【復員兵たち】
1945年8月25日、ヒロヒト昭和天皇は、
海外で武装解除した日本陸海軍の将兵に対し、
「速やかに整然と復員し、皇軍有終の美を為すことが私の願いだ」
と勅諭を告示しました。(「兵を解くにあたり一糸乱れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し、以て皇軍有終の美を済すは、朕の深く庶幾する所なり」)
満州・朝鮮に約100万人、
中国に約110万人、
南方諸地域に約160万人の合計約370万人も出兵していた
陸海軍将兵は、日本に「復員」してきました。
(写真は『敗戦国ニッポンの記録昭和20~27年上』米国国立公文書館所蔵写真集、半藤一利編著、アーカイブス出版刊;「写真記録 信州の昭和」信濃毎日新聞社などから)
生きて故郷の土を踏んだ復員兵の皆さんは、
どれほど、この日を待ち焦がれていたことでしょう。
しかし同時に、帰ることの叶わなかった仲間を想い、
その後の人生を過ごしたことは想像に難くありません。
【引揚者(ひきあげしゃ)たち】
兵士達の帰還が迅速に行われたことは多くの記録が語っています。
しかし、中国満州など「外地」に国策として移住した
約300万人の「引揚者(ひきあげしゃ)」と呼ばれる民間人は、
天皇の勅諭対象にならず、国家の保護もなく、
自力で母国へ帰って来るしかありませんでした。
地域別では、
中国東北部(旧満州)127万人、
満州を除いた中国本土約49万人、
台湾約33万人、
朝鮮半島約72万人(うち北朝鮮約30万人)、
樺太(サハリン)約39万人と続きます。
国に見捨てられたと言っても過言ではない引揚者たちが
帰国するまでの労苦は筆舌尽くし難く、満州だけでも、
引き揚げの際の犠牲者は日ソ戦での死亡者も含めて24万人超(
そのうち8万人は一般開拓民)で、
東京大空襲や広島、長崎の原爆、沖縄戦を数で上回る惨事でした。
「世界史上にもこれほどに苦難の祖国帰還の例はない。
とくに幼い引揚者の疲れ切った姿には、
戦争の残酷さ、残忍さというものを強く突きつけられ、
出迎えた人々の涙を誘ったという。」
という記事もあります。
↓復員船とは違い、漁船で命からがら引き揚げてきた人々。
↓佐世保港。私の両親も天津からこの港に引き揚げてきました。
↓東京品川駅。 両親を失った子が首に遺骨を下げています。
当時、全ての子どもの顔を正視する資格を持つ大人はいたでしょうか。
自分達の責任で子どもをこんな目に遭わせたのです。
今の日本の政権は再び、このような事態を招きかねない方向に
庶民を誘導しているとしか思えません。
私たち大人は、また、戦争を選ぶのでしょうか。
気がついたら、もう戦争が始まっていた、というようにぼんやりと。
1946年10月、当時10歳でした。
叔父・叔母2人・妹2人・母の従弟と、6つの遺骨を一番下の叔母が持ち、無蓋車で錦州に着き、葫蘆島からは貨物船の荷物を積み込む船底に押し込められて、引き揚げてきました。
富士吉田の家がありましたので、そこに住むことはできましたが、学校では「引き揚げ者」と言われ虐めを受けたこともあります。
軍隊は自国の人を守りません。私たちは棄民でした。
私たちは敗戦時に遡って日本人というものを厳しくチェックし直さないと、またアホみたいに同じことを繰り返しますね。こきおばさんの文章はそのことも私たちに問いかけていると思って読ませていただきました。