オリンピックが始まると私の心は沈みます。
新聞各紙もネットのニュースも
知らない個人名(オリンピック選手でしょう)を連日見出しに取り上げ、
「日本の○○、四連覇!」とか「日本の△△連覇ならず!」とか、
「リオオリンピックもいよいよあと◇日。皆さんもテレビの前に釘づけでしょう」とか、
いつものオリンピックと同じことの繰り返し。
まず、気分が落ち込むその①は、
「オリンピックはみんなが楽しむに決まっている」感が押し寄せること。
普段、スポーツなんかひとっつも見ないであくせくしている人間が、
突然、テレビのオリンピック番組をあくせく見ている奇妙な情景と、
(みんなもそうしているに決まっている)雰囲気の蔓延には言葉を失います。
落ち込みその②、
「日本人は日本の選手を応援するのが当然だ」感に報道も覆いつくされ、
友人に会っても、「あ、愛ちゃん今日どうやった?私見過ごしたわ」とか言われる恐怖です。
小さいころからひたすら卓球の修行を続けてきた福原愛さんが、
大活躍したり、惜敗して泣いたりするのを応援したい気持ちは私もわかります。
しかし、血のにじむような苦労をして選手になったのは、
日本人に限らず、どこの国の選手も同じではないでしょうか。
なぜ、同じ応援の気持ちを外国選手に対して持てないのか、私は不思議でたまりません。
数年前、中国江西省の大学生がスピーチしたことに、次のようなものがありました。
「私と姉は、テレビで国際卓球試合を見ていました。
中国の選手が日本の選手を下して私が大喜びしたその時、姉が
『日本人の選手、残念だったね。』と言うではありませんか。私は、
『中国人なら中国の選手を応援するのが当たり前だろう!』とムッとしました。
姉はそれでも、日本人の選手をねぎらっていました。
その時、まだ私は日本語学科に入ってもいない高校生でした。」
先日、ブラジルの観客が
自国選手のライバルであるフランス人選手にブーイングをしたとニュースにありました。
自国の選手だけを応援することと、
外国人選手をけなす心根をたどっていけば同根だと私は思います。
スポーツ大会はスポーツを愛好する人たちが参加し、
それを見るのが好きな人たちが見ればいいだけじゃないですか。
なぜ、支援を自分の属する国や土地の人に限定しなければならないのか
私にはわかりません。
1964年、東京オリンピックはそれだけではなかったと私は思います。
私は小学生で、外国の名前もどこにその国があるのかもろくにわかりませんでした。
開会式や閉会式で、今まで聞いたこともない国の選手たちが
ニコニコと手を振って会場内を歩いているのをテレビで見て、
(オリンピックって国際親善なんだなあ)と思いました。
時代は移り、その時より社会は明らかに閉じています。
自国選手のメダル数ばかり気にしている今のオリンピックなんか、
もうやらない方がましだと思うのは私だけでしょうか。
マスごみ}の統計でも、原発再稼働に反対している人達が「大多数」です。
現在、再稼働が進み始めているのを「やまもとたろう」さんは、どう説明するのか。
再稼働が進んでいる事実が、それを「大多数」が望んでいることの証明になると、あくまでも主張されるつもりでしょうか。
あなたは、この世のことはすべて神の御心のままだとお考えなのでしょうか。
私の感覚では、ずいぶんオメデタイ思考方法――あるいは思考停止方法?――をされているように思えます。
世の中のあれこれは、「大多数」が望んだからそのようにあるのですか。望まなくなったら、違うようになるのですか。
ふーーん。
かなり楽な考え方かもしれません。
世の中の現状をすべてそのまま肯定して、なんの疑問も持たないで過ごせたら、苦労はないでしょうね。自分がいつも「大多数」の側にいると思えたら、天下無敵だ。
でも、あまり面白い生き方にはならないかも――。
例を挙げていったらきりがありませんが、たとえばGPIFの運用実績です。損失が5.2兆円だそうです。あれは、国民の「大多数」が望んだことなのでしょうか。
