犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

追悼、沢村忠

2021-04-11 23:16:35 | 思い出
 3月26日、キックボクシングの名選手、沢村忠氏が亡くなりました。78歳だったそうです。

 私が小学生のころ、テレビでプロレスとキックボクシングを観戦するのが楽しみでした。昭和40年代のことです。

 プロレスは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、サンダー杉山などが活躍しており、キックボクシングのほうは、沢村忠が圧倒的な強さを誇っていました。

 5歳上の兄もいっしょに見ていましたが、あるとき「プロレスは八百長らしい」ということを誰かから聞いてきて、以来、兄はプロレスを見なくなり、「本気の格闘技」であるボクシングに夢中になっていきました。

「キックボクシングは、本気なの?」

「たぶんね」


 プロレスと同じように、毎週試合が行われているキックボクシングは、試合時間が短いとはいえ、ボクシングに比べてあまりにも過密なスケジュールで、「やや疑わしい」という気はしていましたが、私も兄も、「本気」であることを信じてテレビを見ていました。

 同じころ、沢村忠を主人公にした「キックの鬼」というテレビアニメをやっていましたが、アニメの中ではもちろん「本気の試合」ということになっていました。

  小学校高学年になると、格闘技への関心は薄れ、スポーツ観戦といえば野球(それも巨人戦)ということになり、いつしかキックボクシングを見ることはなくなりました。

 沢村忠氏が亡くなって、関連記事を読んでみましたけれども、キックボクシングが「本気の競技」だったのか、プロレスのようにショーだったのかは、グレーですね。

昨年末のNumberの記事(リンク
Carat Woman(リンク

 キックボクシングは、ムエタイ(タイ式ボクシング)のことだと思っていましたが、ムエタイを参考に、日本で生まれた格闘技であることを初めて知りました。

 何しろ毎週試合をしますから、相手を探すのがたいへん。ムエタイをちょっとやったことがある程度で、しろうと同然のタイ人を出場させたこともあるそうです。選手のレベルはいろいろあったのでしょう。

 後年、兄から、「沢村忠はパンチドランカーで廃人になったらしいよ」と聞かされました。当時、インターネットがあったわけではなく、真相を調べることができないまま、それを信じていましたが、今回あらためていろいろな記事を読んで、引退後の人生を知りました。

 キックボクシングを引退した後、自動車修理工場を経営するかたわら、子どもたちに空手を教えていたんだそうです。

 沢村氏は1943年満州生まれ。祖父から鋼柔流空手の手ほどきを受け、日大在学中は全日本選手権で優勝。60戦無敗。
 
 キックボクサーとしての戦績は、241戦232勝(228KO)5敗4分と、これまた驚異的。

 引退後は、マスコミに出ることなく、「廃人になった」とか、「死んだ」などと噂されていましたが、引退のいきさつと、キックボクシングの指導者にならなかった理由を次のように語っています。(リンク

「5歳の時からお爺ちゃんに空手を習って、僕は武道家としての生き方を大事にしてきました。キックを始めた時『武道を売り物にするな』とお爺ちゃんから勘当を受けて、現役を続けた10年間、一度も実家へ帰れませんでした。だから、家族は一度も試合を見てません。

 引退というのはその世界と決別するということですから、僕は武道、祖父が教えた生き方に従い、引き際というものを大事にしました。それにキックボクシングの攻撃というのは、危険な凶器と一緒です。10人とか、僕が人間性を把握できる範囲ならいいけど、当時目黒ジムだけでも練習生が600人いましたから、どういう人間か分からないのに凶器を与えるような、そんな無責任なことは僕にはできません」

 小学生時代の私にとって、スーパーヒーローだった沢村忠。とても立派な人格の備えた方だったことを知りました。

 あらためてご冥福を祈りたいと思います。
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