夏休み、大阪に帰ったとき息子が、
「最近、SIONの『がんばれがんばれ』ばかり聴いて
自分に言い聞かせている」
と言うので、ふうんと言いつつ心中ギクッとしました。
(そんなに自分で自分を応援し続けないと持ちこたえられない状況なのか)
と思ったのです。
9月、山東省菏澤の学校に戻って、
趙さんとスピーチ原稿を作り始めたとき、
趙さんが書いてきたのは
「高校の特別優秀クラスにトップ2の成績で入学した後、
ご飯の味も分からなくなり、
寝ている時間も緊張がほぐれないほど頑張った結果、
鬱病、そして不登校になった。
そんな自分に対する周囲の言葉は、
『もっとがんばれば元のようにいい成績になる。がんばれ、がんばれ』
だった。私は、そんな言葉が欲しいんじゃないのに!」
というものでした。
辺野古の海でカヌーによるフロート設置作業阻止のため、
ロープを必死に掴んでいる指を逆に捻られたり
海保に海に沈められたり、
まさに命がけで気が遠くなりそうなくらい必死に抵抗している時、
支援の船から「がんばれー!」と言う声が飛んでくると
(毎日、毎日、全力でがんばっているのに、これ以上どう頑張ればいいんだ)
と違和感を感じるという声を先日読みました。
抜き差しならぬ状況のとき、自分に言い聞かせる「がんばれ」と、
他人に言う「がんばれ」は、意味が違ってきます。
抜き差しならぬ状況は、
当事者でなければ100%分かることができないのですから、
「がんばれ」はどうしても他人事になってしまいます。
では、どんな言葉が大切なその人に届くのでしょうか。
私は、その人に向かって発する言葉を
思いつかないでいます。
ただ、その人は何を感じ、何を言いたいだろうと想像します。
その人の体験を自分のものにしようと、
出来もしないくせに感じる努力をします。
すると、
「100%同じ心、同じ体でなくてごめんね。
苦しんでいるのにごめんね。」
隙間の空いた心に哀しく苦い「ごめんね」が詰まっていきます。
「がんばれ」は自分に言うとき、
ときに持ちこたえる効果を自分自身に与えますが、
他人に発するとき、
主観的意図とは別に、せいぜいが応援の意味しかなく、
ときに心を折ることさえあると肝に銘じなければ。
「がんばれ」は、自分に言う言葉。肝に銘じます。
ギリギリまで頑張らせるほどその人を追い詰めてはいけないんですね。沖縄の現状は政府がそれを強いているのですが、ホンド人間の声の小ささが、政府を野放しにしているので、ホンドの人間たちこそ声をあげる努力をつづけないと・・・・・・ですね。