株式「投機」なんて、バクチ以外の何ものでもないし、それをやって仮りに儲かったところで、他方には損をしている相手が必ずいる。自分の老後の生活を、そんなバクチのあがりで支えたいと思うような人間が「大多数」なんでしょうか。「大多数」が望んだから、株式投機の割合が変わったのでしょうか。
今上天皇の希望する「生前譲位」をアンケートに回答した国民のうちの9割が肯定していました。ところが、政府の腰が重くて、なかなか実現には至りそうにありません。
まさに「枚挙にいとまがない」というやつですよ。いったい「大多数」が戦争を望んでいたのだろうか、ということです。
ブルーはーとさんの言葉――こんな風に考えるのは私だけでしょうか――というのは、レトリカル・クエスチョンの意味合いもあると思います。別に「私の考えは“多数派”ですか、それとも“少数派”ですか? 教えて下さい」と聞いているわけではない。
ヒトが、何の権威づけもない個人の資格で個人の意見を表明しているときに、「お前の言ってることは少数派の考えだ」と決めつけてどうするのですか。それに何の意味があると思っているのですか。
自分自身の責任において、自分自身の考えるところを伝えようとしたらどうなのか。
それが、私の言いたいことでしたが、どうも理解していただけなかったようです。
今回の補足で少しはお分かりになったでしょうか。
この環境を作るためにはとってもお金がいるんですよね。練習場などのインフラや器具などの低廉化。組織運営のための人件費などなど。怪我をした時のサポート体制やメンタルケアもお金がいります。選手が力を出し切るためにはとにかく巨額のお金が必要です。
スポーツだけで生活できるのは日本では野球、サッカー、ゴルフといった一握り。それ以外の種目の選手達は、スポーツに集中できればもっと自分を高められるのに、と思ってます。自己表現が制約されている。もっと競技に身を捧げたいのに。
オリンピックはナショナリズムを刺激して、金を作るビジネスですが、選手達にとっては千載一遇のチャンスです。うまくやれば、自分だけではなく、他のプレーヤー達の待遇改善にもつながる。それが現代のオリンピックです。
もし、選手達に敬意を払うのであれば、思いっきりオリンピックブームに乗っかって、金を落としまくる。それが一番です。
大丈夫です。トップレベルのスポーツ選手は一般人のナショナリズムなんてゴミのかけらとも思ってません。現代のアスリートは、常にもっと大きな戦いをしてるのですから。
「私だけでしょうか」という質問には、「いいえ、私も同意見ですよ」or「いや、私はあなたの考えには反対です」と応えるのが普通でしょう。それが言論というもの。
「大多数」がどう考えているかなんて分かりはしないし、ブルーはーとさんの言い分が「少数意見」だと推定する根拠もありません。
NHK(日本幇間協会)をはじめとする報道が浮かれ騒ぎ、夜遅くまでTVを観ていられるヒマ人たちがfaxを送り、如何にも日本国中が「応援」しているかのように演出されても、実はブルーはーとさんの感想がサイレント・マジョリティのそれかもしれない。
「やまもと某」は、勝手に想像した「大多数」を云々しているだけで、自分自身がどんな論拠でどんな風に考えているのかは、ひと言も書いていないのですね。これは、ただの混ぜ返しで、まともな意見のやりとりには至り得ないと思います。
私自身も、金もうけの話や「国威発揚」ばかりが前面に出てくるのにはうんざりです。そして、ブルーはーとさんも引用されたように、メダルの数を数えて喜んでいるようなさもしさがオリンピックの精神に無縁なのは、改めて議論するまでもないことを確認しておきたく思います。
ついでに書きますと、やたら「感動」が云々されるのは、私は鬱陶しくてならないです。スポーツをスポーツとして楽しめる成熟した文化が育つことに期待したいのですが、なかなか難しいのが現実のようです。
ネーミングに関しては、この名は私の本名に似ていて、中高時代のニックネームであったのでハンドルネームとして使っています。安易に名付けた同級生を叱ってやってください。
それでも最後に一言、報道に踊らされている大衆もまた一国民です。あなた様の文面から僅かながらそのような国民を見下しているような印象を受けます。私が勘ぐりすぎているんでしょうかね?
