雫石の温泉宿で、夕食をとっていた時のことです。
「うちのおばあちゃんは、樺太からの帰還者だそうです」
「樺太? ということは、戦争中に樺太にいたんですか」
「そうらしいです。ぼくも詳しいことは聞いていませんが」
樺太は、もともと日露混住の地とされ、明確な領有権が定められていませんでしたが、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南(南樺太)が日本に割譲されました。
ソ連は、1945年のヤルタ会談で、「南樺太のソ連への返還、千島列島の割譲」を条件に、日ソ中立条約を一方的な破棄、45年8月8日に、対日参戦し、日本が14日にポツダム宣言を受諾した後も9月5日まで攻撃を続けました。そして、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞を占領したのです。
45年時点で、南樺太には日本人が約40万人いましたが、ソ連参戦後、本土に帰ることができたのは10万人。残りの約30万人はソ連の支配下に残らざるを得ませんでした。
ソ連は、日本人の引き揚げには冷淡で、引き揚げが実現したのは1946年の暮れでした。その後、49年夏までに、約30万人の日本人は全員本土に帰還。しかし、同じく満州にいた約3万人の朝鮮半島出身者は、戦後も長くサハリンに残留し、「サハリン残留韓国人問題」として残りました。
私は、かつてこの問題に関し、角田房子著『悲しみの島サハリン』(新潮文庫)や大沼保昭和『サハリン棄民』(中公文庫)などを読んだことがあります。最近では、占守島の戦闘を題材にした浅田次郎著『終わらざる夏』など。
「『終わらざる夏』って、読んだ?」
「いえ、読んでません」
「あ、家にあるやつね」と娘。
「読み始めたけど、途中でやめた」
「面白いよ。千島列島の最北端の占守島っていう島に、日本が降伏した後になって、ソ連が攻めてくるんだ。ところが、その島には日本の関東軍の精鋭が待ち受けていて、ソ連がボコボコにされちゃう」
「なんで、そこに精鋭がいたんですか」
「最初、ソ連は仮想敵国で、国境を固めていたんだけど、日ソ中立条約を結んでから、兵力を南に転進させたかったわけ。でも、その頃には戦車軍団を移送するだけの輸送船がなくなってたし、制海権も奪われていたから、宝の持ち腐れで、その島にあったらしいよ」
「へえ、こんど読んでみます」
「ぼくは、今度おばあちゃんにお会いしたとき、ぜひサハリンからの帰還について聞いてみたいなあ」
次、いつ岩手県に行けるのか、わかりませんが。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます