わが社の韓国人社員と昼食を食べていた時、大阪のコリアンタウンの話になりました。彼も、大阪に転勤になってまだ9か月ほどで、大阪の事情に明るくありません。
「大阪にもコリアンタウンがあるんですってね」
「うん、鶴橋が有名だね」
「新大久保みたいな感じですか」
「ぼくも3回ほどしか行ってないからよくわからないけれど、ずいぶん雰囲気が違うよ。韓国料理も日本化しているし、だいいち、大阪の在日は日本語がしゃべれない人が多い」
「そうなんですか。中国の朝鮮族は、みな韓国語しゃべりますけどね。なまってるけど」
「あそこは朝鮮語で教育しているんでしょう。コリョサラムなんかも、今は韓国語しゃべれないんじゃない?」
「コリョサラム? なんですか、それ?」
「ほら、中央アジアにいるコリアン。知らないの?」
「え? 聞いたことないです」
「戦争中に、沿海州にいた韓国人だよ。スターリンが民族まるごと中央アジアに強制移住させて、ずいぶん犠牲者が出たみたいだよ」
「今度、調べてみます」
今の韓国人は、在日韓国人や朝鮮族については知っていても、サハリン残留コリアンや、中央アジアの僑胞について、ほとんど関心がない。
ソ連極東の沿海州には、朝鮮時代末期から朝鮮人が流入し、1930年代には15万人以上のコリアンが住み着いていました。スターリンは、1931年の満州事変以後、沿海州のコリアンが日本のためにスパイ活動を行っていると考えるようになり、そこにいたすべてのコリアン系住民を、中央アジアに強制移住させました。その数は17万人以上に及んだそうです。
農民や漁師が多かったコリアンは、中央アジアの乾燥地帯に送られ塗炭の苦しみにあえぎました。4万人以上が亡くなったと言われますが、生き残った人々は灌漑施設を作るなどして、不毛の地を穀倉地帯に変えたということです。
このようなコリアンを、韓国では、旧満州のチョソンジョク(朝鮮族)と区別して、コリョイン(高麗人)またはコリョサラムと呼びます。
かつて、1970年代のオリンピックで、ルーマニアのコマネチが10点満点を連発して大活躍しましたが、同じ時期に好敵手だったのが、ソ連のネリー・キム。名前が「キム」だし、顔だちもアジア系。なんでソ連代表なの?と思いましたが、彼女はコリョサラムだったのですね。
調べてみると、タジキスタン出身で、お父さんは朝鮮系、お母さんはタタール人だそうです。
引退後、韓国の国家代表チームのコーチをしていたこともあるそうですから、彼女のことを記憶にとどめている韓国人も多いかもしれません。
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