詩編119編に対する印象って、受洗後何年かは(無駄に長い……)というのが正直な感想だった。新共同訳などでは節が始まる前に(アルファベットによる詩)とあるし、言葉遊びかよ……!みたいに長いこと思ってた。同じことの言い換えが冗長に続くというか。
でも、今年に入ってからの通読で詩編が回ってきて(読んでいたのは新改訳第三版だが)、色々な細かいところが凄く心に入ってくるのを感じた。
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(ベト)の連にある
119:14「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」
などは、(ギレト)の連では、
119:24「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」
と発展されてて面白いし、
(テト)の連の
119:69〜70「高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。わたしはあなたの教えを楽しみとします。」
の〈偽りで塗り固める〉〈脂肪のように鈍感〉の強烈さは、(カフ)の連では、
119:85「高ぶる者は私のために穴を掘りました。彼らはあなたのみおしえに従わないのです。あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください。」
のような懇願にパラフレーズされていってる。
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こうして見ると、「アルファベット(による詩)」って、Aさん、Bさん、Cさん……と色んな人が集って祈ってるってことなのかなぁ、と思った。
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私なんかは、皆さんが聞いてると思うと、人から突っ込まれない完璧な祈り(で、尚且つなるべく心が籠った祈り)をしなきゃ……と、かなり自分にプレッシャーをかけてたんだよなぁ。。でも、皆さんで祈りを繋いで行く時って、自分が部分的にしか触れられなかったことを次の人がカバーしてくれたり、自分はネガティヴにしか祈れなかったことを他の方が執り成すような形で祈ってくれたり、とかって実際あるよね。それこそが、みんなで祈る恵みなんだと思う。
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