらしい。(女性なの?なんて下品な…)と。
私はおよそ人が友達になりたがるタイプではなかった。神の直の促しでザアカイの聖句に目が開かれ、「あなたを教会に呼んだのは私(=イエス)だよ。人が呼んだんじゃない」と言われた気がした。ザアカイの物語が聖書になかったら、私は今でも教会に繋がってはいなかっただろう。
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