「何にでも異を唱える」というのはどこの誰のことですか。私は寡聞にしてそういう人を知りません。「何にでも迎合する」ことなく、一つ一つの物事を詳しく検討し、考える人はたくさん知っています。
あなたのしていることは深く文も読まず、すぐにレッテルをはる浅薄な思考に基づくもので、いちいち答えるのも面倒なんですよ。
一つ、問題提起します。あなたは下のツイッターのつぶやきについてどう思いますか。
@_cat_eater
国費使って「参加することに意義がある」とかいう方が税金の無駄
国費使うなら金メダルを取る義務がある
@twit_nya
弱っちい奴は五輪なんか連れてくな
税金の無駄遣いだし日本の恥晒
@bonsoir_chien
メダル穫れる望みのない種目で選手派遣するの税金の無駄遣いだと思う
@tomo8888888
オリンピック
限りある国費で出場する選手達には
必ずや金メダルを目指して欲しい!
最低でも金 とは言わないが、最低でもメダル!
その日の丸を背負う覚悟のないものは、出場を辞退するべし!
国の威信をかけて精一杯戦うべし!
日本人選手の健闘を祈る!
ニッポン チャチャチャッ
ニッポン チャチャチャッ
ところで、NHK(「おはよう日本」21日)が五輪開催5つのメリットを次のように解説していたそうですね。
・国威発揚
・国際的存在感
・経済効果
・都市開発
・スポーツ文化の定着
第一に「国威発揚」を天下のNHKが解説するとはすごいですね。これはナチスドイツが初めてベルリンオリンピックで掲げた目標です。それが今や日本の常識になってしまっているんですね。
しかし、オリンピック憲章では、「オリンピック競技大会は個人種目、または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。」「表彰式での国旗掲揚や国歌の演奏は選手個人をたたえる一方法に過ぎない。」「栄誉はあくまでも国ではなく選手個人に帰する。」と何度も何度も書いています。国別メダル取得ランキングも禁止しているそうですね。
今の日本の風潮は、オリンピック憲章の精神と真逆のように思えるので、私はそれをブログに書いたのです。
政治家でもできないことを戦後日本のスポーツ選手が歯を食いしばって成し遂げてきたことは歴史上、着く必すべきだと思います。
時代は変わって、今、世界中に閉塞感があり、戦争前を想起させる事件や風潮がある中での今年のリオデジャネイロオリンピックでした。「スポーツの祭典」「参加することに意義がある」という近代オリンピック創始者が言った謳い文句の陰で、自国にメダルをもたらす選手が英雄であり、そうでない選手への「税金泥棒」という非難や、自国選手とのライバルへのブーイングが巻き起こること自体、現代オリンピックの問題がはっきりと示されていると思います。その問題に目をつぶり、浮かれているのではだめじゃないか、と私は思っています。
あなただけではないと思いますよ。でも大多数の意見ではないでしょう。大多数がそう考えるならやらないでしょうから。多分あなたの意見は少数意見でしょう。何にでも異を唱える人は何処にもいるのですから。
私は日本を応援しながらも、だんだんと世界の美女に心を奪われ、メダルよりも欲望のほうに走ってしまいがちなオリンピック観戦でした。
バトミントンの松友さんにほれちゃいました。
さて、あなたがどの文面に対して「すこし卑屈になっていませんか」と言うのか示していないのでさっぱりわかりません。聞いているんですか?じゃ、答えましょう。
「卑屈になっていませんよ。私は誰に対しても卑屈になりません。私は私です。」
オリンピックとその他一般の国際スポーツ大会の違いにお気づきならオリンピックゲームに対して無防備に「スポーツの祭典」と手放しに礼賛できないということを私は述べています。
「上田馬之助」さんのコメントははっきり言って感情的であるだけで私の文の何をもって「ヘイトスピーチに近い」のか筋道が立っていません。論拠が示されていないのです。そもそも「ヘイトスピーチ」とはどういう概念であるのか、ご自身で一度コトバンクでも調べてください。間違った使い方をしていると思いますよ。
「実は自分と異なる意見を持つ人を見下し排斥する人なのですか。」
自分が好きなオリンピックへの批判を許さぬあなたこそ、そうなんじゃないですかあ~。
上の文は鏡を見ておっしゃってください。
凝り固まらずにもう少し広い心を持ったほうがいいと思います。
自国選手を応援すること=他国選手を排除することではないと思います。
庶民は自国選手に関心を持ちつつも、スポーツの祭典そのものに感動も求めているんですから。
狭い視野で世界を見ないことを掲げているあなた様は、実は自分と異なる意見を持つ人を見下し排斥する人なのですか。
今回の記事を拝見してヘイトスピーチに似たものを感じました。