犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

4月某日の犬鍋日記

2014-04-30 23:07:10 | 日々の暮らし(帰任以後、~2015.4)

2014年4月某日 晴れ
実家で7時前に起床。83歳の母が焼いてくれた目玉焼きとパンを食べた。8時過ぎに出勤。今日、母は週一回の謡の稽古の日。軽度のアルツハイマーと診断された後も、謡は続けている。先週の日曜日の謡会では仕手を務めたほどだ。留守番の90歳の叔母のために、ヘルパーが来てくれて、夕食を作ってくれる予定。いつもより少し遅くに仕事が終わり、○○駅から20時少し前に電話をすると母が出た。家に着いたとき、母は僕のために餃子を焼いてくれていた。ありがたいことだ。食卓には、ヘルパーが叔母のために作ったチャーハンがあった。少し前に故障した電子レンジを今日買い換えたそうだ。ビールを飲みながら、新品の電子レンジでチャーハンを温めた。昨日、母はかかりつけの医院で薬をもらってきた。頻尿を抑える薬が追加され、4種類になった。アルツハイマーの症状の一つで、よく薬を飲み忘れるので、もらった薬をカレンダーに貼ることにしている。母にさせるのは難しいため、食後、僕が薬を貼った。10時頃、母が「お風呂に入るわね」と言って、風呂に入った。母はいつも寝しなに風呂に入る。僕は寝室のある二階にあがり、PCをインターネットに接続した。11時頃、煙草を吸いに一階に降りると、風呂の電気が点いていた。母が電気を消し忘れるのは珍しいなあ、と思いつつ、母の部屋に行って声をかけても返事がない。部屋にもおらず、トイレにもいなかった。胸騒ぎがした。急いで、浴室の扉を開けると、母が浴槽の中で体を丸めるような格好で、顔をこちらに向けて沈んでいた。頭は完全に水没し、目は閉じられていた。びっくりしてすぐに浴槽から抱えてだし、水を吐かせようと思って横向きにしたが、水はあまり吐かなかった。まず救急車が先だと思い直し、居間へ戻って119番。事情を話すとすぐに心臓マッサージをするように言われた。指示通りに胸部をマッサージした。3分後に救急車が到着、あとは救急隊に任せた。隊員から「毛布を」と言われたので、母の毛布を渡したあと、11時12分に妻に連絡、「母が風呂で溺れた、救急車を呼んだ」。兄夫婦への連絡を頼んだ。救急隊員が救命活動をしている間に奥の部屋から叔母が起きてきたので、事情を手短に説明した。びっくりしていたが動転している様子はない。11時30分頃、救急車で○○大学病院救命センターに向かう。もう一度妻に電話すると、兄には連絡がつかないが奥さんには連絡がとれたとのこと。私の家族も兄の家族も全員、車で病院に駆けつける。救命センターに運び込まれたあとは、待合室でじりじりと待つのみ。0時過ぎ、呼ばれて、「これ以上マッサージしても蘇生の可能性はない」と告げられ、臨終を確認。0時7分。直後に長女が病院に到着。事情を説明した。家に一人で残してきた90歳の叔母に電話するが、応答がない。叔母のことが心配になり、長女に実家に戻ってもらうことにし、タクシーに乗せた。0時半過ぎ、兄の家族が到着。兄も来た。甥は号泣。40分、長女からラインがあり、叔母の無事が確認された。1時頃、遺骸を霊安室に移動。叔母も長女に付き添われて到着。2時前、埼玉のわが家から家族全員が到着。遺骸は検視のために警察署に運ばなくてはならないそうなので、家族は2台の車に分乗して実家に戻った。警察からの指示に従い、浴室は現場検証のために何も動かさずに保存。3時頃に警察が来て、発見時の状況などの事情聴取とともに、写真をたくさん撮っていった。帰ったあと、妻と兄嫁に風呂の片づけと掃除をしてもらった。翌日、どうしても務めを休めない、幼稚園教師の次女が先に寝た。放心状態のまま、朝5時ごろに全員仮眠。


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